第三章[10]

 奉仕員としての活動を終え、僕の住み慣れた街に戻ってから1週間ほどが過ぎた。

 新しい住居の登録やら極々な市民としての登録手続きが一通り終わって落ち着いてきた頃に、僕は朝早くから電車に乗り込んで、少し離れた地区へと移動していた。

 向かう先は親父の住まうアパートだ。

 昔に失踪して以来ずっと行方不明のままであったが、僕が出所する前に藤多さんに頼んで調べてもらったのだ。

 別に非合法な手段を取ったわけではなく、辿り方のヒントを教えてもらっただけだが、役所で藤多さんの名前を出せば簡単に情報が手に入ったのだから驚きだ。

 この国では更生官というのは大変な権力があるらしい。否、更生官だからといっても普通はこんなに好き勝手できないはずなのだが、そこを詮索するような愚かな真似はするまい。

 本音を言えば今でも親父と会いたくはない。ただ、僕が再び人生をやり直すにあたって親父のことを忘れたままにしておくのはなんだか卑怯な気がするし、これは僕にとって必要な通過儀礼みたいなものなんだと思う。

 言いたいことはあれやこれやとあるのだが、では実際どういう風に話しかけるのがいいだろうかと考えだした途端に億劫になってしまう。もはや生理的に受け付けていないのだろう。

 どう接するのがいいかと目をつむって迷っているうちに、いつしか頭の中は眠気に支配されてしまっていた。ここ1週間は慣れない作業ばかりだったので、これはきっと仕方のないことだ。

 まどろみの中へと落ちていった僕はどこか懐かしい夢想をしていた。


「いい加減にしろよお前っ!」

 夢の中にいる青年は無性に苛立っていた。抑えようとしても抑えきることのできない怒りがこみ上げていて、目の前にいる男に怒鳴り散らしていた。青年の正体は僕に違いないのだが、怒りの理由は忘れてしまった。思考が混沌とする夢の中では別に気にするほどのことでもなかった。

「へっへ、何をそんなに怒ってんだよオメェはよ。せっかく良い気分だってのにこれじゃあ台無しじゃねえか」

 怒鳴られている男は酒を片手にヘラヘラとしていて取り合う気もないようだ。僕はこの男のことをよく知っていて、鼻を明かしてやりたいと強く思っているらしい。

「なんだって親父は俺たち家族を壊そうとするんだ」

「俺が何を壊したって? この家のが何をしようが勝手だろ」

 僕が苛立つことを分かっていて、あえて父親という言葉を強調するように言ってくる。

「親の自覚があるならもっと親らしくしろよ」

「お前の言う『親らしく』ってのはなんだ?」

「まだふざけたこと言うつもりかよ。父親なんだったらせめて自分の家族を大切にするもんだろ!? 別に家族旅行とか誰かの誕生日にケーキ食おうだのって話をしてるんじゃない。でも、母さんや俺が生活のために稼いだ金をお前が勝手に酒なんかに変えて無駄にしているのは我慢ならない。どうしてそう足を引っ張ることをするんだ」

「ハッ、今まで飯を食えて来たのは誰のおかげだよ。たったの数カ月働いてないだけでこうも文句を言われるなんざ悲しいねぇ。へへっ」

「自分の家族に飯を食わせるなんてのは親の務めだろうが。当たり前の家族の仕組みで威張りやがって。笑いながら言われても説得力なんかねぇよ」

 いつもであれば僕がここまで親父に食い下がることはないのだが、今回は話をやめようとしないものだから、親父の顔にも苛立ちの感情が浮かんでくる。

「馬鹿にしてんだよ。わざわざ口にしないと分からねえのか? 馬鹿が考えたような親父像を振りかざしやがって。俺は十分まともな部類さ。もっと世間を見てみろよ。毎日この国のどこかで親が子供を殺しただのって事件が起きている。そういう悲しいニュースは知らないとでも言うつもりか? お前のような現実感のない願望ばかり言うやつがいるから世の中は生きづらくなるんだ」

「そんなの屁理屈だ。家族を殺すような人間と比べたらマシだからって自分の責任を放棄していい理由にはならないだろ」

「ったく息苦しいやつだな。お前の言う親の責任とやらを守ったところで、一体俺に何の得がある? 俺はこの国の法律に違反してるわけでもないんだ。まぁ俺が責任を果たせばお前にとっては利益があるだろうから、お前が俺に強制するのも納得だがな」

