第三章[11]

 ガタンッ、という衝撃とともに体に重力がかかると現実の感覚が戻って来た。乗っていた電車が乱暴なブレーキを掛けたせいだ。

 もう少しまどろんでいたかったけれど、目覚めたのはちょうど目的の駅だったので、二度寝して夢の続きを見ることは叶わなそうだ。

 降り立ったその駅は今まで一度も訪れたことのない場所だった。ここも僕がもともと住んでいた地区の一部ではあるのだが、人を引き寄せるような名物もなく、そもそも寄る理由もなかったのだから当然だ。

 何度か道を間違えつつ、足早に歩を進めていくと、やがて一件のアパートの前に辿り着いた。

 セキュリティも何もない侵入し放題な安アパートではあるが、それについては僕の家も似たようなものでとやかく言える立場ではない。

 表札が掲げられていないので確証は持てないが、メモに控えてある住所はここで間違いないだろう。目の前の扉は両隣のものと比べて何の飾り気もないが、ほどほどに汚れた扉が生活感を感じさせる。親父はどうやら廃人になっているわけではないらしい。

 正直なところ借金の催促状やら脅迫めいた文言が書かれた封筒やらがポストに溢れ返っていたらどうしようかと思っていた。でもそういうわけでもなさそうで、安心したような悔しいような気持ちになってしまった。

 観察もそこそこに、僕はため息にも近いような深呼吸をしてからドアを静かにノックする。

 だが5秒、10秒と経っても返事はおろか、物音ひとつ聞こえやしない。これはもしやと思ってもう一度ノックをするが反応はない。最後に確認と思ってドアノブをまわすけれども、当然鍵がかかっている。

 ……うむ、これはあれだ。留守だ。

 考えてみれば当然あり得るケースなのだが、どうして僕は行けば会えるものだと思い込んでいたのだろうか。

 時間があればどこか近所で時間をつぶせばいい話だが、生憎この後は他の用事を入れてしまっている。

 せっかくここまで来たのに引き返すのも癪だが、親父の居住地と生存が確認できただけでも収穫だったと自分に言い聞かせて帰ることにする。ここにやってくる機会はいくらでもあるのだから今日にこだわる必要はない。僕の通過儀礼は延期だ。


 それからは元来た道を戻り、最寄りの駅から電車に乗って幾つかの駅を通過する。

 やがて目的の駅へとたどり着くと、今度はタクシーを捕まえて15分ほど移動する。

 そうして僕が降り立った場所は由緒ある小高い山だった。ここの一角に公営の墓地があり、そこに母さんが眠っている、ということになっている。

 4年前の事故の後、葬儀や埋葬に関する諸々の手続きに関しては僕自身の手で進めていたはずなのだが、事故のショックで気分が参っていたためかほとんど記憶に残っていない。

 個人の墓を用意するお金もなかったから安価な合祀墓になってしまったが、これは仕方のないことと割り切るしかないだろう。もともと死後の概念に関しては僕も両親も無頓着なところがあったから、文句を言われることはないと思う。

 必要な書類だけ急いで書き、墓を管理する団体へ送った後はすぐに奉仕員として呼び出し・収監されてしまったから、まだ一度も墓参りはできていない。

 合祀墓がどこに設置されているかも分からないのでまずは事務所を訪ねたいが、その前に供え物として缶コーヒーの一本でも買っておいた方が良さそうだ。そう思ってあたりを見回すと、すぐに自販機らしきものを見つけた。

 近づいてみるとやはりそれは自販機に間違いないが、ラインナップがどれもまだ自分が幼かった頃に存在していた飲み物ばかりだ。まるでタイムスリップしたかのようで、驚きとともにある種の感動すら覚える。

 せっかくのレア自販機ということで、いつもと同じような缶コーヒーを選ぶのはもったいない気がする。10秒ほど悩んだ結果、パッケージに懐かしさを感じたという理由だけで微炭酸の乳酸菌飲料を選ぶことにした。

 ガコンッという音が響き、取り出し口からジュースを手に取った瞬間にふと思い出す。このジュースだけ妙に懐かしさを感じたのは、親父がよくこれを飲んでいた覚えがあるからだ。

 親父のことを自発的に思い出すのは良い気分ではない。だが、この記憶は親父が暴力的になる以前のことであり、まだ僕にも家族団欒という言葉を信じられた頃の話だ。

 妙な記憶が掘り起こされたのは今日親父に会えなかったことを引きずっているということだろうか。

 それはさすがに考えすぎだろうと頭の中で打ち消すと、冷えたジュースが手の熱で温くならないように缶の縁だけを掴んで事務所へと向かった。

 案内人の指示に従って敷地内を2分ほど歩くと、高さ3メートルほどある滑らかな形をした石像が目に入ってくる。一体どんな墓だろうかと思っていたのだが、想像を随分と上回る立派な造りで驚いた。

 墓の周囲には同じく合祀墓で眠っているとされる人たちの名前を彫り込んだ石板があり、母さんの名前もすぐに見つかる。無事に手続きが処理されていたことを確認し、これでやっと安心できるというものだ。

