第二章[1]

 温かいココアから立ち込める匂いに鼻を鳴らしながら、幼い女の子は背の高い椅子に座って笑顔を浮かべています。彼女の両隣にも椅子が用意してあって右側がお母さん、左側がお父さんの席です。

 お父さんはすでに席に座って新聞を広げているけれど、お母さんはまだ座っていません。女の子は早く早くとお母さんを急かしています。

 目の前にはバターの乗ったトーストが彼女に食べられるのを待っているけれど、いただきますの合図がなければそれを食べることは叶いません。

 待ち切れなくなった彼女は小さなカップに入ったココアに手を伸ばし、一口だけ飲んでしまいます。

 すると突然口からコップを離しました。口から小さな舌を出してチロチロと動かしています。

 火傷でもしてしまったのでしょうか? さっきまでワクワクしていたはずの心は少し元気をなくしてしまいました。

 女の子はお母さんが早く座らないせいだと思いましたが、口には出せずに一人で顔をムズムズさせています。

 この女の子の名前はアリスと言います。そう、ここは遠い昔にあったある朝の一幕。

 こんな朝食の風景はほんの短い一時期のことでしたが、記憶のアルバムを開いて最初の1ページ目を飾るのはこの光景です。

「おかあさーん、もう食べようよぉ。せっかくのパンが冷めちゃう……」

「はいはい、今座りますからね」

 お母さんがそう言って椅子にゆっくりと手を掛けたところで、私はお父さんの方にも顔を向けます。

 お父さんは私の気持ちを察してか、もうすでに座ろうかという体勢のお母さんにさぁさぁと急かします。

 そうするとお母さんは分かってますよと言いながらお父さんに怒った顔を向けます。

 だけれども、本当に怒っているわけではありません。

 お母さんの頬にはわずかにシワが寄っていて、笑っているのだと私には分かりました。

 お父さんは苦笑いしたような顔をしています。その光景がなんだということはないのですが、そんな両親の姿を見て私もつられて笑いました。

「それじゃあ、みんな揃ったことだし食べようか。いただきます」

「「いただきます」」

 他愛のないことでも誰かが笑えば他の二人も笑います。特別に面白いことなどない平凡な光景なのでしょうが、私の胸はポカポカとした温かみを感じていて、不思議な高揚感に包まれていました。

 当時の私はこの感覚を表す言葉を知りませんでしたが、未来の私はこれを幸福と呼びます。




 私が5歳ぐらいの頃、おうちの隣に新しい家族がやってきました。

 その日はリビングでお絵かきをしていましたが、インターホンの音が鳴ってお母さんが玄関に向かっていくのを自然と目で追います。

 お母さんの会話に耳を傾けてみると、どうやら新しいご近所さんがやって来たようでした。

 少し前まで工事の音がうるさかったことを思い出しつつ、もううるさいのはお終いなんだなぁと思っているとお母さんが玄関から私を呼びます。

 ひょこひょこと出ていくと、そこには私と同じぐらいの背格好をした女の子が立っていました。

 短く整えた髪に切れ長の目をして、薄っすら日焼けした肌の彼女からは、大人びた印象を受けました。

 私よりも少しだけ年上なのでしょうか? 言葉にすることはありませんでしたが、カッコいい人だなと思いました。

「ほら、雅鯉朱。向かいの家に引っ越してきた作倉さんよ。こちらのお嬢さんはあなたと同い年みたい。良かったわね。これから長い付き合いになるんだから挨拶しとかなくちゃ」

