プロローグ[3]
喧嘩をしてからというもの、親父が家に帰ってこない日が徐々に増え始めた。
以前であれば何かあったのだろうかと気にするところだったが、今の親父であれば外で何をやっていてもおかしくはないので、特に気にすることはしなかった。家に帰ってから酒を飲んで暴れられるよりかよほどマシなので、僕個人としてはむしろ好都合だったというのもある。
一方で母さんはそれでも親父のことを心配していた。その気持ちも理解できないわけではない。だが、どうせ1日か長くても2日経つ頃には家に戻ってくるので、僕からすれば何をそんなに無駄な気苦労するのかと思っていた。
ところが、親父が家を空けてから5日経っても帰ってこなくなると、さすがに焦りを感じ始めてくる。
母さんが警察に連絡した方が良いんじゃないかと言い出して、僕もその意見に渋々同意する。親父が心配だったというよりも、親父を心配してる母さんを見ているのが居た堪れなかったからだ。
それから母さんと話し合いの末、警察へ相談しに行こうかと話がまとまったところでインターホンが鳴った。
最初は親父かと思ったが自宅に帰るのにわざわざインターホンを鳴らすはずがない。母さんと顔を見合わせてもやはり心当たりがなさそうだったので僕が応対する。
ドアを開けるとそこに立っていたのは2人組の警察官だった。
僕は瞬間的に親父が何かやらかしたのだな直感する。そしてその予感は正しく、親父は違法賭博場を頻繁に利用していた疑いで任意同行を求められていた。
当の親父は不在でしばらく家に帰っていないということを説明すると片方の警察官は困った顔を浮かべて、もう片方の人はどこかに電話をかけ始める。
その後警察官からは親父が賭博に関わっていることを知っていたかとか、家を出る前に何か言っていたかとか、幾つかの質問をされた。でも残念ながら……というのは変な言い方かもしれないが、何も手掛かりになるような情報はこちらも持っていない。
結局、何も収穫が得られそうにないことを理解した警察官たちは『何か思い出したら連絡をお願いします』とだけ言って帰ってしまった。
まったく親父はどこまでも迷惑なやつだなとあきれていたのだが、母さんは随分と憔悴したような顔をしていた。
どうしてあんなやつにそこまで気をかける必要があるのか理解できないのだが、僕がドライすぎるのだろうか。
内心苛立たしくさえあったが、僕の知らない親父の一面を母さんは知っているのだろうと思うことでなんとか自分を納得させた。そのうち親父だって家に帰ってくるだろうし、そうすれば母さんも安心するだろうという予感もあったからだ。
だがその後も親父は何日経っても家に帰ってくることはなかった。警察署にも何度か出向いたものの、何の手がかりも得られていないらしく、親父は事実上の失踪者となったというわけだ。
それからというものの、母さんの中で何かが壊れてしまったのか、日増しにおかしくなっていく様を目の当たりにする。
悲しみに暮れて、特に何かをするでもなく一日中ボーっとしているときもあれば、急に元気になって話が止まらないこともあった。ひどいときには夜が明けるまで付き合わされたぐらいだ。
やがて僕が20歳になる頃には、家計のすべてを僕一人が賄うようになっていた。母さんは生活に支障をきたすレベルで物忘れが激しくなっており、仕事ができなくなったからだ。
最初は老人ホームの類への入居を検討したが、高齢化社会の進むこの国では需要が供給と釣り合っておらず、母さんの年齢では入居を認められなかった。また、医療機関への入院も考えたが、終わりも見えないのに入院費を支払い続けられる財力などなく、そちらも諦めざるを得なかった。
自宅で何とかするしかなかった僕は母さんと相談して、生活に関わる細かなことすべてをメモにして冷蔵庫に張り付けることにした。おかげで最初のうちは大きなトラブルが減り、効果があったのは事実だ。
だが、1日に数枚張り付けるだけでよかったメモの数は日に日に増し、終いには白い冷蔵庫が黒い文字で埋めつくされるようになった。
このような破滅的結末を当時の僕は予見できなかったのだろうか? いや、対処療法ではこうなることが明らかだった。きっとこれは現実から目を逸らし続けた僕への罰なのだ。
崩れ始めた日常が回復の兆しを見せることはなく、ついには終局を迎えることとなる。
この頃には母さんはメモを取るという習慣さえ忘れるようになっており、入院代を躊躇しているような状況ではなかった。
僕はかねてより入院を検討していた病院へ行き、今後の手続きについて書かれた資料を受け取って自宅に帰る。
「ただいま」
居間に座っていた母さんに声をかけると、ギョッとした表情でこちらの顔を見つめられる。
「今日は早いんですね」
「ん? そうかな」
なんだかいつもと口調が違うなと思いつつ、入院の件を切り出そうとすると、母さんはビールをテーブルの上にのせた。
「これは?」
「お父さんのですよ。どうぞ」
……あぁ、そういうことか。母さんはとうとう親父と僕の区別もつかなくなってしまったらしい。
知識の上ではこういうこともあると理解していたが、いざ面と向かって言われると心は穏やかでいられない。ましてやあの親父と間違われるのは不愉快だった。
「違うよ母さん。僕は穂垂だってば」
「……えぇ?」
随分と反応が鈍い。それに目の焦点が僕と合っていないような気もする。誰もいないテーブルに向かって小さい声で何かブツブツ言っているし。もしかして脳卒中とかいうやつだろうか?
