第一章[5]
いつもは通ることのない道を新鮮な気持ちで眺めながら自転車を漕いでいた。同じ街の中であっても知らないところに行くと妙に心がソワソワしてしまうのはなぜだろうか。
今日は雅鯉朱さんに頼まれていたボランティアのため、僕は目的の教会へ向かっていた。
空を見上げると厚い鈍色の雲が立ち込めている。雪はまだ降り出していないが、手伝いが終わるまでこのままの天候でいてくれるだろうか。寒いのが嫌なのはもちろんそうだが、降りしきる雪の中、鼻水垂らして必死に自転車を漕ぐというひどく惨めな事態は何としても避けたい。
何度か道の途中で立ち止まって地図を確認することにはなったが、無事に目的の地に到着する。
教会と聞いていたものだからヨーロッパのお城みたいな荘厳な建物を想像していたのだが、目の前の建物はなんてことはないごく普通の一軒家であった。
ガレージにはかれこれ10年はおろか20年近くは働いているであろう小型の大衆車が停まっている。
建物の方はと言えばあちこちに細かいヒビ割れが見られ、蔦が這っているのを見ると不安を掻き立てられる。
だが、視線を上に向けると屋根の所に十字架が掲げられており、それでようやくここが教会である確証が得られた。
また、教会の前には掲示板が立っており、手書きの標語らしきものも見られた。おそらく聖書の一部から抜粋されたものだろう。
なんというかこう……趣深い建物である。他の人がどう思うのか知らないが、僕は想像の中にある荘厳な教会よりも今こうして目の前にある教会の方が純粋に素敵だと思った。
観察はこのぐらいにして中へ入ろうかと思ったのだが、いざ進もうとしたところで足がピタリと止まる。本当にこのまま中へ入ってしまって構わないのだろうか?
教会の中からは子供たちのはしゃいでいる声が聞こえているので、滞りなくイベントは進行しているのだろう。
この建物の間取りがどうなっているかは分からないが、この扉を開ければ遊びまわっている彼らと僕がいきなり鉢合ってしまう可能性もあるのだ。
ボランティアで参加している大人たちは今日僕が来ることを雅鯉朱さんから前もって聞かされているだろうけど、子供たちの方はどうなんだろう? 子供たちにボランティアで誰が来るかなんて紹介するとは思えないのだが。
あぁ、そう考えると気が重いなあ。普段は考えないようにしているのだけど、初対面の人と話すといつも心が擦り減る感覚があるのだ。世の中には人と会うことでむしろ活力を得るタイプの人がいるけれど、僕にはとてもそっち側の人間になれそうにない。
入る前に一度雅鯉朱さんに連絡を入れようと思って番号にかけてみるのだけれど、呼び出し音が鳴り続けるだけだ。彼女も子供たちと一緒に遊んでいる最中なのだろうか。
どうしたものかと考えていたら、教会の扉が開いて人が出てきた。何人かの大人に混じって見知った顔の人がいる。あれは作倉さんだ。
困ったというような僕の視線を感じ取ってかどうか分からないが、彼女は一緒に出てきたボランティアの人たちに何かを短く伝えるとこちらに近づいてきた。おそらく彼女も僕のことを覚えているのだろう。
「あぁ、どうもお久しぶりです。小松です。今日はボランティアの手伝いということで雅鯉朱さんに呼ばれたのですが」
すでに面識はあるけれど適切な距離感を推し量るべく、ひとまずペコペコしながら挨拶する。
「こんにちは。雅鯉朱から話は伺っています。今到着されたんですか? こんな道のど真ん中で待っていなくても普通に入ってきてもらえばよかったのに」
「いやぁ、いきなり知らない人が入ってきたら子供たちが驚いたりしないかなって思ったものですから」
「そんなこと気にしなくても……」
「えーっと、それで僕は何のお手伝いをすればいいんでしょうか? 雅鯉朱さんから人手が欲しいとだけ言われてるんですけど、何をやればいいのか何も聞いていなくて」
「あー、それは……ちょっと雅鯉朱を呼んでくるので、そこの公園にあるベンチで待っていてもらえますか?」
そう言うと彼女は教会の向かいにある公園のベンチを指差した。
言い淀んだ風に聞こえたのは気のせいだろうか? 僕はてっきり荷物運びや片付け等の裏方作業を任せられるものだと思っていたのだが違うのだろうか? まさかサンタのコスプレをして子供たちと遊べとでもいう気だろうか。それはさすがに勘弁してほしい。そういうことは僕の最も苦手とする類の仕事なんだ。
一人でこれから手伝う仕事にあれこれと想像を巡らして恐怖に怯えていると、作倉さんが雅鯉朱さんを連れて出てきた。彼女はなぜか黒っぽいシスター風の恰好をしている。やっぱりコスプレさせられるのだろうか?
