第三章[1]

「お邪魔します」

 病室の入り口に記されている名前を確認してから、静かにドアをスライドさせる。

 返事を期待するけれど、耳に届くのは圧迫感のある静寂だけだ。何度も繰り返したことなのに、この静寂はいつまで経っても慣れそうにない。

 気を取り直して病床の彼女へと語り掛ける。

「こんにちは雅鯉朱さん。ご気分はどうですか? 顔色は……今日はあまりよくないみたいですね。長居はしないようにしますから」

 体中からチューブを伸ばしたまま、眠り続けている彼女は何も答えない。

 窓の外に視線を向けると、空はどんよりとした厚い雲に覆われながらもところどころ層が薄くなっていて、不規則な濃淡模様を描いている。

 病院までの道中は小降りの雨だったが、ここを発つ頃には止んでいるだろうか。

「ここでお話しするようになってから今日で3カ月ぐらい経ちましたかね。ここ2週間ほどは奉仕員の活動が忙しくてお見舞いにも来られませんでした。でも他のところよりも忙しい職場だったおかげか、奉仕得点も比較的早くに出してもらえましたよ。いつもの同居人からは不公平だのなんだのと小言を言われてしまいましたが」

 当たり障りのない会話で自分でも面白みのない内容だと思う。そもそも彼女が聞いているのかどうかも怪しいのだから、この行為に意味があるのかは本当のところよく分からない。けれど初めてお見舞いに来たときに看護師さんから『ぜひお話ししてあげてください』と言われたものだから、なんとなくその指示に従い続けている。

 雨のせいか僕自身もあまり気分が晴れず、ぼんやりとそんなことを考えて視線を彷徨わせていると、枕元の花瓶に花が差してあるのが目に入る。佐倉さんだろうか?

 ベッドの上で昏々と眠り続ける彼女を見ていると母さんのことを思い出す。母さんも苦しそうな顔はしていなかったが、あの時は別れを惜しむ暇もなくポックリと逝ってしまった。当時の心境ではそんな悲しみの感情に囚われる余裕もなかったという方が正確か。

 ……いやいや、縁起でもない。こんな回想は止そう。

 僕は崩れかけていた姿勢を直し、気を取り直すようにして彼女の顔を見据える。

「自分を縛り続ける罪悪感についてあれから考え続けました。僕が雅鯉朱さんにお話ししたことは間違いだったんじゃないのかと。でもやっぱりあれ以上の納得できる答えは思い浮かばないんです。ただ、決して諦めてしまったわけじゃありません。今でも僕たちの問題を華麗に解決するような答えがどこかにあると信じています。いえ、必ず見つけないといけないと思うんです。だからもう少しだけ僕に時間をください。次会うときはもっとちゃんと話せるよう僕は雅鯉朱さんに約束します」

 彼女に向かって話したのか僕自身に対して宣言したのかは分からないけれど、僕は今の気持ちを確かな言葉にして、静かに病室を後にする。

 病院から出ると空が少し明るくなっていた。これなら傘をさす必要はないと思って上機嫌に歩き始める。でも水たまりがいくつもの波紋を描いているのが目に入り、まだ雨が降っていることに気が付く。

 傘をさそうかさすまいか悩んだ末、結局僕は傘をさして帰路に就くのだった。

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