タクシーを呼ぼうかと思って電話番号を調べるが、そんな悠長なことしてないで救急車を呼ぶべき状況なのではないかと考え直す。認知機能に明らかな異常が出ているのだから、救急車を呼ぶにはそれだけで十分に足る理由だろう。
救急への電話はすぐにつながり、住所、母さんの年齢と容態、それから自分の名前と必要最小限の連絡を済ませて一安心する。
あとは母さんにしばらくジッとしてもらうだけだと思ってテーブルの方に顔を向けると、そこにいるはずの母さんの姿が見当たらない。
慌ててあたりを見渡すと、母さんが玄関で靴を履いて外に出ていこうとしているではないか。
まずい! と思って急いで追いかけようとすると、母さんもまたこちらに気付いたようで、急いで家から出ていってしまう。
どうしてと心の中で思いながら僕は靴も履かずに外へと飛び出し、母さんを呼び止める。
「なんでいきなり出ていくんだよ!」
普段は落ち着いた口調で話しているつもりだが、自分でも珍しいと思うぐらいに怒りをむき出しにしてしまった。
声にビクッと反応して立ち止まった母さんは気まずそうな顔をしながらこちらに向き直る。
「あなた待って」
あぁ、もう。だからどうして親父と勘違いするんだ。
「ほら、家戻るよ」
僕は投げやり気味に手を伸ばすと、母さんは逃げるように後ずさった。背には階段があるというのに。
声を掛ける間もなく、直後に耳に届いた『ガンッ!』という音に僕は本能的な恐怖を掻き立てられる。
慌てて母さんの元へと駆け寄り何度も声をかけるが反応はなく、目が開かれることもない。
何とか落ち着いて今為すべきことを考えて、まずは救急車だ! と思ったがそれはさっき呼んだばかりだ。
少しも冷静になれていないことを自覚してしまってますます焦りを感じてしまう。だが、先ほど通報した時とは状況が異なるのだから、やはりもう一度連絡するのが正解ではないのか。
一瞬の迷いの後、僕は再び通報し、事故の場所や状況を落ち着かない頭でどうにか説明する。
通話中も焦る気持ちばかりが募って、冷静な口調で話す救急オペレーターに苛立ちを感じてしまう。もちろん僕が冷静さを欠いている自覚はあるし、落ち着くことが正解なのは分かっている。でもこの状況で落ち着くのは無理な話だ。
一通り確認が終わると、オペレーターからは『また後で追加確認をするかもしれないので携帯はいつでも繋がるようにしてください』とだけ言われて通話を切られてしまった。
今できることは本当にもうないのだろうか? 頭では救急車の到着を待つぐらいしかできないと理解しているが、それでも目の前で倒れている母さんを見ていると落ち着いてもいられない。
それから救急車が到着するまでの間、僕は自身を呪いながらひたすら母さんへ呼びかけを続けるのだった。
母さんが死亡したことを聞かされたのは、病院に到着してから3時間ほど経った頃だった。
僕が救急車を待っていた時にはまだ呼吸があったのは間違いないはずだ。なのに、それなのにこんな結末だなんてあんまりだろう。
心がドス黒く染まっていく錯覚に襲われ、胃の中から言葉にならない何かを吐き出してしまいそうな気がした。でも、実際に出てきたのは『……そうですか』の言葉だけだった。これ以上何かを考えるのは嫌だったのだ。
暗澹たる気持ちで茫然としていると、そこに追い打ちをかけるように警察官から声をかけられた。
半分働いていないような頭で聞いていたけれど、要約すると母さんの一件が事故なのか事件なのか調査が必要なので事情聴取に付き合ってくれということだった。
できるだけ普通に受け答えしたつもりだったが、周りから見るとやはり憔悴しているように見えたのか、詳しい話はまた後日ということになった。
この人には悪いけれど僕が詳しい話をすることはないだろう。これ以上生き続ける気はないのだから。
病院から帰宅した僕は部屋の真ん中に椅子を置いて、その上に立っていた。
すでに警察へは連絡を入れてある。
間もなく警察がこの部屋にやってくるだろう。それまでに僕は最後の仕事を終えなければならない。
椅子に立った僕の目線と同じ高さのところには延長コードでできたいびつな輪っかがある。
輪っかの内側から覗く先には部屋の窓があって、そこからは目を細めてしまうような美しい青空が広がっていた。
