第二章[3]

 教会の一室で私は桜ちゃんの伴奏とともに、小さな子供たちと歌を歌っています。

 学校の歌のテストではありませんから、子供たちは好き勝手歌って音程がグチャグチャです。

 私もついついそっちに引っ張られそうになりますが、そんな時はテンポの崩れない伴奏に耳を傾けます。おかげでどうにか子供たちの頼れるお姉さんとしての威厳を保つことができました。

 私は今、学生ボランティア団体を通じて身寄りのない子供たちとのふれあい活動に参加しています。かれこれ2年ぐらい続けていることになるでしょうか?

 5年前のあの日に自分の望むことを自覚して、それに向かって何ができるか考えて、ただ必死に走っていたらいつの間にか今の状況にたどり着いていたのです。

 ここには確かに私が望んだものがありました。

 黙々と一人で作業を続けるような地味な作業も当然ありますが、私を慕って寄って来る子供たちを見るとやっぱり和みますし、彼らの笑顔を見ていると自然と嬉しくなります。

 桜ちゃんもボランティアに参加しているのは職業適性検査の点数稼ぎのためと言い張っていますが、なんだかんだで彼女も子供が好きなのかもしれません。

 日々の生活に感謝する歌、といっても子供たちは歌詞の意味を分かっていないようですがともかく、それを歌い終えると私はパンッと手を叩いて注目を集めます。

「はい、それじゃあお待ちかねのお菓子の時間です。男の子たちは壁のテーブルをこっちに持ってきてくれるかな」

「「「はーい」」」

 私の指示に従って子供たちが無駄の多い動きでちょこまかと仕事を始めます。私たちボランティアや職員の大人たちが用意した方が本当は早いのですが、子供たちを甘やかしすぎるのも良くありませんからね。

 子供たちの動きを目で追いながら佇んでいると、後ろからトントンと肩を叩かれました。

「お疲れ様。みんなよくあなたに懐いてるわね」

「桜ちゃんも伴奏お疲れ様。懐いてるのかな? だといいけど、たぶん今頑張ってるのはお菓子を早く食べたいからだと思うけどね」

「ふふ、そうかもね」

 桜ちゃんは軽い笑顔を浮かべていますが、私の表情をチラリと伺うような視線を向けられた気がしました。

「どうしたの? 顔に何か付いてる?」

「えっ、いやなんでもないよ」

「そう?」

 なんだか違和感が残りますが、桜ちゃんが何もないというのならこれ以上話す気はないのでしょう。話を打ち切ったところでちょうど他のボランティアさんたちが持参してくれたお菓子の用意ができたみたいでした。

 みんなでお菓子を食べた後は教会の向かいにある公園で小一時間ほどお遊びの時間ですが、今日はいつもよりボランティアさんが多いので気楽です。たまに子供たちに混ざってボール蹴りをしたり、ケンカをなだめたりもしましたが、トラブルというほどのことはなく、今日も一日無事に終わることができました。

 夕飯以降は職員さんたちが中心になって仕事をするので、学生ボランティアである私と桜ちゃんは子供たちと別れて帰路に就きます。

「ねぇ、前から言おうか迷ってたんだけど、雅鯉朱最近疲れてない?」

 二人で歩き始めて10分ほど経った頃でしょうか。道中ずっと口を開かなかった桜ちゃんがふと話しかけてきました。

「え? 全然そんなことないけどいきなりどうしたの?」

「いや、ならいいんだけどそう見えちゃったからさ。特にここ1週間ぐらい」

 あぁ、意識しないように上手く振舞っていたつもりだったのですが、どうやら桜ちゃんを騙せるほどではなかったようです。先ほどのボランティアの時に私の顔を伺っていたのもそういうことでしょう。

