3話
その朝、誠一は古民家の縁側で、冷めきったエスプレッソを啜りながら、iMacの画面に陶酔していた。
「120万再生……。やはり、僕の読み通りだ」
画面には、YouTubeの収益予測画面。昨日確定した広告収益は、誠一がかつて代理店で徹夜を繰り返して得ていた月収を、わずか数日で超えようとしていた。SNSの通知欄は、都会のフォロワーたちからの羨望と恐怖の入り混じったコメントで埋め尽くされている。
『主さん、勇気ありすぎ。あの村、絶対地図から消されるやつでしょ』
『地方創生の本当の姿を見ました。続報待ってます!』
誠一は、自身のSNSアカウントに、皮肉たっぷりの投稿を投げ込んだ。
『村の老人たちは、僕が何をしているかさえ理解していない。彼らにとって、情報は「隠すもの」だが、僕にとっては「資産」だ。アップデートを拒む標本たちに囲まれて、僕はかつてない自由を感じている。 #移住 #地方創生 #情報の勝利』
誠一は、背後で静かに髪を整えている奈緒に目を向けた。
「奈緒、見たか? この数字。もう補助金なんて端金だ。この村を舞台にした『リアル・ホラー・ドキュメンタリー』。これが僕たちの新しいビジネスモデルだ。不妊治療だって、都心の最高級のクリニックに転院できるぞ」
奈緒は、鏡に向かって髪を梳かしながら、ゆっくりと首を振った。
「誠一さん。……あなたは、まだ『自分』が何かを操っていると思っているのね。でも、よし子さんが言っていたわ。大きな水が流れるとき、小さな石ころがどれだけ騒いでも、行き先は決まっているのよって」
「バカバカしい。よし子なんて、SNSの使い方も知らない老婆じゃないか。彼女たちの言葉なんて、ただのノイズだ」
誠一は、奈緒の瞳の中に宿る、自分とは決定的に異なる「焦点」に気づかなかった。
彼女の視線は、誠一の語る「数字」や「金」を通り越し、村の境界にある暗い森――言代様が座すとされる奥ノ沢へと、吸い込まれるように向けられていた。
「さあ、次の撮影の準備だ。もっと刺激的な、もっと『毒』の強いやつを撮ってやる」
誠一は、高価なカメラバッグを掴み、村へ繰り出した。
彼が門を出る瞬間、背後で固まっていた多田たちが、示し合わせたように一斉に動き出した。その動きは、誠一が門を閉める音と完璧に同期していた。彼らの顔には、笑みも怒りもなく、ただ「予定された作業」をこなすための、空虚な平穏だけが張り付いていた。
「……なんだ、この臭いは」
翌朝、玄関の引き戸を開けた誠一は、鼻を突く饐(す)えた臭いに顔を顰めた。視界に入ったのは、門扉のすぐ脇に整然と並べられた、十数個のゴミ袋の山だった。村の指定ゴミ袋がパンパンに膨らみ、カラス除けのネットが申し訳程度に被せられている。
「な……なんでここにゴミが溜まってるんだ?」
誠一は混乱した。ここは、彼が移住した際に多田から「ゴミ出しはここだ」と教わった場所ではない。本来の集積所は、ここから50メートルほど離れた四つ角にあるはずだった。
誠一は怒鳴り込もうと表へ出たが、ちょうどそこに、ゴミ袋を両手に下げた山根が歩いてくるのが見えた。山根は誠一と目が合うと、一瞬だけ口角を歪め、挨拶もせずに誠一の足元へゴミを置いた。
「おい、山根さん! ここは集積所じゃないだろ。勝手なことをしないでくれ!」
山根は立ち止まり、感情の抜け落ちた目で誠一を見つめた。
「……佐伯さん。昨日、自治会の寄合で決まったんですよ。あんたの家の前は道が広くて、収集車が停まりやすいだろうって。多田さんも、あんたなら『村の効率化』のために協力してくれるはずだって、太鼓判を押してましたよ」
「効率化……?」
誠一が絶句していると、さらに別の老婆がやってきて、慣れた手つきで生ゴミの袋を積み上げていく。
