第5話 火が灯る場所で
ある日の夕方、私は村の裏手にある小さな広場で、年配の女性に声をかけられた。
そこは静かな場所だった。空は淡い橙色に染まり、草木の匂いが、かすかに風に乗って漂っていた。
しわの深いその人は、低い石に腰かけて編み物をしていた。手元の毛糸をくるくると操りながらも、私の方をちらりとも見ずに話しかけてくる。
「アンタ、アトルの妻だねぇ」
「あ……はい、まあ、一応……そういうことに、なってます」
うっかり返答してしまってから、“一応”って何だと自分にツッコむ。
老婆は、編んでいた毛糸の手を止めずに、くすりと笑った。
「形式か、本物か──その顔だねぇ」
「はい……?」
思わず聞き返してしまう。目の奥を覗き込まれたような気がした。
「形だけの夫婦か、心からの夫婦か。皆までは言わないが、うちはそういう目を持った人が多いんだよ。火を守る者の目さね」
私は一瞬、言葉に詰まった。
(見透かされてる……?)
何か否定されるんじゃないかと思った。責められるんじゃないかと。でも、老婆は淡々とした口調のまま、手元の糸をくるくると巻きながら、ただ穏やかに言った。
「どちらであれ、祈る心がなければ、この村の神は祝福しない」
「祈る……?」
思わず反芻するように、問い返す。
「そうさ。相手を想い、何かを願うこと。その人の幸せか、自分の覚悟か……形だけでは火は灯らない。けれど、あんたたちの火は──」
彼女は、くしゃっと目を細めた。
「まだちっちゃいが、ちゃんと“燃えてる”よ」
その言葉が、意外すぎて、しばらく何も言えなかった。
胸の奥が、ゆっくりと温かくなっていく。嬉しい、と思った。けれど同時に、どこかむず痒いような、くすぐったいような。少しだけ、涙腺がきゅっとなった気がした。
「ありがとうございます」
そう返した私に、老婆は首を振った。
「礼なんていらないよ。あんた、自分の足で火を近づけたろ? それが何より立派だ」
その言葉に、また胸がぎゅっとした。
逃げようと思えば、きっと逃げられた。理解したふりをして、記録だけ取って帰ろうと思えば、それもできた。
けれど私は、残った。火に近づくというのは、たぶん、そういうことだ。
老婆は最後にひとこと、ぽつりと付け加えた。
「逃げずに、見つめな。あの子の瞳と、自分の心を」
そう言って、また糸に集中し始めた。針の動く音だけが、風のなかで小さく響く。
私はその場にしばらく立ち尽くしていた。目の前にある火は見えないけれど、胸の奥が、確かに温かくて──少しだけ痛かった。
(“火がある”……そんなふうに見えたのかな、私たち)
(じゃあ……消さないようにしなきゃ)
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