 1週間と言われて私はすぐにある出来事を思い出しました。

 心配性な桜ちゃんのことですから詳細を話せばきっと私のことを気遣ってくれるのでしょうが、今はまだ普通に接していてほしかったので嘘を吐くことにしました。

「えー、本当? 特に何もしてないんだけどなぁ。あ、でも最近は少し寝不足かも」

「あら、珍しいわね。学校のテストが近いわけでもないのに。なんならテスト前でも平気でぐーすか寝るタイプでしょ雅鯉朱は」

「馬鹿にしてる……」

「褒めてるのよ。日々の勉強が理解できてなきゃそんな余裕もできないわけだし」

「私の場合は夜遅くなると単純に眠気が我慢できなくなるだけだってば」

「ふふ、お子ちゃまね。でもそれじゃあ寝不足なんてますます珍しいじゃない」

 桜ちゃんに悪気はないと分かっているのですが、話題が私の望んでいない方向に行きそうなのでもっと大きく話を逸らすことにします。

「やっぱり馬鹿にしてる。ちょっと調べもので起きてただけ」

「何調べてたの?」

「それは……まぁ進路とか?」

「疑問形で言われても知らないわよ。でも進路かー。私もそろそろ真面目に考えないとダメかしら」

 どうやら進路の話題に乗ってくれたようです。とっさの思い付きでしたが、単純に桜ちゃんの将来に興味がありますからもう少しこの話題を続けます。

「でも桜ちゃんは勉強だけじゃなくって万遍なく成績優秀だから、進路の選択肢が色々あっていいじゃない」

「あるから迷うのよ。雅鯉朱は先生になりたいんだっけ?」

「うん、できれば幼稚園の先生がいいかな」

「雅鯉朱の成績ならお国が管轄するような待遇の良いいわゆる上級職だって狙えるでしょうに。例えば更生監督とか。ホラ、ちょうど近所にもあるし」

「自分の住んでる街には派遣されないから近所は関係ないよ……。でもうーん、更生監督には興味が湧かないかな。詳しくは知らないけれど倍率すごいらしいよ。それに私の場合は精神面での資質とか向いてなさそうだし。詳しくは分からないけれど」

「あー、そう言われるとそうかもね。まぁ私もそっちに興味ないから具体的に何の能力が必要なのか知らないけど」

「話を振るだけ振っておいて適当な。って、私の方はいいから桜ちゃんの希望を教えてよ」

「そんなこと言われても希望なんてないんだってば。そうだ、雅鯉朱が私に向いてる仕事を挙げてみてよ」

 桜ちゃんはこの手の話が苦手なのでしょうか? 大概の物事にはハキハキと物言う桜ちゃんにしてはものぐさな様子です。それならばと私はずっと昔からの期待を込めて提案をします。

「それじゃあ音楽の先生は?」

「んー、無理無理。今の私の評価レベルだと頑張っても小学校で音楽の先生になるぐらいが限界で、音楽専門としての道は選択肢にないわよ。まぁもともとそっち方面では考えてなかったし」

「え……嘘……」

 あっさりと否定しきってしまうその態度に私はひどくショックを受けます。

「嘘じゃないわよ。そんな驚くことじゃないでしょ?」

「だって桜ちゃんピアノすっごく上手じゃない。桜ちゃんの家に何枚も賞状が飾ってあるし、才能もあるのにもったいないよ」

「賞状って言ったってそんなの大昔もいいとこよ。有名なコンクールってわけでもないしね。それに私に才能があるだなんておこがましい話だわ。自分よりも年下の子の演奏で何度心折られたことか。最初は対抗する気もあったけど、時が経つにつれて実力差が広がる一方だからそのうち萎えちゃったわよ。家のピアノなんてかれこれ5年くらい弾いてないんじゃない? 昔はちゃんと調律師さんだって呼んでいたのに悲しいものよねー。まぁちょっとした習い事程度で子供相手に教えるくらいなら私の実力でも何とかなるかしら。でもそれにしたって何かしらの実績とか音楽専門の学校を卒業したっていう箔がついてないと厳しいでしょうね」

