第三章[9]
出所の通知を受け取った翌日から、僕はお世話になった人たちへ別れの挨拶に回っていた。
この街で奉仕員として約4年の期間を過ごし、様々な人たちにお世話になったが、やはり最初に挨拶に行こうと思ったのはいつものボランティア施設だった。
施設の園長さんや顔なじみになったボランティアの人たちへ挨拶を済ませると、外で子供たちを見守っている雅鯉朱さんに声を掛ける。
「こんにちは雅鯉朱さん」
「あぁ、穂垂さん。こんにちは。今日もいらしてたんですね」
「はい。ただ今日はその……お別れの挨拶ですが」
「あっ……ついに出所されるんですね! おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「以前から出所が近いという話は伺っていたので薄々覚悟はしていましたけれど、やっぱり少し寂しいですね。本当はもっと喜ばなくちゃいけないはずなんですが」
「いえ、そうやって寂しく思ってもらえるのはありがたいことですよ」
「もうこの街には戻ってこられないんですか?」
「なかなか難しいと思います。もともとこの街の人間ではありませんから、相応の理由がない限りは来られませんね」
「そうですか……でも、一生会えないってわけじゃないですよね」
「えぇ。僕もいつかはまたここを訪れたいと思っています。僕の社会的活動が評価されてからのことですからそれなりに先のことになるとは思いますが」
「絶対にですよ。あ、でも別に私たちの方から穂垂さんの街へ行けば問題ありませんよね」
「それはそうですが、僕の地元は何もない退屈なところですよ。それに私たちって佐倉さんも一緒ってことですか?」
「何もないかは自分で見てから決めることですから穂垂さんは心配しなくて大丈夫ですよ。それに佐倉ちゃんも連れていかないと、このままじゃあまりにも素っ気ないじゃないですか」
「いや、雅鯉朱さんも佐倉さんも僕なんかに構ってないで、自分の道を邁進してもらった方がいいと思うんですが」
「またそんな後ろ向きなことを言って! そういうのは良くないと思いますよ」
「僕は生来そういうものですから」
「もぅ! それで、今日も子供たちと遊んでいかれるんですか?」
「いえ、出所日まであまり時間がありませんし、まだまだ挨拶するところがあるのでこれで帰るつもりです」
「そうですか。残念ですがこればっかりは仕方ありませんよね。それなら少しだけここで待ってもらっていいですか?」
「えぇ、構いませんよ」
僕がそう答えると、彼女は施設の方へ自分の足で歩いて戻っていく。やや足取りがぎこちないが、一時は昏睡状態だったというのにそこから3年の間にここまで回復したのだから、これでも十分に奇跡的なことには違いない。
雅鯉朱さんの姿が見えなくなって、3分ぐらいしたところで、再び彼女が施設から出てきた。
彼女は両の手で一つの箱を抱えていた。それに横に小さな女の子を連れている。彼女はボタンちゃんだ。たしか初めて出会った頃はすごく大人しい子だったが、最近じゃ随分とお転婆ちゃんになってしまった。
「お待たせしました」
「いえ。それより荷物を運ぶのでしたらいってもらえば良かったのに」
「プレゼントですから、穂垂さんに手伝ってもらうのは違うかなーって」
「プレゼント?」
「はい!」
そう言うと彼女はボタンちゃんにアイコンタクトを取って、また僕の方に向き直る。
「まずはボタンちゃんと私から。ほら」
雅鯉朱さんがそう促すと、ボタンちゃんがおずおずと1枚のハガキを手渡してくれた。裏面には何やら水彩絵の具で描いたらしき絵が載っている。
載っているのは薄赤色の花と虫の絵だ。花の種類はよく分からないが、虫の方は赤い頭に黒いからだ、それにお尻が緑になっていることから蛍で間違いないだろう。
「これはボタンちゃんが描いたの? すごく綺麗に塗ってあるけど」
ボタンちゃんに尋ねると彼女はこくりと頷く。
僕は雅鯉朱さんの方に目を向けて解説をお願いする。
「はい、この前に近所の幼稚園と共同でバザーを開催したんです。その時に色々と子供たちで作れるようなものを用意したんですけど、その中の一つに絵ハガキがあったんですね。型紙を何種類か用意すればその上からそれぞれ色を塗るだけで簡単に複製できるので、イベントでは結構定番だったりするんですよ。何を描くかは自由だったんですけど、ボタンちゃんがこれを描くって言ってくれて。ね、これは何が描いてあるか教えてあげて?」
雅鯉朱さんがボタンちゃんを促すと、彼女は少し恥ずかしそうにしながら短く答える。
「ボタンとホタル」
「へぇー! すごいじゃないか。これ僕が貰っていいの?」
