死者の隣で待ち合わせ

猫塚 喜弥斗

第1話 ロナルド・アイザック

 一匹の猫が走り去った。


 午前一時三十二分、月の明かりが煌々と照る。薄っすらと雪の積もった暗く冷たい路地裏で男が一人、倒れていた。痩せた体をぐったりと壁にあずけ、その呼吸はか細く途切れ途切れだった。目は見えているのかいないのか、うっすらと開いているが焦点は合わない。その腹からは血が流れていた。


「死ぬのか」


 男の前に一人、背の高い男が現れた。夜より暗い髪の色。絹の光沢をもつ重たい漆黒の外套を見に纏い、静かにそこに立っている。非情ともとれる言葉を放つその声は、しかしどこか甘い音がする。


「おや、貴方でしたか」


 先程とは別の、ふわりと優しい声が響いた。黒い男のそばに、白い男がいつの間にか立っていた。線の細い長髪の男で、月長石のような色の髪は明かりの届かぬ影の中でもうっすら光っているように見える。そしてやはり、黒い男とは対称的に白い外套を纏っていた。


「こんばんは、ヴォイチェフ」


 白い男はそっと微笑み、静かな声で挨拶する。


「こんばんは、アルベルト。良い月だな」


 ヴォイチェフと呼ばれた黒い男も、空を見ながらそっと返答する。ヴォイチェフとアルベルト、二人の対称的な男は雪の上に座り込む男の両脇に立つ。足音はなかった。まるで誰もそこにいないかのような静寂だった。

 ヴォイチェフは外套のポケットから銀のシガレットケースとブックマッチを取り出した。煙草を一本咥え、マッチの軸を半分に折り、親指と人差し指で挟む。軽い摩擦音が響いて明かりが灯った。そのまま煙草に火をつけると深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。煙は風に流されアルベルトの方へと向かった。


「お前とは最近めっきり会わなくなって、もうこの地区を外れたかと思ったぞ」

「少し別の区で仕事がありまして。しばらく離れておりました。貴方はもうずっと?」

「ああ。別の者は呼ばれたようだが、私はここに」


 またひとつ、煙を吐き出す。


「寂しかった」


 そう言ってアルベルトを見つめる。燃える石炭のように赤い瞳はどこまでも優しさに満たされていた。アルベルトもそれを見てヴォイチェフに笑いかける。氷河のような碧い瞳ではあるが、目元が和らぐと途端に温かな印象を与える。


「ええ、僕も。貴方のご友人から貴方のご様子を伺っておりましたが、やはり会えぬ寂しさというものは何とも耐えがたいものです」


「まったくだ」


 黒い男は笑った。白い男も笑った。瀕死の男をはさんでいるというのに、穏やかな雰囲気に満たされていた。

 ヴォイチェフは煙草を一本吸い終えるとまたすぐに次の煙草を取り出す。それを見たアルベルトは眉をひそめた。


「吸いすぎじゃありませんか」

「いいだろう、別に」

「僕には吸うなと仰るのに」

「私はいいんだよ」

「意味が分かりません」


 ふー、と溜息をつきながらアルベルトはこめかみを揉む。


「お前が煙草なんか吸ったら様になりすぎて周りが放っておかないからな」

「貴方にも言えることでしょう?」

「お前の前でしか吸わないよ」

「では僕も」


 そう言ってヴォイチェフに白い手を伸ばす。


「貴方の前でしか吸いませんから」


 黒い男は左の眉を少し上げるとにやりと笑って手に持っていた煙草とブックマッチを差し出した。アルベルトはそれを咥えると慣れない手つきでマッチを擦る。なかなか火のつかない煙草に焦れたのか、軽く噛みしめると深く息を吸い込んだ。途端、勢いよく噎せ、体をくの字に折り曲げ咳き込む。肺から煙を全部吐き出すように何度もえづいた。


「馬鹿、そんなに吸うもんじゃない」


 ため息交じりに笑いながらヴォイチェフは煙草を取り上げようとした。それを退けるようにしてアルベルトはもう一度、今度は軽く吸って見せる。眉根を寄せて、ふぅっと細く煙を吹くとひとつ咳払いした。


「これは、僕の好みに合いませんね」


 ヴォイチェフはくっと喉奥で笑うとアルベルトから煙草を受け取った。そのまま口に含んでゆっくりと煙を吸いこむ。


「慣れればいいもんだ」

「では慣れるまで付き合っていただけますか?」

「ん?」

「様にはならなかったでしょう」

「いや?」


 ちろ、と視線だけでアルベルトを見て、目を細める。


「なかなかにいい顔をしてたな」

「……ひどい人」


 拗ねた様に顔を背けるアルベルトを見てヴォイチェフはまた笑った。

 その時、二人の足元の弱々しい呼吸が止まった。目は薄く開かれたまま閉じることはなかった。

 アルベルトは懐から金色の懐中時計を取り出した。月桂樹の葉がぐるりと刻まれた蓋が音をたてて開く。


「時間通りですね」

「もうか、早く感じる」

「そうですね」


 ヴォイチェフが吸殻を灰皿に収めた。


「仕事を始めましょう」


 アルベルトはその場にしゃがむと死んだ男の顔を覗き込む。冷たい雪に手をつき、まるで口づけるかのような距離で男の顔にそっと息を吹きかけた。するとどうだろう、死んでいた男の瞼がぴくりと動き、ゆっくりと瞬きをした。さらに真夜中の冷たい空気を胸一杯にまで吸い込む。その間に、ヴォイチェフは深い赤色をした手帳を取り出した。表紙には金文字で“Ronald Isaac”と刻まれていた。


「立てますか」

「…………ああ」


 痩せた男は首を何度か左右に傾けると、差しだされた手をとって立ち上がる。ぼんやりと空を見つめ、何か考えている。


「ロナルド・アイザックだな」

「ああ。……俺は、死んだのか?」

「ええ、お迎えに上がりました」

「そうか。そうか……」


 ロナルドはぐっと目をつむる。落ち窪んだ目から涙がこぼれた。


「猫は」

「ん?」

「さっきの猫は、どうなっただろうか」


 ヴォイチェフは手帳をパラパラとめくる。終わりのページあたりで止めるとアルベルトが覗き込んできた。


「ああ、ここにありますね。虐められていた猫を助けて、刺された」

「ふむ。ここには彼のこと以外は書いてないからな……。ああ、猫の特徴も書いてあるな。オレンジの縞模様をした、小さい猫か」


 とんとんとん、とページを叩きながらヴォイチェフは考える。


「いたな。そういえば。オレンジの小さいのが向こうに去って行った」

「おや、つまり」

「あの猫は、助かったんだな」


 ロナルドは「よかった」と呟いた。


「ロナルド・アイザック。そのせいで貴方が死んでしまったのに、そう思えるのですか?」

「ああ、いいんだ。どうせろくでもない人生だった。なにか一つ、救えたんなら、俺はそれでいい」

「そうですか」


 アルベルトは目を閉じる。この人間が、なんとも愛おしく思えた。ヴォイチェフも口の端で笑う。


「では、ここにサインを貰えるか」


 ロナルドが最後のページにサインしたのを確認すると、ヴォイチェフは手帳をしまった。アルベルトが声を掛ける。


「行きましょうか」


 そして三人は月明りに照らされるなか歩き始めた。


「俺はどんなところに行くんだろうか」

「そこまで悪いところじゃありませんよ、きっと」

「そうだな」


 町中の時計が一時三十三分を告げ、あとは男の体が一つ残されていた。

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