「お待たせしてしまってすみません。電話もくださっていたみたいなのに」
「いえ、別に気にされるほどのことじゃありませんよ。それより出てきても良かったんですか?」
「今はご飯の時間なので大丈夫です!」
「それなら良いんですが……」
僕は座っていたベンチの位置から少し横にずれて彼女たち2人を座らせる。雅鯉朱さんの両隣を僕と作倉さんが挟み込むような形だ。
「ほかにもボランティアの人たちがいますし、私一人がいなくても何も問題ありませんよ。それにしても本当に来てもらえて嬉しいです」
今日の彼女は少し興奮気味に見える。
一方で作倉さんの方はというと、さっき僕と話した時より少し鋭い目つきになっている気がする。
なぜなんだろう? セクハラしたりしないか警戒でもされているんだろうか。
「えっと、それで僕は何をすればいいんでしょうか?」
「その話なんですけれど……ごめんなさい!」
突然の謝罪の言葉に僕は戸惑ってしまう。そんな謝られないといけないような過酷な仕事が待っているとでもいうのか。
「もしかしてやっぱりサンタの恰好をして子供たちと遊んだりするんでしょうか? 手伝いを申し出ておいて言うのもアレなんですが、僕にはそういう仕事はちょっと……」
「いえいえ、そうではないんです。あの、実はお手伝いの話っていうのは嘘なんです」
「え?」
嘘? じゃあ今日僕が呼ばれたのはなぜなんだろう? さっきから話が見えてこない。
作倉さんの方に視線を向けるけれども、彼女はまだ待てとばかりに雅鯉朱さんへ視線を向ける。どうやら彼女は事情を知っているらしい。
「その、小松さんの善意を裏切る形になって本当に申し訳ないんですけれど、どうしても小松さんにお聞きしたかったことがあるんです。でもその、聞きたい内容が少し変と言いますか、どうやって聞けばいいのか分からなくて……」
「それで今日のクリスマスパーティーに?」
「はい……」
なんだそれは。それならそうと普通に言ってくれればいいのに随分と回りくどい方法を採るものだ。彼女がこんなことをするのは意外といえば意外だが、やっぱりといえばやっぱりな気がしないでもない。
僕と彼女は全く異なるタイプの人間だと思っていたけれど、ひょっとすると思考回路というか精神の形みたいなものが似ているのかもしれない。ただ僕と彼女とでは答えの出し方が異なるだけなのだ。
「ははっ」
「呆れられるのは分かってたんです。それでも私知りたくて……」
「いやいや、そういうつもりで笑ったんじゃないですよ。なんだか似てるなって」
「え?」
「いや、こっちの話です。それでその聞きたいことっていうのは何なんです?」
「あの……」
そう言って雅鯉朱さんは僕とは反対側にいる作倉さんに目配せをする。対する作倉さんは『言いなよ』という代わりに頷いた。
「少し人生相談をさせてもらいたいんです」
「じ、人生相談ですか。僕はあまり模範的な回答ができる人間だと思っていないんですが大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ですから少しだけ私の話に付き合っていただけませんか」
「そう仰るのであれば断るわけにはいきませんね。どうぞ話してみてください」
「ありがとうございます!」
彼女はパァっと表情を明るくしたものの、すぐに元の表情に戻って静かに語り始めた。
「あの、私の夢は学校の先生になることなんです」
「へぇ、雅鯉朱さんには向いていると思いますよ」
「小松さんもそう仰るんですね」
おや? 何かおかしなことでも言ってしまったのだろうか。穂垂さんもということは、おそらく作倉さんにも同じ話をしていたのだろうが、あまり嬉しそうな感じではなさそうだ。
「えぇ、この前お会いした時も楽しそうに子供と遊ばれていましたし、今でもこうやってボランティア活動に参加されているじゃないですか。そんな雅鯉朱さんが先生になりたいと思うのはすごく自然なことだと思いますよ」
「ありがとうございます。でも、そのことで今少し迷っているんです。確かに私は子供と遊ぶのが好きで、将来は先生になることが昔からの夢でした。でもいつからか罪悪感みたいなものを感じるようになってきたんです」
「罪悪感ですか」