花の正体は牡丹だったらしい。でも牡丹って蛍の季節と被ってたっけ? と思ったがここでそんなことを指摘するのは野暮というものだろう。彼女と僕の名前を知らない人が見れば、随分と渋い絵を描く子供だと思われたんじゃないだろうか。
なぜ彼女が蛍の絵を描いたかと言えば、たぶん理由はアレだ。例えば初恋は幼稚園の先生ですみたいなやつだ。エレクトラコンプレックスとか言うんだっけな。いや、もちろん僕は彼女の父親でもないので定義的には違うんだけど、父親のいない彼女にとっては頼れる異性なわけで――って一体僕は誰に言い訳してるんだか。いやそもそも言い訳って何に対してなんだ。
「穂垂さん? さっきからなにブツブツ言ってるんですか。ボタンちゃんがいいって言ってるんですから受け取ってくださいよ」
「え、あ、うん。ありがとうねボタンちゃん。絶対に大事にするよ」
僕は恥ずかしさを誤魔化しつつ、そっと彼女の頭を撫でると、彼女はニヤッと笑ってそのままピューっと施設まで走って逃げてしまった。
「穂垂さんモテモテですね」
「なんのことです?」
「さすがに今のボタンちゃんを見て何もないことはないでしょう」
「ははは……」
「はぁ、情けない。そんなんじゃもう一つのプレゼントは渡せませんよ」
「帰る前にちゃんとフォローしておきますから情状酌量をお願いしますよ。それに雅鯉朱さんもありがとうございます。こんなに素敵なプレゼントがあるなんてビックリしました」
「もう、仕方ありませんね。で、続いては桜ちゃんからです。できれば本人から渡してもらうのが一番なんですけど」
「佐倉さんからですか? なんであれプレゼントしていただけるのはありがたいことですが、特に何か貸しがあったような覚えはないんですがね」
「またボタンちゃんの時と同じことを言うんですか? 桜ちゃんなんて2カ月も前からこれを私に預けてたんですよ。『もうすぐいなくなっちゃうかもしれないから』って」
「まぁ僕が出所する時期の見込みは半年ほど前に佐倉さんにお会いした時に伝えていましたからね。用意周到なのはさすがといったところでしょうか」
「そうじゃなくて、他に何か言うことがありますよね」
「佐倉さんにはお土産ありがとうございますってお伝えしてください。あ、これよく見たら最近話題になってるやつじゃないですか。人気過ぎて中々手に入らないって聞きましたよ。さすがに学術調査で国中を飛び回ってるだけはあるなぁ」
「伝えるのは本当にそれだけでいいと思ってるんですか? 穂垂さんは知らないかもしれませんが、桜ちゃんって学校じゃ結構モテてたんですよ。このままボーっとしてて他の人に取られても知りませんからね。いつもは研究の話か穂垂さんの話しかしないのに、前に会ったときは路上ミュージシャンの話をしてきて『天才か大馬鹿か分からない人を見てきた』って言って珍しく興奮気味に話してくれましたよ。本名じゃないんでしょうけれど、イノセントジョーとか名乗っているみたいで」
「うん?」
「どうかしました?」
「いや、昔の知り合いに名前が似ていたものですからビックリしただけです。まぁそれはそれとして。佐倉さんのこれはただのお土産でしょうし、そんなに深読みする必要もないはずです……きっと……おそらく……たぶん……」
「私はこのお土産貰えませんでしたよ」
「……」
「代わりに別のお土産は貰いましたけれどね」
「昔と比べて随分としたたかな性格になられましたね」
「そうでしょうか? ともかく、桜ちゃんとも仲良くしてくださいね。機会を見つけて絶対に穂垂さんの所に行きますから。お礼もその時ちゃんと伝えてください」
「佐倉さんの性格ですから、言うべきことがあるなら直接伝えてくれる人だと思ってますよ」
「それっぽいこと言ってますけど、本当に言われたらどうするんですか」
「……その時はその時です」
「またずるいことを言って」
「しかし僕だけが貰うばっかりでなんだか申し訳ないです。こんなことになるんだったら何かお菓子でも持ってくるべきでしたね」
「いいんですよ。それに私は穂垂さんからもう貰ってますから」
「何かプレゼントしたことなんてありましたっけ?」
「幸福です」
「え?」
「私はずっとこういう日常が欲しかったんです。ただなんでもない会話ができて、それでも誰かが笑ってそれにつられて他の人たちも笑って。これはたぶん私の気持ちひとつでどうにでもなるものなんです。でも、私は途中で分からなくなってしまって。それで長く出口の見つからない迷路を彷徨っていたところを穂垂さんに助けてもらったんです」
雅鯉朱さんはこういう人だった。僕なら口に出すのを躊躇してしまうようなこともサラッと言ってのけてしまう。最初の印象では周囲の人たちとは変わりつつも僕と似たようなところがあるのかなと思っていたけれど、実際は根本的に違うのだと思い知らされる。