 物珍しさによる観察はほどほどにして、僕は目の前にある合祀墓へ向き直る。

 まだ冷たさを保ったままのジュースの蓋を開け、静かに置くと僕はゆっくりと目を閉じて両の手を合わせる。

 様々な思いがごちゃ混ぜになって胸に押し寄せてきて来るけれど、一つ一つの言葉に切り分けて、胸の中で組み立て直す。

 懺悔と感謝とこれからのこと。心の中で唱えるごとに、心の奥底に降り積もった灰が消え去ってゆくような情景を僕は幻視していた。

 そうして今伝えたいことをすべて唱え切った頃には、心に清々しい平穏が満ちていた。

 特に意識はしていなかったが随分と長い間目を閉じていたらしく、瞼を開くと世界のあまりの眩しさに目まいがした。

 さっきまでこんなに眩しかったかなと不思議に思うけれど、そう感じてしまうのだから仕方がない。おまけに妙に居心地良く感じてしまって、なんだか僕の元いたところとは別世界に来たんじゃないかという妄想すらよぎりだす。たぶん暑さで頭がやられているんだろう。

 喉の渇きを感じていたこともあり、僕は供えていたジュースを一気に喉へと流し込む。が、液体が喉に触れた瞬間にむせてしまった。

 ……甘すぎる。まさかここまで甘いとは。ついさっきまで神妙な気分でいたのに、度を超えた甘さですっかりいつもの調子に引き戻されてしまった。目が覚めたと言えば確かにそうなのだが。

 そういえばこのジュースはあまりの甘さから、当時まだ幼かった僕の周りでも人気はなかったような気がする。僕が甘党になったのは缶コーヒーが始まりではなく、この時からすでにそうだったのかもしれない。

 結局何度か小休止を挟んで飲み干した僕は、ご丁寧にすぐそばに設置されているゴミ箱へと空き缶を捨てる。

 ゴミ箱をチラリと見るとコーヒーやビールの缶が大半を占めていた。普通はそうだよなと思ったが、しかし僕の捨てた缶とは別にもう一つ同じ缶が捨てられているではないか。自分も買っておいてなんだが、物好きな人も案外いるらしい。

 母さんの眠る合祀墓の方をもう一度振り返って心の中でまた今度と告げてから、僕は帰路に就いたのだった。




 1時間ほどかけて僕の新しい住まいであるボロアパートに帰宅すると、なんだかホッとした気持ちになって荷物も片付けずにだらしなく床に寝転んだ。

 天井の木目を眺めながら、僕は自分の人生について思い返す。

 朧げなひと時の家族団欒の情景に始まり、それから長く暗い少年時代を経て、今も忘れ得ぬ母との死別。それから現在の自分へと至るまでに多大な影響を受けた奉仕員生活について。

 僕の辿って来た道は正しかったのだろうか。人生は選択肢の連続だなんて親父に何度も言われて育ったものだから、そういう考え方は僕にも染みついてしまっている。

 それ故に自分の選択が正しかったのか間違いだったのかで悩むことは人一倍多かった。

 結局のところどんな選択をしても選ばなかった方にだけ都合の良い未来を夢見てしまうのだから、そういう意味では人生は正しくない方の選択肢しか選べないのだと思う。

 でも、どうせ不正解しかない選択肢ならせめて自分の意志で選んだ選択肢だけは正解なんだと思うようにした。

 ただ悪あがきしてるだけなのかもしれないけれど、自分の選んだものが不正解になるよりかは正解だと思った方が良いでしょう?

 だから、僕の辿って来た道が正しいか否かという問われたのならば、迷わずにYesと答えられる。

 昔の僕ならこうも素直に答えられなかっただろうけれど、僕はこういう風に演じられるよう生まれ変わったのだ。

 人生を形容する言葉は歴史上の幾多の人間が残してきただろうが、僕の考えで言うとこうだ。

『人生とは役者になりきることである』

 ……うーむ、どこかの有名な作家が似たようなことを言っていた気がする。やっぱりなしだ。

 そもそもまだ人生の半分も超えていないであろう僕が人生について語るのはおこがましい話じゃないか。

 とはいえ今の僕にはこれより正確に伝える言葉も知らない。

 昔の僕はどこか周りを俯瞰的に見ていた。この世界という舞台で色々な人たちがゴチャゴチャと動き回って世界を賑やかにしているのだという風に。でも僕にはそこに混ざれるような役割もなくて、ただ一人だけの観客として舞台を眺めているような気分だった。それはそれで悪くはなかったけれどどこか満たされない気持ちがあったのは間違いない。

 そこから奉仕員としての生活の中で色々な人とふれあって、僕もまた他の人たちとは違う色を持った存在であることを知った。そう思ったから僕はこの世界でになりきることを決意したのだ。

 ハッキリ言って割に合わない役だと思う。時には自分の心に嘘を吐いてまでやらなきゃいけないし。

 でも、どうやら僕にはそれが向いているらしかった。

 そんなことでいいのか? って思う人もいるだろうけれど、僕はこの世界をそういう風に捉えているし、観客でいるよりも一人の役者として舞台に立っている方が正しいと思うのだから、やっぱりこれでいいと思う。

 僕はまだこの舞台に立ったばかりだ。ただの善人役にドラマティックな展開なんて期待されていないし、活躍に見合った称賛も用意なんかされていないだろう。それでも僕は僕らしく、身の程に合った役を演じ続けていこうと思う。

 あぁそうさ、死ぬまでただの善人役、やってやろうじゃないか!

 そう心に決めるとなんだかやる気が湧いてきて、寝転がってる場合じゃない気がしてきた。

 ガバッと起き上がると、白い水彩紙を机の上に広げ、パレットにはいくつかの絵の具を絞り出す。

 門外不出の比率でそれらを混ぜ合わせて絵筆にたっぷり含ませてから、僕は一度深呼吸した。

 心を落ち着けて姿勢を正すと、覚悟を決めて絵筆を豪快に走らせる。

 水彩紙は途端にして真っ二つに引き裂かれ、そこからは息を呑むような青空が溢れ出すのだった。

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終身善人刑 音松戸 @otomatto

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