法には触れていない。自治会の総意として、ゴミ集積所の場所を便宜上「移動」させただけなのだ。だが、夏場の湿った空気が、村中の腐敗臭を誠一のリビングへと容赦なく運び込む。誠一がどれほどスタイリッシュな北欧家具で部屋を飾ろうと、窓を開ければそこは「村の廃棄物置き場」だった。
嫌がらせは、それだけに留まらなかった。
深夜二時。静寂に包まれた村で、突如として「コン……コン……」という、乾いた、だが芯に響くような音が鳴り始めた。外へ飛び出すと音は止むが、布団に戻ればまた別の場所から響く。
さらに、生活インフラも死に始めた。蛇口を捻れば、出てくるのは錆び混じりの茶褐色の水だ。
「多田さん、水がおかしいんだ」
誠一が多田に詰め寄ると、多田は無表情に首を傾げた。
「ああ、それは困りましたな。でも、この村の水は『山の恵み』。信心が足りないと、山が水を濁らせるという言い伝えもありましてね。業者の修理? いやあ、今は農繁期で、誰も手が空いておらんでしょう」
暗に「お前に貸す手はない」と宣告されたのだ。誠一は自宅に戻り、茶色い水が出る蛇口を睨みつけた。
「(笑わせるな……。こんな原始的な村八分で、僕が屈すると思っているのか? 僕はデジタルの神だ。情報の暴力で、君たちの村を焼き払ってやる)」
誠一はMacBookを開いた。収益は出ているが、これからの反撃費用や、いつまで続くかわからないこの生活を考え、彼は無意識に財布の紐を締めた。
「(高性能なのは高いな……。まあ、証拠さえ映ればいい。中華製の安いので十分だ)」
結局、彼は1台数千円の、怪しい日本語の説明書がついた格安監視カメラを3台だけ注文した。
その時、背後で「ゴクり」と水を飲み干す音がした。
振り返ると、奈緒が茶碗を置いていた。蛇口からは泥水しか出ないはずなのに、彼女が飲んでいる水は、水晶のように澄み切っている。
「奈緒、その水どうしたんだ? ミネラルウォーターのストックはもうないだろ」
「これ? ……村の真ん中にある古い井戸から汲んできたの。よし子さんがね、あそこの水は『根源の味』がするから、移住したての人には一番いいって」
「井戸? 衛生的にどうなんだよ、煮沸したのか?」
「ううん、そのまま。……冷たくて、すごく甘いの。誠一さんも飲む?」
奈緒が差し出した茶碗の水には、不自然なほど青白い月光が反射していた。誠一はその水を拒絶し、再び画面に目を戻した。
奈緒の喉が、快楽を覚えたかのように再び「ゴクり」と鳴った。
誠一が安物のカメラで「外側」を監視しようとしている間、奈緒は村の「内側」を、一滴ずつ体内に取り込み始めていた
*
数日後、Amazonから届いた簡素な段ボールには、手のひらサイズの監視カメラが3台入っていた。誠一は、設定画面の怪しい日本語に苛立ちながらも、それを玄関、裏口、そしてリビングの窓際に設置した。
「(これで十分だ。あいつらが夜中に壁を叩く姿さえ撮れれば、警察も動かざるを得ない。SNSにアップすれば、この『排他的な村の狂気』は最高のスパイスになる)」
誠一は、安物のレンズ越しに映る歪んだ庭の風景を確認し、独りごちた。
同じ頃、奈緒は誠一に「散歩に行ってくる」と告げ、村役場の分室へと向かっていた。
彼女が目指したのは、一般の閲覧棚ではない。よし子から手渡された、錆びついた古い鍵が適合する地下の資料保管庫だ。
重い扉を開くと、湿った土と、古い紙が発酵したような濃密な匂いが立ち込めていた。奈緒は、よし子に教わった通り、一番奥の棚にある漆塗りの重い木箱を手に取った。そこには、役場の公的な記録には決して載らない、村の「戸籍の裏側」が記されていた。
「……これ、は」
奈緒がページをめくると、そこには血筋を示す家系図が、異常な密度で描き込まれていた。だが、その図には奇妙な空白や、不自然な枝分かれがいくつもあった。