それとは対照的に、輪っかの外側には見慣れた小汚い部屋があって、いくつものガラクタが窓からの光を遮るように影を伸ばしていた。
これじゃまるでこの世とあの世が分けられているみたいだ。
「――ハハッ」
急に笑いがこみあげてきて、思わず声に出てしまった。部屋はクーラーの音で満たされているけれど、耳を澄ませば外からセミの鳴いている声が聞こえてくる。
僕は不思議と今とても心地が良い。世界はこんなにも美しかったのか、と。人生の最後の最後にこんな気分になれるとは思ってもみなかった。
すっかり満足した僕は首を輪っかにかけて、足元の椅子を蹴り飛ばした。
次に意識を覚ました時、僕は病院のベッドにいた。
ガッカリした。僕は死にそびれたのだ。
誰が僕を助けたのだろうか。隣の部屋に最近入居してきたお爺さんだろうか。だとしたら余計なことをしてくれたものだ。
あの時の僕はまさしく人生の絶頂にいたのだ。あの時見た青空は果てしなく澄み渡り、心にはいわば悟りのような幸福感が満ち溢れていた。しかし、もう二度とあの感覚は得られまい。たとえ同じことを繰り返したとしても、心に満たされるものは何もないという直感がある。
目をつぶって半覚醒状態のまましばらく大人しくしていたが、近くでカチャカチャと音がしていることに気が付いて、再び意識を呼び覚ました。
僕の周りで何やら作業をしていた看護師と目が合うと、彼女は一瞬驚いた顔をしてから笑顔を形作った。僕に向かって二言三言話しかけると、医者に連絡してくると言って部屋を出ていった。
それから5分もしないうちに僕の主治医という男の人が来て、色々と説明をしてくれた。僕が病院に運ばれてからすでに3日が経過していること。僕を助けてくれたのはやはりお隣のお爺さんだったこと。それから、警察が僕の話を聞きたがっているということも教えてくれた。
警察からは僕が意識を取り戻したらすぐに連絡をするように言われていたらしいが、彼は僕にもう少し寝たままにしておくこともできると言ってくれた。
実際のところ、頭が少しボーっとしていたので彼のご厚意に甘えようかと思った。でも、わざわざ僕のために警察へ嘘を吐く彼のことを思うとなんだか申し訳ない気もした。
思案の末、後者の感情が打ち勝った僕は彼の提案を断って、意識が戻ったことを伝えてもらうことにする。
本当にそれでいいのかともう一度確認されたが、再度断ると彼はそれ以上何も言ってこなかった。
警察が来てからのことはあまり覚えていない。やっぱり1日ぐらいは休んでからの方が良かったのだろうか。受け答えはしっかりできていたはずだが、何を言ったのかをまったく覚えていない。
最初は主治医から聞かされた話と同じような説明を受けた後、死んだ母さんのことについて色々と聞かれた。それから今後のことについて、具体的には法律に基づいて裁判を受ける必要があることを告げられた。
時折何やら聞いたこともないような法律用語が出てくるものだから、頭に血の回っていない僕はただ頷きながら聞き流すことしかできなかった。普段でも理解に時間がかかるような話なのだから無理もないだろう。
その後、この国独自の司法制度によって僕はこれまでのことを洗いざらい調べ上げられ、今後の処遇を決定するための証言を求められたのだった。
裁判の日から10日ほど経った頃、僕宛に郵便物が届いた。送り主は刑罰を取り締まる国家機関からだ。この中に僕の処遇を記した書類が入っているのだろう。
封を開くと上質そうな厚めの紙が3枚入っていた。そのうちの2枚は大して面白くもない定型文が記されており、特に重要そうなことも書かれていなかったので、さっさと読み飛ばして封筒に戻した。そして最後の1枚を取り出すとやはり先の2枚と同じように、読まなくても言わんとすることが分かるような文章が書かれていた。
結局僕はどうすればいいんだと苛立ちを覚え、文書の末尾に視線を移したところでやっと意味のある一文を見つける。
『受刑者(小松穂垂〉を第2級更生区画にて、60点相当の奉仕活動に従事する義務を課す』
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