 お母さんは私にそれだけ言うと、作倉さんの家のおばさんと会話をし始めました。

 取り残された私と目の前の彼女は、少し探るような空気を醸しながらも自己紹介をします。

「えーっと、こんにちは。わたしアリスっていうの」

「はじめまして。わたしはサクラよ」

「うーん? それはきいたよ?」

「ちがう。あ、いやちがわないけど。んーっと、なまえもサクラなの。だからサクラが2かいつづくの」

「へー、そうなんだ。なんだかカッコよくてうらやましいな」

「カッコいい……かしら?」

「うん! いいなぁ、サクラ・サクラちゃん」

 私は彼女の名前を舌で飴を転がすかのように弄びます。

「サクラは1かいでいいからね」

「あう、ごめんね」

「べつにおこってないよ。それよりもこれからよろしくね」

「う、うん!」

 私たちの会話が終わったと同時にお母さんたちの話も終わったようでした。

 玄関を出る桜ちゃんに向かって私は手を振ります。

「こんどいっしょにあそぼうね」

 桜ちゃんは振り返ると、笑顔で手を振り返してくれました。

 なぜだか分かりませんが、きっと彼女とはずっと友達でいられると思ったのでした。




 タララララン、となめらかなリズムに合わせて私の体はメトロノームのように揺れています。

 今日は桜ちゃんのお家にお邪魔をしていて、今はピアノ鑑賞タイムの真っ最中です。

 私たちが知り合ってから5年近く経ったでしょうか。気の合う私たちは学校が終わってはこうしてお互いの家で遊ぶのが日課になっていました。

 両手を目いっぱいに広げても端まで届かないぐらい大きなピアノを、桜ちゃんはまるで自分の体の一部と言わんばかりに操ってみせます。

 部屋には私と桜ちゃんしかいないので、まるで私一人のためだけの演奏会のようです。こんな贅沢をしてしまってよいのでしょうか?

 桜ちゃんが演奏を終えて一呼吸おいたタイミングで私は精いっぱいの感謝を込めて拍手をします。そうすると桜ちゃんは照れと困惑の表情を浮かべて、私の視線を振り払うように顔の前で手をパタパタと振ります。

「もう、はずかしいなぁ。別にそんなにすごいことじゃないってば」

 いつもは落ち着いた表情をしていることの多い桜ちゃんですが、珍しく顔が赤くなっています。彼女はそれが暑さからくる火照りだと言いたいのか、両手をパタパタと扇いで顔を冷ましているようです。

 もちろんそれが照れているだけだと分かっている私は面白くって仕方がありません。

「そんなことないよ。この前テレビでやってた何とかっていう有名なピアニストさんの曲よりも、桜ちゃんの方がずっと上手いよ」

「そのピアニストさんが誰なのかは知らないけれどありがとう。でもそれはテレビで聞いたからじゃないの? アリスは今ここで直接きいてるから良く思えただけよきっと」

「そうかなぁ? それでもやっぱり自まんしていいと思うんだけど」

「私の実力じゃ自まんしたって、後ではずかしくなるだけよ」

「じゃあいつになったらできるの?」

「どうしてそんなに私に自まんさせたいのかしら……?」

「桜ちゃんはこんなにスゴいんだよって私が周りに自まんしたいの。でも桜ちゃんが自信を持ってくれなきゃそんなこと言えないでしょう?」

「もう、アリスってば……」

 何か言いたげに桜ちゃんは口を少し開きましたが結局声に出すことはなく、代わりに私の耳に届いたのはため息混じりの承諾でした。

「はぁ、分かったわよ。アリスが自まんできるように頑張るからもうしばらく待ってなさい」

「うん!」

 桜ちゃんの返答に満足した私は、彼女の将来の姿に思いを馳せます。

 いつかの未来、満員のコンサートホールでドレスに身を包んだ彼女はそれはそれは素敵な演奏を披露するでしょう。そんな彼女を私は客席の中で座りながら、目を閉じて静かに笑っているのです。

 そんな素晴らしい未来を夢想しつつ、続けて質問します。

「桜ちゃんは将来ピアニストさんになるの?」

「そこまではまだ分からないわね」

「えぇーなんで? もったいないよ」

「ピアニストになるかどうかは将来にならないと分からないでしょ。あ、上手いとか下手とかの話じゃないよ。今だってピアノをひくことが好きだし、このまま大人になってもひいていられるならいいなって思う。でも、大人になった時にはもっと別のことがしたくなってるかもしれないじゃない?」

「私や桜ちゃんの家族の人たちだって楽しみにしてるのに」

「どうしてアリスが私の家族のことまで知っているんだか……まぁそれはいいや。ともかく、周りの人はガッカリするかもしれないけど、そんな理由でピアニストになるなんてイヤ。どうせなら私のやりたいをしていたいのよ。私の意志ってやつ?」

