第三章[7]
「子供の成長は早いって言いますけれど、本当にそうですよね」
木陰の下で車椅子に座っている雅鯉朱さんが呟くように言った。
「そうですね」
僕はありきたりな返事をして、目の前で子供たちが遊んでいる光景に視線を戻す。
雅鯉朱さんが病院で目覚めてからかれこれ1年ほどが経っていた。
目覚めたばかりの彼女はかなり衰弱していて会話も途切れ途切れな状態だったが、今では会話に支障のない状態にまで回復している。
医者が言うには目覚めただけでも奇跡的なことで、1年程度でここまで回復できたのは若さのおかげではないかとのことだった。
けれどもすべてが元通りになったかというとそうではなく、足が動かせないという後遺症が残ってしまっている。
下半身を患いながらもボランティア活動に励む姿を見て世間は盛んに誉めそやすだろう。実際に何度かそういった褒め方をしてきた人を僕は見てきた。そんな人たちに彼女は笑みを浮かべながらお礼を述べて、何事もなく活動を再開する。
昔の彼女であれば、おそらく内心では悩んでいただろうと思う。なぜなら彼女はただ結果的に足が動かせなくなっただけで、ボランティア活動自体はただ彼女がやりたいことにすぎないからだ。わざわざ足が動かせないのにという理由で褒められるのはおかしな話なのである。
だが今の彼女は自身の社会的な位置付けを理解しているようだ。彼女の姿を見て周りの人たち幸せを感じられるのなら、彼女は喜んで偽善というレッテルを受け入れることができる。もっとも、偽善というレッテルを貼るのは彼女自身なのだが。
今ここにこうして二人で子供たちを見守っているのはいつものボランティア活動の一環だ。だがあえて目的を挙げるとすれば、新しく施設にやって来た女の子が他の子たちと馴染めるかどうかを確認するためである。
大概新しくやってくる子というのは引っ込み思案か、周囲に対して攻撃的かの2タイプに分かれることが多く、いわゆる普通なタイプというのはあまり見かけない。
目の前で見守っている彼女はボタンちゃんというのだが、例にもれず多数派の引っ込み思案タイプだった。
ボタンちゃんは公園にある砂場から少しだけ離れたところに突っ立っている。彼女の視線の先にいるのは、同じぐらいの年頃の女の子2人組だ。彼女たちはレジャーシートを広げてその上にいびつな形をした砂団子を3個ほど並べて何かの話をしている。たぶんおままごとをしているのだろう。
一人突っ立っているボタンちゃんは何か話しかけなければという焦りを感じているようだが、自分の手に握ったスコップと砂場を交互に見返すだけで動こうとしない。
遅かれ早かれ他人と打ち解け合うというのは子供にとって越えていかなければいけない壁であるから、僕はただ黙って目の前の光景を眺めていた。
やがてボタンちゃんはゆっくりと砂場へ近づき、遊んでいる子たちに声を掛ける。僕がホッと胸を撫で下ろしたのも束の間で、彼女はどういうわけか結局振り返って砂場から離れた位置に戻ってしまった。今にも泣きだしそうな顔をしているものだから、さすがに居たたまれず、僕は雅鯉朱さんにその場で待ってもらって彼女の元へ駆け寄った。
「どうしたの?」
「……」
返事は返ってこない。もちろん答えを聞くまでもなくどうしたのかは分かっている。でも今大事なのは答えを聞くことではなくて、声を掛けて相手とのつながりを求めることなのだ。
ボタンちゃんにとって目の前にいる僕はまた新たに現れた他人であり、彼女の心の平穏を乱す存在に映るだろう。だから、僕は彼女の返事を待たずに次の策を繰り出す。
「ほら、こうやって手を出してみて」
僕は自分の手をボタンちゃんの方へと差し出しながら、同じ動作をするように促す。
初めは戸惑いのような表情を見せる彼女だが、僕が目を離さないものだから、半ば強制的な雰囲気をもって彼女はおずおずと手を伸ばす。
「よし、まずは同じ手の形をしてみて」
僕はパーの形になっていた手を閉じて、人差し指だけを伸ばす。
向こうは意図が分からないといった表情だが、それでも反射的に僕の真似をするように人差し指を伸ばす。