「そう……なんだ」

 あぁ、あぁ、こんなことなら聞かなければ良かった。

 桜ちゃんは自身の実力を正しく認識しているからこそ、音楽の道の可能性をきっぱりと否定できるのでしょう。その決断を私は友達として尊重するべきだと思います。ですが、ピアノの思い出がまるで大したことのない過去のちょっとした出来事のように扱われていることに私の心は深くえぐられました。

 そんなはずはないのだと、今だって桜ちゃんの演奏は変わらず素敵なもので、私の家にまで届く桜ちゃんのピアノの音はいつだって――と思い返したところで思考は停止します。そういえばここ最近は聞いた覚えがありません。いいえ、最近どころの話じゃないです。それはずっとずっと聞こえていませんでした。最後に聞いたのは……いつのことだったでしょう?

「ちょっと、なんでそんなショックを受けるのよ。芸術の世界なんてそういうものなのよたぶん。まあ私は上級職とまではいかなくとも、お国が管轄する待遇の良い職場の事務員でも狙おうかしらね。でも似たような仕事をしてる親戚のオジサンの話だとやっぱり――」

 桜ちゃんの声がなんだか遠いです。いつから私の中の桜ちゃんと現実の桜ちゃんは乖離した存在になっていたのでしょうか。私の気付かない間に周りはどんどんと変化していて、気付けば置いてけぼりになっていたような寂しさに襲われます。

 あぁ、この感覚はつい最近に味わったばかりです。

 そう、それは先ほど話題を避けようとしていた1週間前のことでした。




 それは久しぶりに家族みんな揃っての夕飯時のことでした。

 いつもならお父さんが私に学校の様子を多少なりとも聞いてくるのですが、今日に限っては何も話をしてきません。お母さんも同じように黙ったままで、なんだか嫌な感じの空気が漂っています。

 この空気を打ち払うために茶化すような口調で沈黙の理由を尋ねようとしたのですが、先に口を開いたのはお父さんの方でした。

「なぁ、雅鯉朱。お父さんとお母さんなぁ、近いうちに離婚しようと思っているんだ」

 離婚、という言葉を耳にした途端に私は金縛りに掛けられたように固まります。

 何を答えればいいのかも分からなくて、そのままジッとして言葉の続きを待つことしかできませんでした。

「突然の話でキミには悪いと思っている。でも私たちのことで余計な悩みを背負わせたくなかったんだ」

「そんな……だからっていきなり言われても困るよ。どうして? 私は……お父さんとお母さんが別れるなんて嫌だよ」

「キミの気持ちは痛いほど分かっているつもりなんだ。でも離婚についてはお母さんと長いあいだ話し合っていたことでね。いつかはキミにも話さないといけないと分かっていたんだが、誤解なく受け止めてもらえるか心配で話をする時期を決めあぐねていたんだ。でも、キミはずっと昔からしっかり者だし、ここ数年はボランティア活動にも積極的になって十分立派に成長したと思う。来年には適正試験がやってきて、いよいよ自分の将来を本格的に見据えるようになるだろうけど、そんな今だからこそ話しておくべきだと思ったんだ。もっと前から伝えても良かったのかもしれないが、今の今まで隠すようなことになって本当にすまない……」