「穂垂さんと出会う前の私は世界をこれっぽっちも正しく見られていませんでした。私は何も間違ったことをしていないと思っていたんですが、そのことがすでに期待や理想の姿というものへの決めつけだったんですね。そしてそれが何かの拍子で崩れると、途端に何もかもが分からなくなって、終わりのない苦しみが始まりました。桜ちゃんみたいにかっこよく生きたいなって思っても私には桜ちゃんと同じように感じることはできなくて。それから穂垂さんと出会って、それでも最初はやっぱり穂垂さんの考えていることが私には受け入れられなくて。どうしようもない子だったんですね私は。それから今度は病室で穂垂さんのお話を再び聞くことになりました。気付いていましたか? 穂垂さんが私に病室で色々なお話をしてくれたことを私が知っているって。もちろんすべてを細かく覚えてるわけではないですけれど、それでも私の中で一つの道筋が組み立てられていくことを感じていました。その道筋を辿っていたら私は永い眠りから覚めて、またこの日常に帰って来られたんです。もちろん私が目覚めてからも辛いことはありました。でも、もう答えの見つからない道を辿ることの苦しみはなくて、代わりにどうやって乗り越えたらいいのかに意識することにしたんです。ある時は桜ちゃんを、またある時は穂垂さんを、さらにまたある時は他の誰かを見習っていたら、いつしか自分が辛いだなんてちっとも思わなくなりました。そうした先に見えてきたのは、心の底から望んでいたなんでもない幸せな日常だったんです。今まで見えていた景色がこんなにも素敵なものなんだって。だから、私がこう在れるきっかけをくれた穂垂さんには本当に感謝しているんです」
雅鯉朱さんが僕と出会う以前、それに出会って以降も彼女には秘めたる葛藤があったのだろう。それでも、今は彼女なりに何かしらの答えを見つけたらしい。ある時は僕と同じように演ずるしたたかさを、また別のある時は佐倉さんのようなぶれない強さを身に着けて。
たぶん今この瞬間、彼女なりの言葉でそのすべての思いを表現したのだ。だから僕もそれにふさわしい形で答えないといけない気がする。
「そういうことでしたか。でも僕こそ雅鯉朱さんには感謝の言葉を述べないといけないと思います。僕もまた雅鯉朱さんと同じように乗り越えていかなきゃならない問題があって、奉仕員になりたての頃はどうしたらいいか何も分かっていませんでした。でも雅鯉朱さんや桜さんを始めとするボランティアの方々と出会って関わり合ううちに、もっと幅広い考えを持つことが大事だということを知りました。いつの日にかお話ししたかもしれませんが、僕はやっぱり本物の善人というものにはなれないと思います。でも、本物の善人が何かということを想像することはできます。だったらそれを真似していけばいいんじゃないかって。仮にそれが自分を偽ることだとしても、その先に僕の望むものがあるのなら罪悪感という言葉で逃げるのではなくて、きちっとそれを受け止めなきゃいけないんと思うんです。昔の僕は世の中を十分に分かった気でいて、たくさんの人たちがゴチャゴチャと混ざり合う世界の中でも僕だけは自分を見失わずに生きているんだと思っていました。でも、そんな風に傍観者気取りでいても何も良いことはなくて、虚しさしか残りませんでした。僕が欲しかった幸福はどこにあったんだろうかと。なんだか目の前にいる人たちの方がよっぽど正しいんじゃないかって考え始めたんです。そうしたら僕もだんだん目の前の世界に混ざりたくなって、僕は僕の役として、小松穂垂として死ぬまでこの世界で演じ切ってみようと思うようになりました。僕の考え方はやっぱりどこかおかしいのかもしれません。でも、今まで僕が考え続けてきた中でこれが一番僕の性に合った生き方なんです。だから、今こうして世界を楽しんで受け入れられるのは、この場所まで連れてきてくれた雅鯉朱さんがいてくれたからだと思います」
やや演説気取りではあったが、これもまた僕の決めたやり方なのだ。
雅鯉朱さんは目をキラキラと輝かせて、僕にこう言った。
「やっぱり私も穂垂さんのことが好きなのかもしれません」
言葉の意味を咀嚼できなかった僕は間抜けたことを言って切り抜けようとしたが、彼女の機嫌を損ねるだけだった。
慌てて今度は気の利いた冗談を言ったら、彼女は何やら意味ありげな笑みをくれた。僕もまた笑わずにはいられなくて、またここに一つ新たな幸福を生み出していた。
遠からぬ再開の約束を交わした僕たちは、しばしの別れの言葉を告げて施設を後にした。
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