「はい、こう言ってしまうと傲慢に思われるかもしれませんが、ボランティア活動を続けていくうちに子供に対してどうやって接すればいいのか分かるようになってきたんです。この子はどうすれば喜ぶかとか、どうお話すれば素直に言うことを聞いてくれるのかとか」
「それは良いことなんじゃないですか?」
「そう思いたいんですが自分の中にわざとらしさみたいなものを感じてしまって、どうしても心に引っ掛かりができるんです。だから子供たちから笑顔を向けられても、最初からそうなるように仕向けたみたいな意識が邪魔をして、以前は感じられていた嬉しさが今は分からないんです」
「あぁ、なんとなく雅鯉朱さんの仰ってることが分かりました。それってつまり世間の自分に対する評価と自分自身での評価が噛み合っていなくて、そこに世間に対する欺瞞というか罪悪感を感じるということですよね」
「そう! それです!」
「えぇー。よく今の話だけで意味が分かりますね。私は前から聞いてますけれど、未だによく分からないですよ」
黙っていた佐倉さんが横から割って入ってくる。自分の主張が理解されて嬉しそうな雅鯉朱さんとは対照的に作倉さんは納得のいかない表情だ。
「作倉さんが分からないと仰るのはどのことですか?」
「世間の自分に対する評価っていうのがよく分かりません。自分のやったことに対してわざわざ相手が『良かったぞ』だの『悪かったぞ』だの言うわけないじゃないですか」
「ええと、そうですねぇ……例えばの話ですが、電車で作倉さんの隣に座っていた人がどこかの駅で降りたとしましょう。で、その人は持ち物の傘を座っていた席に忘れていったとします。作倉さんがその時すぐに気付いたとしたらどうします?」
「そりゃあ傘を持って相手に渡すと思いますけど」
「傘を渡すために電車を降りることで、もともと自分が乗っていた電車を逃してしまうと分かっていても?」
「たぶん普通に傘を届けることを選ぶと思いますよ」
「それはどうしてですか?」
「どうしてって……そりゃあ傘がなければその人は困るでしょうし、自分だって忘れ物に気付いているのに何もしないなんてモヤモヤするじゃないですか」
「作倉さんは善い人ですねぇ」
「いやいや、それぐらいは普通じゃないでしょうか」
「このことは佐倉さんの自己評価と世間の評価に差があると言えませんか?」
「あー、そういうことですか? でもまだあまりピンと来ないですね。今の例で言えば私は悪いことはしたわけじゃないので、善い人だと評されることも理解はできますし」
「じゃあ、今の例で僕ならどうするか言いましょうか」
「傘を届けないんですか?」
「いえ、傘は届けます。仮にその結果電車を逃すことになったとしても」
「善い人じゃないですか」
「僕の場合は行動理由が全く違います。僕の場合、傘を届けようとするのは周囲の目が気になるからなんですよね」
「はい?」
「忘れ物をした人が困ることに関しては可哀想だとは思いますけれど、その人を助けたいと思うほどの関心は僕にはないんですよ。それよりも傘を届けることで電車を逃してしまうことの方が僕にとっては問題です。でも、忘れ物に気付いているにも拘わらず無視するのはモヤモヤしますよね? 人助けできる場面で自分は何もしないっていうのは、むしろ悪に近いと思います。ここでもし僕が傘を届けなかったとしたら、忘れ物に気付いたのに何もしなかったやつという烙印を押され、僕が電車を降りるまでひたすらそのことに苛まれるんです。このことは電車を逃すことよりも問題ですから、僕は仕方がなく傘を届けます」
「う、うーん、考え方はどうであれ良いことをしているとは思いますが……」
「行動自体は佐倉さんと同じことをしているので世間からは良い評価を得られるでしょうが、僕自身は良いことをしただなんて1ミリも思えるはずがありません。これなら自己評価と世間の評価に差があるということも分かりますよね」
「な、なるほどです」
「まあ今の例だと雅鯉朱さんは僕よりも佐倉さんと同じ行動原理で動かれるでしょうがね。それでも性格の違う僕が雅鯉朱さんの話を理解できるのは、僕自身が似たような感覚を知っているからなのかもしれません」
「小松さんも何か罪悪感のようなものが?」
「いやまあ僕は実際に罪人なんですが」
「す、すみません!」
「いやいや、これはただのジョークなんで気にしないでください」
「笑えませんよ」
「はい、すみません。次からは気をつけます」
