第二章[6]

 迷いから解放される糸口を求め続けた私に転機が訪れたのは、桜ちゃんとの人生相談から3カ月ほど経った後のことでした。

 寒風の強い12月のある日曜日、私はいつも通りボランティア活動に参加していて、子供たちと近所の公園でボール遊びに興じていました。

 私の住む地域は比較的温暖で雪が降り積もることは滅多にないのですが、それでも時折痛みを感じるほどの風が襲ってきます。

 体を温めるために私は大げさに動いてボールを蹴ってみせました。ところが子供たちは私がはしゃいでいると勘違いしたのか勝手にヒートアップしてきて、終いにはあらぬ方向へボールを蹴り飛ばすではありませんか。

 ボールは公園の敷地外へと転がっていき、その先にいた男性の足元にぶつかって止まります。

 しまった! と思い、急いでボールを回収すべく彼の元へと駆け寄ったところでふと既視感を覚えました。

 お互いの視線が交わって、言葉を交わすと記憶がハッキリと蘇ります。

 それは半年ほど前の夏の日のこと。私の方からとんでもない質問をぶつけてしまい、顔から火が出そうなほど恥ずかった記憶が蘇ります。変な人だと思われたままだったらどうしましょうか。

 私の心配をよそに、彼の視線は私の腰元にいる子供へと向けられ、話は思わぬ方向に転がります。ボールを転がした張本人は私の脚に隠れるようにしていますが笑顔を浮かべています。

 はて、どうしてりく君のことを知っているのでしょうか?

「あれ? りく君とお知り合いなんですか?」

「えぇ。前にちょっと彼と冒険を」

「……あ! もしかして以前この子がはぐれちゃったときに連れてきてくれた人ってあなたのことだったんですか?」

「3カ月ぐらい前の話であればそうですね」

 なんという偶然でしょうか! 確かに桜ちゃんからは奉仕員の人が助けてくれたと聞いていましたが、まさか私も知っている人だったとは。

 自己紹介がまだだったことに気が付き、彼の名を尋ねたところ『穂垂』という名前だと分かりました。

 桜ちゃんからも『ホタル』という情報は聞いていたはずだったのですが、まさか本名だとは思っていなかったので少しビックリです。

 かく言う私も特徴的な名前なので、お互いの変な共通点から自然と打ち解けることができましたが、問題はここからです。

 私の理想を体現する彼にこそ、この胸の内にある罪悪感について相談したいと思うのですが、どう口実を作ればいいのでしょうか?

 残念ながら私には違和感なく話の方向を変えていくような話術はなく、彼を目の前にして何を話せばいいのか分かりません。考えれば考えるほどに頭の中が熱くなってしまってこれでは前回の二の舞です。

 どうしようかと考えあぐねていたら、ありがたいことに彼の方から『何か聞きたいことでもあります?』と助け舟を出してくれました。

 彼は人の心でも読めるのかと驚きましたが、さすがにそれは都合の良い解釈すぎますかね。

 この機を逃さないよう頭をフル回転させた私は、2週間後に控えたイベントに彼を誘うことを思いつきました。その日は施設でクリスマスパーティーが開催予定で、そこなら時間を取って彼と自然に話をするチャンスがあると考えたわけです。

 即興の説明でしたが、『クリスマス』と『ボランティア』という言葉の響きは強力なのか、無事に彼の了承を得ることに成功しました。

 ただ、本当にボランティア活動に従事してもらう必要はありませんので、チラシを渡す際には訪問時間をキッチリと指定しておきます。

 それから連絡先も交換し、彼が帰っていくのを見届けると、私はひと仕事終えたような気分でフーっと息を吐き出しました。これであとは当日に彼が来てくれることを祈るだけです。

「おねーちゃん? もーいいーの?」

「あ! ごめんごめん、待たせちゃったね」

 りく君に手を引かれて現実に引き戻された私は、他の子供たちと一緒に再びボール遊びへと舞い戻るのでした。




 小松さんと約束を取り付けてからの2週間はあっという間に過ぎ、期待と不安がない交ぜになった気持ちを抱えたまま今日この日を迎えます。

 今のままではいけないと思いながらもここから抜け出す出口を見つけられない私に、あの人はなんと言って答えるのでしょうか? 初めて彼と出会った夏の日はあまりにも唐突な質問だったせいで上手くいきませんでしたが、今日こそは聞き出さなければなりません。でないと私は……私はどうなってしまうのでしょう?