「えいっ」
僕はそう言うと、自分の人差し指と彼女の人差し指をくっつける。
ボタンちゃんはビックリしたのかこちらの顔を見るので、僕は笑顔を作って次の指示を出す。
「それじゃあ次はこうしてみて」
僕は伸ばす指を人差し指と中指に変えてピースサインの形を作る。
ボタンちゃんは先ほどよりも早い動きで真似する。
そうして僕は2度、3度と指示を繰り出し、彼女は逐一それに従う。
「それじゃあ最後に全部の指を開いてみて」
僕が手を開くと同時に、ボタンちゃんも同じように手を開いた。
彼女はまた指先をくっつけるのだと思っているだろうが今度はそうしない。
僕は少しだけ手をずらして伸ばした彼女の手を握る。
「これが握手。これでもう僕たちは友達だよ」
ボタンちゃんは少し驚いたみたいだけど、僕の顔を見て嬉しそうにはにかんだ。
「じゃあ次はあの子たちと友達になろうか。お兄さんも付いていくから」
まだ少し不安が残るようだが、ボタンちゃんに回れ右をさせて、砂場の女の子たちの所へと一緒に向かう。
彼女たちはこちらを伺うようにして、無言の視線を送ってくる。僕も内心怖くて足元のボタンちゃんを盾にしているのは内緒だ。
砂場に近づくと、僕は腰をかがめてボタンちゃんに耳打ちをする。
「一緒に遊ぼうって言ってみて」
「……遊ぼう」
「僕の方じゃなくてこっちの女の子たちに」
「…………遊ぼう」
彼女たちはお互いの顔を見合わせて答えあぐねている。
この反応ならいけると思った僕は助け船を出す。
「お兄さんも一緒に遊びたいな。ね? ダメ?」
「うーん、いいよ」
お願いするように言うことで相手に断ることの罪悪感を与えれば、気の楽な方に流れると踏んだわけだが、どうやら作戦はうまくいったようだ。
「やった! ありがとう。それじゃあまず自己紹介だね。ほら、名前を教えてあげて」
「ボタン……です」
「私はツバキ」
「スミレだよ」
「僕は穂垂」
「知ってる」
「おじちゃんはいらない」
「そうですか……」
相手が幼いとはいえ、面と向かって言われると少々堪える言葉だ。まだ自分はその範囲に入っていないと思っていたのに。と、そんなことで打ちひしがれている場合ではないので、目的を果たした僕はとっとと退散することにする。
「じゃあねボタンちゃん」
「うん!」
そう言って短く彼女は答えると、おままごとの輪に加わって話に花を咲かせた。
雅鯉朱さんの所へ戻ると、ささやかな拍手をもって迎えられる。
「うまくいきましたね」
「いやぁ内心ドキドキでしたよ」
「そうは見えませんでしたよ? すごく手慣れている感じで熟練者みたいでしたよ、穂垂おじちゃんは」
「聞こえていたんですか? 僕はまだそんな年じゃありませんよ。……ありませんよね?」
「あはは、冗談ですよ」
まさか砂場での会話が聞こえているとは思わなかった。今自分が立っているところからは砂場で遊んでいる彼女たちの声がかろうじて聞こえるぐらいで、何の話をしているかまでは聞きとれないのだが。雅鯉朱さんは随分と耳が良いようだ。
「でもやっぱり穂垂さんはすごいですよ。あんな風に打ち解ける方法なんて思いつきもしませんでしたから」
「あんな風にとは?」
「最初に指をくっつけてたじゃないですか。あれですよ」
「ああ、あれですか。いやまぁやっぱりここの施設にくる子たちって大人しいというか他人との距離感についてすごく慎重な考えを持ってる子が多いじゃないですか。僕も人のことは言えませんが。で、どうしたらもっと早くに仲良くなれるかって考えて、さっきみたいな方法ならうまくいけるんじゃないかって思ったんです」
「子供が好きなんですね」
「そう見えますかね? いや、やっぱり苦手ですよ」
「でも子供心がよく分かってるように見えますよ」
「子供心というか、僕が考えたのは人との距離感の作り方ですよ。普通は知らない相手といきなり握手なんかできませんよね。でも指1本だけなら触れ合えるかもしれない。うまくいったら今度はもう少し近づいてみる。勢いあまって近づきすぎたら戻って、また少しづつ近づいてみる。そうやっておっかなびっくり近づいていけば、いつかは仲良くなれると思うんですよね。もちろん手を伸ばし続ける過程で辛い思いをすることもあるでしょうが、それもまた無価値な痛みではないはずです」
