ある夏のホットココア
きょうじゅ
本文
故郷の町の商店街の一角で、喫茶店をやっている。昭和からある古い店で、僕は祖父から店を引き継ぎ、二代目のマスターとなった。最近、店は改装して雰囲気も新しくなり、それに伴って客層もだいぶ入れ替わった感がある。2025年のこの夏はひどい酷暑で、フローズン・ドリンクやかき氷がよく出る。いちおうはいまでも純喫茶の看板を掲げているが、店の実態としてはいまはだいぶモダンなカフェ寄りだ。
「ごちそうさまー」
「ありがとうございました」
アイスコーヒーを飲み終えた客が出て行って、きょうはそろそろ看板という時間。スーツを着た老紳士が、一人で店に入ってきた。見ない顔だ。初めてのお客さんだと思う。
「営業時間、まだ大丈夫ですかな」
「はい、構いませんよ。お好きなお席にどうぞ」
老紳士は奥の席に座る。だが、所在なげだ。
「メニューはないのかね?」
と言われる。
「そちらの、お席の脇にあるタブレットからご注文いただけます。……いちおう、冊子のメニュー表もございますが」
「では、お手数ですが、それを出していただけますか」
「かしこまりました」
いまはあんまり使っていないが用意自体はある、古いメニュー表を手渡す。
「……ああ、ココアは、今はもうやっていないのですかな」
「ココア、ですか」
メニューブックは古いものなので、過去のメニューに存在していたホットココアも記載されてはいるが、値段の欄にサインペンで横線を引いて、消してあったはずだった。祖父が店をやっていた頃には人気メニューだったこともあるらしいが、いまはほとんど出ないので、タブレット注文を導入したときに思い切って廃止したのである。
「はい、今はメニューにはありません。失礼ですが……以前にも、うちの店に?」
「ええ。五十年ほど前になります。当時付き合っていた女性……最近亡くなった妻と一緒に、一度だけこの店に来ましてね。しかし……御主人も、お代わりになられたのですね」
「私は先代の孫にあたります。祖父は二年ほど前に」
「それはそれは」
僕は考える。確かにメニューにココアは載せていないが、それは作れないということではない。ピュア・ココア・パウダーは他のメニューに使うことがあるから、置いてある。もちろん牛乳など、その他必要なものもある。
「あの。そういうご事情でしたら。お作りしましょうか。アイス・ココアになさいますか?」
「いや……それなら、ホットココアをお願いしますよ。五十年前に、妻と来たときに飲んだのが、ホットココアでしたから」
「なるほど。では、少々お待ちいただきますが、ご用意させていただきますね。ホットココアお一つで」
「はい。ありがとうございます」
いちおう調理師学校を出ているし、ココアの練り方くらいは知っている。少量の牛乳でパウダーを溶き、じっくりと練る。少しずつ、少しずつ牛乳を足していき、そして火にかける。しばし待つ。
「お待たせいたしました。こちら、ホットココアになります。お熱くなっておりますので、お気をつけください」
老紳士はゆっくりと流れていく時間を楽しむようにしながら、少しずつ、少しずつココアを啜った。何かを偲ぶように。何かを思い巡らすように。響き渡るのは蝉の声ばかり。
みーん、みんみん、みーん。みーん、みんみん、みーん。
やがて、器は空になり、老人は帽子をかぶって席を立った。
「よろしければ、またご来店ください。ココアのご用意はできますので」
「……いや。おそらく、次はないと思います。病が、重くてね。きょうは病院の外出日でした。それで今生の思い出に、ここへ。丁寧な仕事の、ホットココアをありがとう。忘れないよ」
「それは……こちらこそ、ありがとうございました」
老人は去って行った。僕は店を閉め、祖父のことを想う。そして明日の営業について思いを馳せる。きっと明日も、暑くなるだろう。
ある夏のホットココア きょうじゅ @Fake_Proffesor
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