「おねーちゃんごはんー」

 思考に沈んでいたら、スカートを引っ張られる感覚で意識が再び浮上させられます。いつの間にか何人かの子供たちが足元に寄ってきていたようです。

 クリスマスということで私は普段の制服ではなくて、施設の倉庫に眠っていたシスター服もどきの恰好をしていたのでした。そんな私の姿が珍しいのか、いつもより子供たちの目がキラキラしている気がします。

 自分のことばかり考えて、今求められている役割を忘れるのはいけませんね。そう心の中で自身を諫めつつ、私は子供たちに混ざってレクリエーション活動に勤しみます。

 それからしばしの時間が過ぎ、子供たちと昼食を取っていたらポケットの携帯が振動しました。部屋の壁に掛かっている時計に目をやると時刻は丁度13時を指しており、相手は小松さんだと確信します。

 子供たちのペースに合わせて一緒に食べていたご飯をささっと胃の中へ収めたところで、ちょうど桜ちゃんが手招きしているのが目に入りました。

 期待と不安で心臓がドキドキしていますが、すべてを話し終わった後の私はどんな気持ちでいられるのでしょうか。


「あぁ、なんとなく雅鯉朱さんの仰ってることが分かりました。それってつまり世間の自分に対する評価と自分自身での評価が嚙み合っていなくて、そこに世間に対する欺瞞というか罪悪感を感じるということですよね」

「そう! それです!」

 最初は人生相談なんてできないといった反応を示していた小松さんですが、いざ話を始めると驚くほどに私の考え方に理解を示してくれました。

 心の深い部分に触れるような会話をできることが嬉しく、鬱屈としていた心に一筋の光が差し込んだような気さえしてきます。

 彼に対する期待が最高潮を迎え、話を切り出すのは今しかないと確信した私は問題の核心を問う質問を投げかけました。

「それなら、小松さんはこの罪悪感をどういう風に受け止めようとしていらっしゃるんですか?」

 すると彼は私の顔を一瞬伺うようなそぶりを見せてから、こう答えたのです。

「僕が考えているのは、善悪という言葉はただの観念にすぎないと割り切って、ただ現実だけを見据えることです」

 一瞬、彼が何を言ったのか理解できませんでした。いえ、正確には理解することを私自身が拒んだのでした。茫然とする私をよそに、彼はそのまま言葉を続けます。

「もちろん社会のルールに従った上での話ですが、僕たちの問題というのは自分の中で勝手に善悪を規定していることだと思うんです。でもこの善悪というのはいつの間に染みついたんでしょうかね? 僕が思うに、今までの人生で出会った人たちから知らず知らずのうちに見聞きしたという倫理感を取り込んでいたんじゃないでしょうか。そして僕も雅鯉朱さんも心のどこかでこれをだと信じていたんでしょうね。でもその結果、法で規定されたような罪とは別の善悪基準が出来てしまい、僕たちは罪悪感という罰を自らに課すようになってしまいました。これはきっとどこかで考え方が間違った方向に行ってしまったからだと思うんです。それなら一度リセットといいますか、もっと現実に意識を向けるのもアリかと考えたわけです。僕の場合であれば社会奉仕活動が評価されていること。雅鯉朱さんの場合であれば子供たちに感謝されていること。ただこのことだけが真実で、わざわざネガティブな解釈を付け加える必要はないんじゃないかと」

 昔あの人が口にした言葉とは違いますが、その趣意は同じでしょう。結局、小松さんもあの人と同じことを言うのかと、心に失望が広がっていきます。

 それでも、あの日から変わらない私の信念をもって、彼に抵抗を試みます。

「世の中には色々な幸せの形があると思います。お金持ちになることや、スポーツで優秀な成績を収めること、恋愛の成就だってそうでしょう。でも私が思う幸せに一番大事なのは人とのつながりなんです。別に特別なことなんかなくてもいい。いつもの日常の中、ふとした拍子に相手の善意を感じた時、胸がムズムズするような幸福感を覚えるんです。そうすると今度は私も相手に同じ思いを返してあげたくなります。報酬なんて望まないただ純粋な善意をもって人とふれあっていたいって。この善意というのは現実を私の中で解釈することで生まれるものですから、ここを切り離すことは絶対にしちゃいけないと思うんです」