「随分と難しいことを考えられていたんですね。ま、ともかく今度機会があったら私も試してみます」
「いくらでもどうぞ。今回みたいにうまくいけばいいですが、最初から相手が付き合ってくれなかったらどうなるか分かりませんよ」
「そこは臨機応変にやってみます」
「確かにそのあたりは雅鯉朱さんの方が僕よりも得意そうですね」
こうして心穏やかに会話をするのは久しぶりな気がする。別に前まで心が荒んでいたかと言われるとそうでもないのだが、見知った人間となんでもない話をするのは存外に心地よいものだ。
そうして再び元の沈黙に戻ったところで、エンジン音が聞こえてくる気配がした。閑静な住宅街に違和感をもたらすのは一体どこの誰だと思えば、あろうことかすぐそばの施設の入り口に停めるではないか。いつの間に免許を取ったのやら。
佐倉さんは高校卒業後にそのまま進学の道を選び、この街とは違うところに住んでいる。
以前に何を勉強するのかと聞いたところ、民俗学という答えが返ってきたのを覚えている。なぜかと再度問いかけると、色々な地方に行けそうだからとのことだった。もちろんそんな単純な理由ではないのだろうが、活動的な彼女には案外合っているのかもしれない。
時折この街に戻ってきては施設の子供たちに様々な地方のお菓子をバラまいているのを見ると、確かに今の生活を楽しくやっていると見える。
今もこうして時折ボランティア活動に顔を出すのは何もお菓子配りをするわけではなくて、雅鯉朱さんにピアノのレッスンを施すためだ。佐倉さん以外にピアノを弾ける人が施設にいないため、代わりに雅鯉朱さんがリハビリを兼ねてピアノ担当を引き継いだのだが、思いのほか上達が早かった。
他に基準がないから僕がそう感じるだけかもしれないが、上手いと思ったのは事実だ。指の動きの激しい曲はさすがに厳しいが、そもそも施設の子供たちが歌うような曲でそんな技巧を求められることもないのだから何も問題はない。
もしかして上達が早いのは耳が非常に良いからなのではないかと、先ほどの出来事と合わせて僕は一人で納得していた。
「なんだか楽しそうに会話してるじゃないの」
「穂垂さんが魔法を使った話してたの」
「何それ?」
「雅鯉朱さん変なこと言わないでくださいよ」
「ちっとも変なんかじゃないですよ。ほら、桜ちゃんにもさっきの話もう一度してあげたらどうですか?」
話が面倒になりそうだったので無理やり話の方向を変えることにする。
「それはまた機会があったときにでもしますよ。とにかく、別に僕は何もすべての閃きが自分の力で得られたものだとは思ってないです。今まで出会った人たちとの触れ合いがあって、それがあるとき別の形で昇華されただけですから」
「それって高木さんとかいう人の話ですよね? 私もその人にぜひ会ってみたいです。面白い人なんですよね。それに穂垂さんに随分と多くの影響を与えたそうですから、きっと人として芯のある立派な人なのでしょうね」
「面白い人というのは否定しませんが、たぶん会わない方がいいですよ。たぶん雅鯉朱さんが思い浮かべているようなイメージとは違いますから。むしろ雅鯉朱さんに悪影響が出ないか心配です」
「あら、雅鯉朱のことが心配だなんて随分と過保護にされてるんですね」
「変な横槍入れないでくださいよ」
ややこしい話などするまいと方向を逸らしたつもりが、余計に変な方向へ転がりだした。
「だって随分と親しげじゃないですか。雅鯉朱と同じぐらい私との付き合いはあるはずなのに、そんな気遣いのある言葉を掛けてもらったことありませんよ」
「えぇ? いや……まぁそうかもしれませんが、別に佐倉さんはそういうことを求めていないでしょうし」
「はぁー。雅鯉朱が『穂垂さんは変わった』って連絡を寄越すものだからどんなものかと来てみたら何も変わっていないじゃないですか。相変わらず変なところで気をまわして空回りして」
