第3話 ジョヴァンニ・マルティーノ
蜜蜂が飛び立とうとしている。
真昼の日差しがさんさんと降り注ぐ中、石畳の続く通りで銃声が上がった。ま白い壁を彩るゼラニウムの鉢に一人の男が倒れ掛かる。樽のように大きな腹から血を流し、奥歯を噛みしめて唸っている。周囲の男たちが襲撃者を取り押さえ、医療機関に通報する声が上がる。息も絶え絶えな男は脂汗が目に入るのを感じて目を閉じた。
「死ぬのですか」
日の光に煌めく長い髪を揺らし、一人の男が現れた。季節外れにも白い外套を身に纏った男、アルベルトは倒れた男を静かに見ている。
「死ぬんだな」
低く甘い声が響いた。夜闇の針葉樹のような男、ヴォイチェフもこの日差しの中で黒い外套をきちんと纏い、それでいて少しの汗も見せない。
「こんにちは、ヴォイチェフ」
「こんにちは、アルベルト」
二人はそっと笑みを浮かべて、地に臥す男の両脇に立つ。
「こういう」
ヴォイチェフが銀のシガレットケースを取り出しながら口を開く。
「こういう死に方というのは大概夜になるものだが、こんなこともあるか」
ブックマッチを指で挟み、擦る。軽く吸いながら煙草に火をつけると、煙がアルベルトの方に流れた。
「なんです、さっそくそういう話ですか。久しぶりに僕と会うのに」
形のよい眉を片方あげながら、アルベルトは煙を手ではらう。
「もっと言うことがあるでしょう。どうしていたとか、寂しかったとか」
「なんだ、拗ねてるのか」
「ええ、拗ねてます」
アルベルトはそう言って腕を組み。ぷいっとそっぽを向く。その子供のような仕草にあっけにとられながらヴォイチェフは笑う。
「お前のそういった所を見られるのは私の特権だと思っていいのかな」
「知りません」
「こっちを向いてくれ、頼むから」
ヴォイチェフは困ったように黒い髪をかき混ぜる。
「お前が元気にしてると聞いていたから、少し心細かったんだよ。私はこんなに寂しい思いをしているのに、とね」
アルベルトはちらりとヴォイチェフの方を見ると溜息をついた。
「……貴方以外の人の前で寂しいとか、つらいとか、そんな姿を見せるわけないでしょう」
「ああ、そうだな」
「貴方は僕の特別だということを忘れないでください」
「ああ、悪かった」
「……自分でも腹が立ちます」
「ん?」
「嫌でしょう、こんな風に拗ねて、いじけて。貴方に対する信頼があれば、そんなことしないはずなのに」
「いや?」
「なんだか貴方ばかりが余裕な気がしたんですよ」
「そんなことはない。私がどれだけ焦ったか。お前の様子を聞いて、寂しいのは自分だけかと思った」
「……馬鹿ですね」
「私たち二人が馬鹿さ」
「ええ、本当に」
ヴォイチェフの顔を正面からとらえて、アルベルトはくすりと笑った。流れてくる煙草の香りを胸いっぱいに吸い込む。そして仕切りなおすように口を開いた。
「確かに、こんな時間にこんな死に方。あまりないですね」
「だいたいは夜に紛れてやるからな」
「人死にに似合う時間というのもないですが」
「まったくだ、人はいつだって死ぬ」
ふう、と煙を吐き出すと火を消し、また新しい煙草をつける。アルベルトはその仕草をじっと見つめていた。
「どうした?」
「いえ、やはり久しぶりなので。とても素敵ですよ」
「……そうか」
わずかに視線を逸らしたヴォイチェフを見てアルベルトはくすくすと笑う。氷のような碧い目が三日月のように細められるのを見て、ヴォイチェフの火のような目も溶けるようになった。
その時、倒れていた男の喉がぐっと鳴り、呼吸が止まった。閉じられた目は開くことなく、周りの者が騒いでいる声も届かなくなった。
アルベルトが懐から金色の懐中時計を取り出す。蓋に刻まれた月桂樹が日のもとで煌めいた。
「時間ですね」
「そうか、わかった」