 昔の私では上手く答えられなかった幸せに対する思いを言葉にして、私の信じる理想を伝えました。彼ならきっと理解してくれると信じて。

「僕には……雅鯉朱さんが仰るような具体的な幸せを想像することができません。能動的に動いて幸せを手にすることができるのであれば、それはただの成果に対する報酬と捉えてしまいますから幸せとは別物だと思ってしまいますね。生きている中で絶えず現れる選択肢に対していかに良い選択ができるか、それだけが幸せを得るためにできることだと僕は考えています」

「選択肢……」

 あぁ、なんということでしょう! 私の言葉の真意が彼に届いた気配もなく、それどころかさらに深い底へと突き落されるような言葉が返ってきました。もちろん彼には悪意はないのでしょうが、私にとって彼の言葉はあまりにも重くのしかかります。そして彼の話す言葉にもまたある種の真実味があって、そのことをハッキリと否定できない事実が私をさらに苦しめるのです。

「雅鯉朱さんの言葉には少し嘘があるような気がします。報酬はいらないとのことですが、結局雅鯉朱さんは自身が善意を振りまくことで、相手からの善意を求めているんじゃないですか? あ、いや、少しとげのある言い方になってしまいましたね。別にそのことは何も悪いことじゃないと思います。ただ、今の雅鯉朱さんは相手からの善意に慣れすぎてしまって、逆に善意について複雑すぎる解釈をしているんじゃないかと思います」

「そういうつもりはないと思いますが……」

 認めてしまってはいけないと強く意識しますが、自分の考え方にもはや自信を持てなくなってしまいました。悩みを解決してくれる一筋の光を求めていたのに、自身への欺瞞を暴かれることになるなんて。ずっと私は理想に向かって真っすぐに生きてきたはずなのに、いつから私は別の道に迷い込んでしまったのでしょうか。

「雅鯉朱さんの信念を否定するつもりはありません。ただ、今のままでは自分を苦しめる思考に囚われたままになってしまいますから、いっそ今の考え方をバッサリ捨ててしまって別の考え方を求めるのがいいんじゃないかということを僕は言いたかったんです」

「……穂垂さんも同じことを仰るんですね」

 アハハ、小松さんは本当にどこまでもあの人に似ているようです。すでに私の心は諦めの感情で埋め尽くされてしまって、もう何も考えたくありません。

 それからはもうただこの場から離れてしまいたくなって、小松さんとの話を強引に打ち切ってしまいました。自分から呼び出しておいて身勝手なことだと思いますが、今の私には相手を気遣う余裕はありません。周りの人がいつでも気分よく過ごせるように、愛想よく振舞うことなんか当たり前にできていたはずなのにおかしなものです。

 それからはいつクリスマス会を解散したかも分からないまま、薄暗い帰り道を早歩きしながら私は再び思考に沈んでいました。

 5年前のあの日に告げられた予言から逃げるようにして幾度となく自問自答を繰り返し、本当の答えを見つけようとしましたが、結局私は見つけることができませんでした。自身の外側にある答えを求めて縋った小松さんもまた、あの人と同じ答えだったなんて。

 あの日から自分は何も変わらないどころか、間違った方向へ進んでいただけだったみたいです。

 私はどうすれば良かったのでしょうか。いえ、もうそんなことを考えること自体が間違っているのかもしれません。そう納得させると私の心は落ち着いたような気がしました。

 バンッ! と破裂音が突然響くと同時に体がバラバラになるような衝撃を感じて、私の世界は反転します。比喩でもなく、本当にそうなっていたのです。

 突然の出来事に混乱する思考の中、横断歩道や赤信号が視界に入った私は交通事故に遭ったことを理解します。

 生命の危険を感じると脳が生き残る術を求めて覚醒し、視界がゆっくりになると聞いたことがあります。でも、事故に遭ってからそんな能力を発揮されても意味がないじゃありませんか。それに私はもう思い悩む必要なんかなくなったのですから、これ以上何かを考える必要もありませんし。

 ……あぁ、でもそういえば前に桜ちゃんから事故に気を付けるよう言われたことがありましたね。

 私が事故に遭ったことを知ったら桜ちゃんはショックを受けることが容易に想像できて、それは嫌だなと思ったところで意識は途切れてしまいました。

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