 私は謝罪の言葉が欲しいわけではないのです。むしろ申し訳なさそうな態度を示すお父さんを見るのが辛いぐらいです。ただ私は納得のいく理由が欲しかったのでした。

「別に謝らなくてもいいよ。でもどうしてなの? 二人が大ゲンカしたところなんて見たことないよ」

「あぁ、別にお父さんとお母さんは互いに嫌いになって別れるわけじゃないんだ。それどころか今でもお互い好きなままだよ」

「それじゃあ余計に分からないよ」

「昔、キミに話したことがあるかもしれないが私たちは学生結婚でね。お互い若かったというか恥ずかしい話だが、目の前にあることしか考えていなくて、気持ちひとつで結婚を決めたんだ。結婚後間もなくしてキミが生まれたわけだが、家族というものに関してお父さんとお母さんの考えに食い違いがあってね。お父さんとしてはお母さんに家のことを守ってほしいと考えていたんだよ。その分、お父さんは人並み以上にお金を稼いで、できるだけお母さんには家の中で自由気ままに過ごしてほしいと思っていた。でもお母さんはそうじゃなくて、もっと対外的な活動に精を出したいと思っていたんだな。最終的にはお母さんの方が折れてくれて、今でもこうしてお母さんは家のことを守ってくれている。でも、そうやってお父さんの希望ばかり押し付けるのはフェアじゃないというか、やっぱりお母さんの願いも叶えてあげたいと思っている部分もあるんだ。お母さんは優しい人だから、お父さんがなにも言わなければたぶん最後まで家庭のことを守ってくれる。だから、キミが生まれた頃にお母さんと一つ約束をしたんだ。雅鯉朱が大人として一人で十分に生きていけるようになった後、それでもまだやりたいことがあるのなら他に構わずそっちを優先してほしいって」

「お母さんのやりたいことって?」

 本当は聞かなくても答えは大体想像できていました。でも、話を円滑に進めるためにもわざとらしくお母さんに話を振ります。

「お母さんはね、海外に出て学校の先生になるっていう夢があったの。先生っていっても雅鯉朱が今までお世話になって来た先生みたいな人じゃないのよ。ここよりもっと小さな街の、貧しい地域の学校で勉強だけじゃなくって、子供たちの生活のサポートをするような何でも屋さんに近いかな。雅鯉朱はよく知っているだろうけれど、お母さんが参加している国際ボランティアサークルではね、時々国外の貧しいとされている国に学校を建てて教育支援をしているの。それで今度また新しく学校を建設するプロジェクトが立ち上がっていて、その一環で実際に現地に行って先生になってくれないかっていうお誘いが来たのよ」

 確かにお母さんは昔から人助けが好きでした。

 もともとお母さんの方の実家が裕福だった故か、社会奉仕精神の強い家庭で育ったために色々なボランティア活動に従事していたそうです。お父さんに出会ったのもその活動の過程だったと聞いた覚えがありました。おまけにお母さんはとても頭脳明晰で、使う機会なんか滅多にないのに色々な国の言語を話すことだってできます。

 今回のお誘いというのも誰かお母さんのことをよく知っている人が打診してきたのでしょう。

「お母さんの言うことは分かるけれど、でもわざわざ離婚する必要ないじゃない」

「それはお父さんの方からお願いしたんだ。さっきも言った通り、お母さんは優しいから僕と婚姻関係にある限りは家庭を優先してくれるんだ。でもそれじゃあお母さんはいつまでも我慢することになるだろう。お父さんやお母さんにとっては別に婚姻の形が大事だとは考えてなくて、ただの足枷になるぐらいなら別れてしまった方が心置きなく活動に精を出せると思ったんだ」

「でも、もし雅鯉朱が別れてほしくないというのなら考え直すわ」

 なんて残酷な問いかけをするのでしょうか。もちろん私の気持ちを第一に考えてのことなのでしょうけれど、ここで首を横に振れるはずがありません。

 話を聞いてもなお離婚しなくてもいいのではという思いはありますが、お母さんたちがこんなに真剣に話しているのですら、離婚というのはどうしても必要な行為なのでしょう。

 ただ、やっぱりお母さんの心の中でしたいことと私を天秤にかけて、結局私の方を選んでもらえなかったという悲しみが胸を締め付けます。

 もちろん私だってお母さんを縛り付けるようなことはしたくありません。今のままでいるよりも世界に飛び出していって、大勢の人たちから感謝される方がずっと正しいことだと思いますから、私のこの気持ちはただのワガママなのでしょう。