「空回りってなんですか」
「勝手に間違った答えを出してるってことですよ。誰だって人から親切にしてもらえば喜びますよ」
「相手が僕でもですか?」
「そりゃそうですよ。だって私穂垂さんのこと好きですもの」
「げぇっ!?」
「げってなんですか失礼な。傷付くじゃないですか」
「いやちょっとビックリしたもので。好きってどういう意味ですか?」
「別にそのままの意味ですよ。私が通ってる大学にいる子たちはみんな揃いも揃って合コンだの酒だのバイトだのって話しかしない馬鹿ばっかり。それに比べれば穂垂さんのしてくれる話はバラエティに富んでいてユーモラスですからね。私は穂垂さんのしてくれる話好きですよ」
「あぁそういう」
「え? 私なんか変なこと言いましたか?」
「いや別にそんなことはありませんよ。でも気の合う同じ年の友人というのは大事にした方がいいと思いますよ」
「穂垂さんの口からそんなありきたりな一般論は求めていないです」
「僕はだいぶ一般論寄りの論者だと思いますが」
「え、えぇと……お互いが好きな人と結ばれる確率は1割ぐらいらしいですよ」
「なんだって今そんな話をするんですか。それに一体どこで聞いたのやら」
「えーっと、昔誰かから数学的にそうなるって聞いたような………」
雅鯉朱さんは困ったような顔しながら微笑んでいる。僕はそういう顔をされると途端に弱ってしまう。
「はぁ……。それはたぶんネイピア数から持ってきた話ですよ」
「ネイピア数?」
「自然対数の底です。ざっくり言うと約2.718です」
「あ、それなら学校で習いました」
「書くものもないので簡潔にお話ししますが、自分が良いと思える相手を効率的に選択するとネイピア数の逆数、つまり約37%の確率で出会えるとされています。それを相手側にも適用したとして37%×37%で約1割としたのでしょうね。」
「博識なんですね」
「いや、僕が通っていた学校の教師がこういった数学の小話好きで、たまたまそれを覚えていただけですよ」
「そうはいってもちゃんと知識を自分のものにしているじゃないですか」
「お褒めいただいて光栄ですが、僕の知識というのは別に何か信念があって身に着けようとしたものじゃないんです。今振り返ってみれば結局こういった知識も自分のなさを埋め合わせるために身に着けた心の盾みたいなものかもしれませんね」
「またそんな自虐的なことを」
「いや、別に僕はそれを悲観的に捉えているわけじゃないんです。実際、今の僕がこうしているのはそれまで色々と思い悩んだ過去があったからこそですし、僕にはすべて必要なことだったんですよ」
「それはまた素敵な心掛けで」
「皆さんは僕が変わったと言ってくれますが、僕自身の実感としてはまだまだ未熟だと思います。僕はこれからも心が折れるようなことはあるでしょうし、そのたびに克服しては少しの間思い上がって、また心が折れて克服してを繰り返すでしょう。でも、そのたびに少しずつ強くなって、いつかは理想的な境地にたどり着けるのかなと」
「すごいです穂垂さん!」
「……なんですかそのアッパーな思想は。雅鯉朱の変な性格がうつったんじゃないですか?」
「両極端な感想ありがとうございます」
「で、理想的な境地ってなんですか?」
「いや、それは僕にもよく分かりません」
「そんなあやふやでいいんですか?」
「死ぬときにやっと分かるかもしれませんし、それでもまだ分からないかもしれません。とりあえず目下の目標は脱奉仕員ですね」
「それはそのとおりだと思いますけど」
「いやいや、これは僕にとって大きな前進ですよ。そもそも以前の僕はですね――」
「あーあー、やっぱり今日の穂垂さんは変みたいですね。ほら雅鯉朱、先に行こう」
「ふふ、そうだね」
そう言って佐倉さんは雅鯉朱さんの車椅子を押して施設の中へと戻っていく。
僕は苦笑しながら、彼女たちの後ろ姿に新しい日常の始まりを予感していたのだった。
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