怒られてしまった。考えてみれば笑いづらいことを言ったかもしれない。
自虐ネタはよく考えて発言しなければと反省しつつ、気を取り直して話を続ける。
「で、話を続けますが雅鯉朱さんたちがご存知のとおり、僕は今奉仕員という立場にあります。そしてこれもご存知でしょうが、奉仕員というものは何らかの社会貢献によって自らの罪を贖わなければなりません。この活動に従事しなければならない度合い、つまり奉仕得点と呼ばれるものは罪状により変わりますが、同じ罪状であっても人によって更生期間に差があるんです」
「小松さんはまだまだ奉仕員を続けないとダメなんですか?」
「すみません、必要な点数を具体的には話すことは禁止されているんです」
「あっ、そうなんですね。こちらこそ変な質問をしてしまってすみません」
「それで、僕はどうやら比較的早いペースで得点を獲得できているらしいんです。でも僕としては得点を集めたとしても、自分自身を赦せる気がしないんです。遅かれ早かれ規定の得点を集めて元の生活に戻るでしょうが、僕の犯した罪はこれからも事実として永遠に残り続けます。出所後の僕を世間は一般的な国民として扱うでしょうが、僕自身の認識は今と同じ罪人のまま変わらないと思うんですよね」
「そんな。小松さんが過去に何をされたのかは分からないですけど、国が定めたルールなんですから、小松さんは自由にしていいと思います」
「雅鯉朱さんもそう仰るんですね」
彼女はハッとした表情して、すぐに押し黙ってしまった。
特に意地悪するつもりで言ったわけではないのだが、今のは言葉選びが適切ではなかったかもしれない。
「いや、雅鯉朱さんがそう思ってくれたことはありがたいことだと思います。でも、そういう風に世間から赦されていると理解してもなお、僕は自身のことを全く赦せないんです。ですから雅鯉朱さんの仰る悩みは僕にもよく分かります」
「それなら、小松さんはこの罪悪感をどういう風に受け止めようとしていらっしゃるんですか?」
「お恥ずかしながら、僕もまだ明確な答えを持っていないんです」
「そうですか……」
「ただ、少しずつでもこの問題にケリをつける方向性というものは考えているつもりです」
「それはどういったものなんでしょうか?」
雅鯉朱さんの瞳が輝きを増したように見えた。
うぬぼれなのかもしれないが、彼女は僕に何かとてつもない期待が寄せているような気がする。
とはいえ僕にできるのは、ただありのままに頭に浮かぶ考えを話すことだけだ。
「僕が考えているのは、善悪という言葉はただの観念にすぎないと割り切って、ただ現実だけを見据えることです」
「え……?」
彼女が露骨にがっかりしたように見えたのは気のせいではないだろう。でもこれが僕の答えなのだから仕方ない。
「もちろん社会のルールに従った上での話ですが、僕たちの問題というのは自分の中で勝手に善悪を規定していることだと思うんです。でもこの善悪というのはいつの間に染みついたんでしょうかね? 僕が思うに、今までの人生で出会った人たちから知らず知らずのうちに見聞きしたこうあるべきという倫理感を取り込んでいたんじゃないでしょうか。そして僕も雅鯉朱さんも心のどこかでこれを善いことだと信じていたんでしょうね。でもその結果、法で規定されたような罪とは別の善悪基準が出来てしまい、僕たちは罪悪感という罰を自らに課すようになってしまいました。これはきっとどこかで考え方が間違った方向に行ってしまったからだと思うんです。それなら一度リセットといいますか、もっと現実に意識を向けるのもアリかと考えたわけです。僕の場合であれば社会奉仕活動が評価されていること。雅鯉朱さんの場合であれば子供たちに感謝されていること。ただこのことだけが真実で、わざわざネガティブな解釈を付け加える必要はないんじゃないかと」
「でも、私の倫理観のどこが間違ってるかなんて分からないですよ。それだと一度リセットしたところで、最終的には今と同じ形で自分の中に取り込まれますよね。それに、自分の中で解釈があるからこそ得られる幸せがあるじゃないですか」
「どういう意味でしょうか?」
