地獄の王

奥羽王

第1話

 村一番の神社に生まれた3歳年上のねーちゃんは霊的な素質がものすごいらしく、高校にも通わず日本各地を飛び回って魔を退ける仕事をしている。長い黒髪に凛とした目。言われてみればまさに戦う大和撫子って感じだ……。我が家は代々その神社の檀家で家族ぐるみの付き合いだから、おれのことを本当の姉のようにかわいがってくれる。


 「正義の味方が悪に勝てへんところが一個だけあるんやけど、なんやと思う?」

 

 ある日ねーちゃんがおれに質問してくる。退魔の仕事は知っているが本人がそれについて話したがることは珍しいので、会話を長続きさせようとおれは必死に知恵を絞る。

 

 「それは、凶悪さ、とかそういう意味ではないよな?」

 「うん。もっと普通の、悪にも正義にも共通してあるもの」

 「なんやろ……。そんなん無いんちゃうかなあ。ねーちゃんが魔物に負けることなんてないやろ」


 何も思いつかないおれはおべっかを言ってみるが全く響かず、アハハそんなことないよと受け流される。


 「速さやで。正義は悪に、速さでは絶対に勝てん。どこかに化け物が現れてからでないと、私は仕事できひんやろ?被害を最小限に食い止めることはできても、0にはならん。私の仕事場はいつも地獄の跡地や」


 なるほど。確かに時系列順で見れば、正義が悪の前に来ることは無い。それを比喩的に「速い」と呼んでいるのだろう。ねーちゃんの目からすれば、毎回自分は魔物に遅れて現場に到着している感覚なのかもしれない。

 

 そう感じた13歳のおれは訳知り顔で頷いてみるが、それは単に理屈を頭でなぞって納得しただけであって、その時にねーちゃんが戦っていただるだらという怪異について後に父から聞き、やっと実感を伴って理解する。


 だるだらは空間から生えた巨大な鬼の腕の化け物で、子供を鷲掴みにして削り取るように喰ってしまう。アイスをスプーンで掬ったときのような、つるつるした曲断面を残して身体の一部を失った死体なんて怪異以外ではあり得ないから、日本のどこかでそれが見つかるたびにねーちゃんが呼ばれてだるだらを追い払う。しかし完全に存在を消滅させることはできずにいたちごっこが続く。その疲労とストレスは隣にいるおれにもビシビシと伝わっていて、何となく神社へ通うことは敬遠していたのだが、偶然近くを通りかかった日に鎮守の森の中で犬を殺すねーちゃんを見かける。


 「え……ちょっと!何してるん!」


 デカい声をあげておれが近づくと、既に事を終えたねーちゃんが手から血塗れの石をポイと捨てる。


 「必要やねん」

 「え?」

 「だるだらを殺すために。必要やから」


 うわごとのようにねーちゃんは呟くが、おれには全然分からない。


 「だるだらを止めるには、私が悪にならなあかん。そうじゃないと追いつけへんから。私がだるだらよりもっと凶悪な、地獄の王になって、絶対にだるだらの棲処まで殺しに行く」


 いつか聞いた速さの話を思い出す。ねーちゃんはその持論に従い、だるだらを超える速さを……つまり、それを超える凶悪さを身につけようとしている。でもおれには、そうまでして正義の味方に徹する理由が分からない。自分や身近な人間を傷つけてまで、見ず知らずの子供をだるだらから守る必要があるだろうか?


 「ちょー待ってや。落ち着け。……なあ、ここまでせんで良くない?毎回だるだらを追い払ってはいるんやろ?それで十分やん。ねーちゃん自身も、ご両親も、もちろんおれも、犬殺しなんてしたくないし、させたくないやろ。そんなんして自分らが不幸になったらしゃーないやん」

 「全然十分じゃない。私がやらないと誰がだるだらを止めるん?私はもっと広い範囲を救いたいし、救う力があるし、救う義務があるの」

 「広い範囲って……」ねーちゃんの気持ちは分かるけど、遠く遠くへ手を伸ばしたせいで身近が疎かになったら意味ないんでない?


 誰かを救うというのはつまり、手の届く範囲を広げるということだ。最初は自分を、次に家族や恋人を、その次に友人を……力を蓄えることで、自分が世界に対抗できる空間の半径を広げていく。しかしねーちゃんは遠くを見るあまり、自分や周囲が見えていない。元々広かったはずのねーちゃんの救済エリアは、外周を広げようとしすぎたせいで中心に穴があき、ドーナツのような形になっている。ねーちゃんが遠くへ手を伸ばせば伸ばすほどドーナツの穴はより深く大きくなっていき、身の回りの人間が手のひらから零れ落ちていく……。


 ……という風に自分の正義観を整理して話せているのは大人になった今の視点から当時を振り返っているからで、中坊のおれには自分の考えを言語化する能力が決定的に不足していた。おれの脳内には理屈の代わりに、真っ暗な中で遠くを睨むねーちゃんのイメージだけが浮かぶ。ねーちゃんへ対抗するための論理も経験も持たないおれは、これ以上危ない所へ近づいてほしくないとひたすら感情的に訴えるが、結局上手く話せないままにねーちゃんは東京へ行ってしまい、何やら偉い人の直属で働き始める。


 ねーちゃんは東京でも地獄の王へ近づくために血に塗れるが、それでもだるだらを殺しに行くことはできない。というか子供をバクンバクンと喰い殺すためだけに存在する純粋な災厄を、凶悪さで人間が上回るなんてことはほとんど不可能に近い話で、追い詰められたねーちゃんはとうとう神主である自分の父親を殺す。


 おれたち家族はその事実を神社のおばちゃんに聞く。大切な夫を娘に殺されたおばちゃんは「これも神社に嫁いだものの宿命かねえ」と寂しそうに笑っていたがそんな訳ねぇやろうがアホボケ。どれもこれもアホ姉とだるだらのクソが悪い。怒り心頭に発したおれは何も言わずに家を飛び出し鎮守の森へ走る。


 その頃のおれは自分の考えを言語化することができるようになっていて、走りながら自分の怒りの正体を見定める。ねーちゃんは普通とは全く違う生活を送っていたから、凡人なら大人になるにつれ身につけるはずの、自分の脳内を俯瞰して整理する能力……例えばこんな風に自分の感情を言葉にしたり、身の回りのものに優先順位を付けたり、そういう能力を学ぶ機会が無かったのだ。だからねーちゃんは順位付けを怠ったまま自分の一位を自分で壊して永遠に失ってしまった。おれはそれに怒っていた。愚かなねーちゃんに。強くてかっこいいねーちゃんから普通を奪った周囲の環境に。


 それから何年か経ち大学生になったころ、ねーちゃんから「お願いやから助けてほしい。ユッくんのことは殺さへんし、ただ誰かそばにいてくれる人が欲しい」と書かれた手紙が届く。おれはその手紙を無視する。自分が救いの手を伸ばすべきエリアからねーちゃんを明確に外したことで胸が痛むが、おれは既に自分の手が届く範囲の小ささを学んでいたし、本来人はそうやってエリアを小さく小さく修正しながら生きていくものなのだ。


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地獄の王 奥羽王 @fukanoro

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