「意志ぃ?」

「アリスには大人になったらやりたいことがないの?」

「別にやりたいことはまだ決まってないけど、どうせなら周りの人がよろこんでくれることをしたいなって」

「お医者さんとか?」

「ううん、そういうことじゃなくてお仕事は別になんでもいいの。でも私が一番うれしいって感じるのは周りの人が笑ってくれることだから、もし何かするとしたらそういうことを仕事にしたいなって思う」

「……アリスはできた子ねぇ。意図してないとこがアリスらしいけど。でもそれって本当にやりたいことなの?」

「できた子って?」

「あー、それは気にしないで」

「そう?」

「そうなの。で、言いたかったのはそっちじゃなくて後の方ね。周りがよろこぶことでもアリスがやりたくないことだったらどうするの?」

「どういうこと? 周りの人が喜んでくれることが私のやりたいことだけど」

「えーっと、そうだなぁ……あ、そうだ。アリスって確か高いところ苦手だったよね?」

「うん。床がすけてる展望台とか想像しただけでもうダメ」

「じゃあもし展望台みたいな高い建物を建てる大工さんになってほしいって周りの人から言われたらどうするの?」

「えー、それはちょっとイヤかなぁ。でも、やっぱり大工さんになれるように努力はするかも」

「高いところが苦手なのは努力でなんとかなるの?」

「ダメかも」

「アリスは高いところがイヤなのに周りの人のために頑張るのって変じゃない? それでも幸せなの?」

「イヤだけど、幸せは感じられると思う」

「えぇーどうして? だって自分は辛いままでしょ? それだったらもっと他に自分の好きなこと、例えばケーキが好きだったらケーキ屋さんになるっていう風には思わないの? それでもよろこんでくれる人はきっといるでしょ?」

「うーん、自分の好きなものをお仕事にできたら楽しいだろうし、それはそれで幸せなんだろうけれど、ずーっと不安が残ると思う」

「不安って?」

「だって私がケーキ屋さんになったとするでしょ? でもそうしたら私には大工さんになってほしいって思ってた誰かさんの期待通りにはなれなかったわけだよね。期待をうらぎったみたいな気分になるぐらいなら、最初からみんなに期待されてた大工さんになる方が幸せだと思うの」

「分かんないなぁ。私なら辛い思いをしてまで周りが幸せになってほしいなんて思わないよ。もちろん周りがよろこんでくれることは良いことだと思うけれどね。でもまず初めに自分でやって楽しいと思えることをして、そのことで周りも幸せになってくれたらラッキーって考えるものじゃないの?」

「私にはそっちの方があまりピンと来ないなぁ。私が好きなことだけをやっても、やっぱりどこかで不安があるよ。でも最初から周りに期待されていることがあるのなら、それは間違いなく正しいことでしょう?」

「うーん、正しいのかなぁ? ダメなことじゃないのはなんとなく分かるけれど、正しいとも言えないんじゃないかなぁ……?」

「別に私が正しいって言いたいわけじゃないけど、それでも私はって答えがあった方がいいの。だからもし何かするなら自分がしたいことじゃなくて周りが私に期待していることをやりたいかなって」

「まぁそこまで言うのなら……でも、うーん……」

 何かを言いたげな様子ですが、なかなか言葉にまとまらないのか、桜ちゃんはしばらく唸ってしまいました。

「別に桜ちゃんが困ることじゃないんだから、そんなに考えなくても大丈夫だよ」

「自分のことなんだから、もうちょっとあなたも考えなさいよ」

「えへへ、きっとダイジョーブだよ。桜ちゃんがさっき言ってたみたいに来年にはもっと他にやりたいことが見つかるかもしれないよ」

「だといいけれど……ってどうしてそんなにニコニコしてるのかしら」

「えぇ? そう?」

 意識はしていなかったのですが、どうやら気持ちが顔に出ていたようです。

 桜ちゃんが私のことを深く思ってくれているのが嬉しかったのですが、さすがにそれを正直に伝えるのは恥ずかしく、笑ってはぐらかしたのでした。

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