「俺に利益があるからだなんて理由で言ってるわけないだろ! どうしてそういう穿った見方になるんだ」

 まるで意見がかみ合わない。会話というのはお互いの常識が合っていることが前提でなければならないのに、どうしてこんなにもすれ違ってしまうのだろう。ましてや僕らは親子だというのに。

「別に自然に思ったことを言っただけなんだがな。むしろ利益が理由じゃないのなら、どうしてお前はそんなにも責任とやらにこだわるんだ? そんなものあったところで不自由にしかならんだろ」

「社会で生きてるんだから立場に合ったあるべき姿ってものがあるだろ」

「あるべき姿だぁ? ハッ、人の顔色を伺うやつの言いそうなことだ。俺には単に自分の存在が否定されるのを恐れているだけにしか思えんな。聞こえの良い立派なことは言うものの、実際のお前は経験に裏打ちされた真実味がない。だから言葉にも力がないんだよ」

 抽象的でいかにも正しそうなことを言うのは親父の得意技だ。そのことは理解しているが、実際に的外れなことを言っているわけではなくて、僕の怒りは冷や水を浴びせられたかのように萎んでしまう。

「だったら親父の言葉には力があるのかよ。毎日飲んで暴れておまけに家族をボロボロにするやつの言うことが正しいってのか?」

「あぁ、別に間違っているなんてこれっぽっちも思っちゃいないね。他人の生み出すルールで自分の生き方を縛るなんて辛くなるだけさ。俺はお前に生きる術を伝授してやってるつもりですらある。お前はただ人生の中で出会う選択肢を淡々と選び続けてりゃそれでいいんだ」

 そう言って親父は手に持った酒を再びあおる。

「選択肢? そんな考え方の人生どこが楽しいんだ」

「楽しい、楽しくないの問題じゃあない。自分の選択肢を狭める理想なんか捨てちまえ。自分の力でできることは限られていると認めろ。そして残りの選択肢を間違えないように生きて、たまに降って来る幸運を拾えばいいのさ」

「そんなの認められるか。親父はもう衰えて理想も掲げるのも怖くなっただけだろ。俺は理想を曲げるつもりはない」

「ヘッ、夢見がちなお嬢ちゃんみたいなこと言いやがって。お前を女として育てた覚えはないんだがな。そんなんじゃお前は今に自分の理想で苦しめられるのがオチさ」

「何が苦しめるっていうんだ」

「だからその理想ってやつだよ。お前の理想は常に現実と乖離したまま近づけやしない。どこまで追いすがっても理想は理想のままで、お前はどこまで走っても届くことはない。大体今だってお前は理想から外れた俺に対して一泡吹かせるような言葉一つ言えやしないじゃないか」

「それは親父が俺の言葉に耳を傾けようとしないからだろ」

「いいや違うね。所詮お前は誰かが決めたルールに従うことで自分の正しさを信じているだけだ。だが実際のお前自身の中身は空っぽだから、さっきも言ったように言葉に力がないんだ。そんな半端者が俺に説教できると思うな!」

「っ……」

 親父は俺に欠けているものを見抜いている。驚くほどのことではないが、指摘を否定できない自分が悔しい。

「お前の信奉する社会のルールってやつに従ったその果てには何がある? 一体お前は何が望みなんだ?」

 怒りに任せた言葉や誤魔化しのような取り繕いは無駄であると悟った僕は、心に浮かぶものをそのまま口にすることにした。

「……普通の幸せが欲しいのかもしれない」

「は……?」

「なんだよ」

「はは、なんだそりゃ。どいつもこいつもバカみたいなことを言いやがる。はっはっはっは」

 一瞬驚いたように素の表情を見せたかと思えば、すぐに小馬鹿にしたような表情になり、大笑いする親父はいささか奇妙だった。

「そんなに笑うことかよ」

「ふふっ、いや、お前がそんなことを考えてるとは思わなかったよ。その素直さに免じて一つ聞いてやろうじゃないか。あるべき姿ってのを目指さなきゃならない理由をお前が真に理解したのなら、俺のあるべき姿ってのを考えてやってもいいぜ」

 大笑いしたせいか、親父は急激に熱が冷めたかのような落ち着いた態度を見せる。

「いちいちムカつく言い方しやがって。だが言質は取ったからな」

「あぁ、せいぜい精進するこったな」

 僕は未だに胸の内で怒りが渦巻いていたが、これ以上話を続ける空気でもなく、ここらがお終い時のようだ。

 親父が妙なところで笑ったことだけは不可解だったが、その理由について僕が理解することは今後もない、そんな気がするのだった。

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