ヴォイチェフはそう短くなっていない煙草を揉み消して、吸殻を収める。
男のもとにしゃがみこんだアルベルトは、顔を近づけるとそっと息を吹きかけた。男は呻き声と共に目を開くと、目の前のアルベルトを見てぎょっとしたように身を仰け反らせた。
「う、まさか、私は死んだのか?」
「ええ、そうです。お迎えに……」
「嫌だっ」
男が叫ぶ。
「嫌だ、私は、死ぬのは嫌だっ。頼む、何とかしてくれっ」
緋色の文字で“Giovanni Martino”と書かれた若草色の手帳を捲くり、ヴォイチェフは顔を上げる。
「ジョヴァンニ・マルティーノだな」
「そうだ、いや、違うっ。私じゃない、それは私じゃないっ」
「そうか、違うのか」
男を見おろしたまま、手帳を閉じる。
「ではずっとそこにいろ、正しい迎えが来るまで。お前が死んだことに変わりはないのだから。私たちはそれで構わない」
ヴォイチェフはくるりと踵を返す。アルベルトも溜息をつくと立ち上がり、去ろうとする。男はそれを見ると追い縋るようにアルベルトの白い外套を掴んだ。
「待ってくれっ。私はどうなる? 頼む、生きかえらせてくれっ。置いて行かないでくれっ」
「生き返らせることなんてできませんよ。それに、貴方がジョヴァンニ・マルティーノでないのなら、僕たちにできることはありません。彼の言った通りです、ずっとそこにいてください」
男は愕然とした表情でアルベルトたちを交互に見る。尚も縋ろうとした手を振りほどいて、アルベルトはヴォイチェフのもとへと歩きだす。それを追うために立ち上がろうとして、男は自分の体がその場からピクリとも動かないことに気がついた。
「ああ、待ってくれ、頼む、頼むっ。嫌だ、ずっとここにいるのは嫌だっ」
白と黒の背中を見ながら、男は叫ぶ。
「私は、もっと組織を大きくしなければいけないんだ……。まだこんなところで死ぬわけには……」
世界がどんどん暗くなっていくような感覚に陥る。動かない体で二人の背中に縋ろうとして、ぐっと目をつむった。
「わかった、私だ。私が、ジョヴァンニ・マルティーノだっ」
「はい、わかりました」
ジョヴァンニのそばで、優しい声がした。すぐに目を開けると、そこには去って行ったはずのアルベルトとヴォイチェフの姿があった。涙を流し呆然とするジョヴァンニの前にしゃがみこみ、アルベルトは微笑む。
「自らの死を受け入れるのはつらいことです。よく耐えてくださいました」
「改めて問う。お前がジョヴァンニ・マルティーノだな」
「……ああ、そうだ」
「立てますか」
差し出されたアルベルトの手を数瞬見つめて、その手をとる。今度はすんなりと立ち上がることができた。けれどもただ、ただひたすらに疲れていた。
「……死にたくないんだ」
「はい」
「まだやることがあるんだ……。まだ、まだ……」
「はい」
アルベルトはジョヴァンニの手を温めるように包み込む。
「わかっていますよ」
人がつらい思いをするのが、自分が同じ思いをするのと同じくらいつらかった。しかしヴォイチェフも、静かに耐えて言う。
「ジョヴァンニ・マルティーノ。ここにサインを貰おう」
ぐっと口を引き結び、ジョヴァンニは震える手で最後のページにサインする。ヴォイチェフはそれを確認するとひとつ頷いて手帳を仕舞った。
「手重い決断を急かせてすまなかった。しかし次の場所へ、私たちが責任をもって送ろう」
「私は、どんなところに行くのだろう……」
「今はまだ何とも言えないな」
ジョヴァンニは溜息をついて、二人に促されるままに歩き始めた。蜜蜂が後を追うように飛び立った。
それでも一人でいるよりずっと良かったのだ。
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