「世の中には色々な幸せの形があると思います。お金持ちになることや、スポーツで優秀な成績を収めること、恋愛の成就だってそうでしょう。でも私が思う幸せに一番大事なのは人とのつながりなんです。別に特別なことなんかなくてもいい。いつもの日常の中、ふとした拍子に相手の善意を感じた時、胸がムズムズするような幸福を感じるんです。そうすると今度は私も相手に同じ思いを返してあげたくなります。報酬なんて望まないただ純粋な善意をもって人とふれあっていたいって。この善意というのは現実を私の中で解釈することで生まれるものですから、ここを切り離すことは絶対にしちゃいけないと思うんです」
雅鯉朱さんは僕の意見が気に入らないのか、少し興奮しているような気がする。
「僕には……雅鯉朱さんが仰るような具体的な幸せを想像することができません。能動的に動いて幸せを手にすることができるのであれば、それはただの成果に対する報酬と捉えてしまいますから幸せとは別物だと思ってしまいますね。生きている中で絶えず現れる選択肢に対していかに良い選択ができるか、それだけが幸せを得るためにできることだと僕は考えています」
「選択肢……」
「雅鯉朱さんの言葉には少し嘘があるような気がします。報酬はいらないとのことですが、結局雅鯉朱さんは自身が善意を振りまくことで、相手からの善意を求めているんじゃないですか? あ、いや、少しトゲのある言い方になってしまいましたね。別にそのことは何も悪いことじゃないと思います。ただ、今の雅鯉朱さんは相手からの善意に慣れすぎてしまって、逆に善意について複雑すぎる解釈をしているんじゃないかと思います」
「そういうつもりはないと思いますが……」
言葉では否定しているものの語尾が弱々しく、心のどこかで否定しきれないものがあるのだろう。
「雅鯉朱さんの信念を否定するつもりはありません。ただ、今のままでは自分を苦しめる思考に囚われたままになってしまいますから、いっそ今の考え方をバッサリ捨ててしまって別の考え方を求めるのが良いじゃないかということを僕は言いたかったんです」
「……穂垂さんも同じことを仰るんですね」
誰と? と聞き返す前に、雅鯉朱さんは立ち上がってこちらを振り返る。
「今日はありがとうございました。穂垂さんとお話ができてよかったです」
「いえ、僕の考え方はあまり褒められたものじゃないかもしれませんが、雅鯉朱さんの参考になるというのなら来た甲斐がありました」
「こういう相談ができる人って中々いませんし、自分では思いつかないような考えを知ることができました。今日のことを思い返してもう一度自分の中でじっくり考えてみます」
「えぇ、ぜひ雅鯉朱さんなりの解釈をしてみてください。それでは今日はこのあたりで」
「はい。ありがとうございました。それではさようなら」
雅鯉朱さんたちと別れた僕は自転車に乗って元来た道へと帰る。
緩やかな坂道を下りながら、僕は浅く長い息を吐いた。なんだか頭の中が重い。僕はよく過去の出来事を頭の中で再生して一人反省会みたいなことをするのだが、中には考えることが億劫な出来事もある。さっきの出来事はまさしくそのケースだ。でもだからと言って振り返らないわけにもいかない。
果たして僕が雅鯉朱さんに話したことは間違っていなかっただろうか?
自分の胸を苛む罪悪感を僕も雅鯉朱さんも抱えて苦しんでいる。でも僕は雅鯉朱さんのように罪悪感から逃れたいと強く願っていない。僕にとっては今のこの苦しみが贖罪のようなものだと思っているからだ。
一方で雅鯉朱さんの場合はそもそも悪いことをしているわけではないので苦しみが贖罪になるわけではないし、やはり不必要な苦しみなのだろう。だからいっそのこと今の考えを捨てるよう進言したのだが軽率だっただろうか。
僕は彼女のことを何も知らないのだ。
この街で偶然出会って、さらにいくつかの偶然が重なって今日初めてじっくりと話をすることになった。ただそれだけの関係だ。それなのに、随分と心の奥深くに触れるような話をしてしまった。
彼女の言葉は昔を思い出させる。ロクな思い出がない親父との会話だ。ただ、無性に腹が立っていたことは覚えていても話の内容までは思い出せない。何を話していたんだっけか。
……まぁそんなことはいいか。
ハラハラと冷たい雪が舞い降り始めた灰色の雪雲を憎たらしげに一瞥すると、僕はペダルを踏む足に力を込め、寮への帰路を急いだ。
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