 ですから私はこの現実を大人しく受け入れるしかないのです。

「うん、大丈夫だよ。お父さんとお母さんがお互いに良いことだって思えるのなら私も反対しないよ」

 私がそう答えると、お母さんたちはお互いの顔を見合って安心したような表情をしました。

 対する私の方は同じように穏やかな表情を作れているでしょうか? お母さんの他者を思いやる気持ちがこうも私を脅かすことがあるだなんて想像だにしていませんでした。

「ありがとう雅鯉朱。でも、まだ具体的にいつ離婚の手続きをするとかは決めてなくって、すぐにどうこうするわけじゃないんだ。少なくとも来年に控えているキミの適性試験より先にってことはまずない。今はそのことが一番大事だからな。あと、離婚したってお父さんたち家族が揃うことはいくらでもあるし、お金のことだってキミが心配する必要はないようにしておくから安心してほしい」

 お父さんは私を落ち着かせるように”安心”という言葉を使いますが、安心なんて出来っこありません。私が聞きたいのはそんな現実的な生活のことではないのです。

 謝罪もいらない。遠慮だっていらない。私の望みはかつてのただ温かい食卓を囲むことだけでした。

 それなのに私の頭は混乱したままで、この胸の思いを伝える言葉を吐き出すことができません。

 私にできるのはただお利口な子供を演じて、この話題を打ち切ることだけでした。

「うん、分かったよ。また話が決まったら詳しく教えて」

「あぁ、もちろんだよ。ささ、ご飯がすっかり冷めてしまったが今は食事に戻ろうか。あ、レンジで温めた直した方がいいか」

「うん……」

 そうして私たちはまた食事に手を付け始めましたが、それからは何を話したかも覚えていません。覚えているのは食器の無機質なカチャカチャとした音ぐらいでしょうか。言わずもがな私の体はまったく食事を受け入れてくれなくて、早々にご馳走様と言ってその場から逃げ出したのでした。




 1週間前の出来事をぼんやりと思い返しているうちに、気付けばボランティア活動から帰宅していました。

 習慣的に『ただいま』とつぶやきますが、その声はただ虚しく家の壁に吸い取られていきます。

 そういえばお父さんはお仕事で一日中不在、お母さんは昔の友人と食事会だとかで、今日の夕食は私一人だったことを思い出しました。

 今からもう一度外出して買い物をするのは億劫だったので、冷蔵庫の中にある食材を確認し、その中から作れそうな献立を考えて調理に取り掛かります。

 効率の良い調理手順を考えながらまな板に食材を並べてザクザクと切っていきますが、その単調な音につられてか私の意識は勝手に夢想を始めます。

 この漠然とした不安はなんなのでしょう?

 誰かといる時は平気なのです。でも一人でいると、ふとした拍子に心がざわつきます。

 この感情は恐怖? 寂寥? それとも焦燥?

 どれもが事実ですが、ただ一つの言葉で表す表現を私は知りません。それでも強いて言うのであれば空虚という言葉が正解に近いでしょうか。色々な感情がごちゃ混ぜになっているからこそ、強烈な虚しさを意識してしまいます。その虚しさの正体を知ろうとすると、今度は真っ暗の水の中でただただ無力の自分が漂っているような錯覚に陥ってしまい、どこかへ進むことさえままなりません。

 まったくどうして私の両親は雅鯉朱なんて名前を付けたのでしょう? これではまるで彷徨い続ける少女そのものではありませんか。一匹の猫でも飼っていればもう少し様になったのかもしれませんが、現実はそこまで気が利かないようです。

 私はどこに向かって歩けばよいのでしょう? それともどこかで道を間違えたのでしょうか? もしも道を間違えたのだとしたら、真っ先に思い浮かぶのは5年前のとある日のこと。

 あの日確かに私の心は変質してしまいました。でもそれは自覚できる出来事の一つというだけで、本当は日常生活の中でも自覚なしに変質を続けているのかもしれません。

 それは一人で物思いにふけるとき。

 それは悲しい現実を静かに受け入れるとき。

 それは自分の無力さを実感したとき。

 そして今この瞬間でさえも!

「――痛ッ!」

 突然の痛みで意識が引き戻されます。

 手元に目を向けると、左手の人差し指から血が流れていました。どうやら包丁で指を切ってしまったようです。

 随分と初歩的なミスをしてしまったなぁと思いつつ、指から流れ出る血を私はしばらく眺めていたのでした。

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