特定の周期ごとに、一族の女たちが「産んだ」とされる記録。しかし、その子供たちには名前がなく、ただ『代(しろ)』という文字と、その子が吐き出したとされる『言葉』の断片だけが朱書きで添えられている。
『○年○月、東の山が崩れると告ぐ。三日後、案の定なり』
『○年○月、流行り病の終焉を告ぐ。その直後、代は息を引き取る』
それは、村が存続するために「誰か」が産み落とさなければならない、生きた予言者の記録だった。奈緒はその記録の中に、よし子の旧姓や、今この村で穏やかに笑っている老婆たちの名前を見つけた。彼女たちは皆、若き日に一度だけ「特別な何か」をその胎に宿し、村の未来を買い取ってきたのだ。
「(私が……ここに呼ばれたのは、誠一さんの仕事のためじゃない)」
奈緒は、自分の腹部にそっと手を当てた。都会の病院で「数値が足りない」「確率が低い」と言われ続けた自分の身体が、この地下室の冷気の中で、かつてないほど「熱」を帯びているのを感じた。
ここには「確率」など存在しない。ただ、定められた周期と、選ばれた器があるだけだ。
その時、背後の暗闇から、カサリと衣擦れの音がした。
「奥さん、見つかりましたか。あなたが探していた『理由』が」
よし子が、灯りも持たずにそこに立っていた。彼女の瞳は、暗闇の中でも獲物を見据える獣のように、鈍く光っている。
「……はい。私、ずっと、自分が何のために生まれたのか分からなかった。でも、ここにある言葉たちは、私を待っていた気がします」
よし子は満足げに頷き、奈緒の肩に冷たい手を置いた。
「そう。外から来た綺麗な言葉は、すぐ消えてしまう。でも、お腹の中から絞り出す言葉は、この大地を動かすのよ。さあ、もうすぐです。あの人が外に向けて『無駄な言葉』を吐き出し切る頃、あなたの準備は整うわ」
地上では、誠一が安物のカメラのモニターを凝視し、「犯人」が映るのを今か今かと待ち構えていた。
しかし、彼が必死に監視している「外側」の風景は、すでに奈緒が足を踏み入れた「内側」の深淵に比べれば、ただの空虚な幻影に過ぎなかった。
*
嫌がらせは、誠一の精神を限界まで削り取っていた。
庭先に置かれたゴミの山は日ごとに増し、夜通し鳴り響く「コン……コン……」という乾いた音は、今や彼の耳の奥にこびりついて離れない。
だが、誠一の瞳には狂気じみた光が宿っていた。
「(追い詰めたつもりだろうが、逆だ。これこそが最高のドキュメンタリーだ。視聴者は、僕が受けているこの『理不尽な村八分』に熱狂する。これらすべてを世界にライブ配信し、この村を社会的に抹殺してやる……)」
彼はMacBookの前に座り、最後の準備を進めていた。
彼は、かつての代理店時代に培った緻密なタイムチャートを書き起こした。
「明日の21時。視聴者が最も集まるゴールデンタイムにライブを開始する。タイトルは『【緊急生配信】狂気の村に監禁。僕が体験している嫌がらせの全てを晒します』。ハッシュタグは拡散性の高いものを指定して、メディア各社のアカウントにもメンションを飛ばす」
誠一は、自身の「X」のアカウントで、不気味なカウントダウンを開始した。
『明日、すべてが変わる。この村が隠し続けてきた醜悪な真実と、僕への迫害。その全貌をライブで公開する。情報の力で、暗闇を焼き払う時が来た。』
投稿直後から、リプライ欄はかつてないほどの勢いで加速した。
『ついにきた! 主さん、警察はあてにならないからネットの力で解決しよう』
『これ絶対ヤバいやつだ。明日の21時、正座待機します』
デジタルな熱狂が、誠一を全能感で包み込む。彼はこの情報の渦こそが、自分の唯一の盾であり、剣であると信じて疑わなかった。
その夜。
誠一が暗い書斎で配信機材の最終チェックをしていると、リビングから奈緒の声が聞こえてきた。
「誠一さん。……もう、いいのよ」
誠一が振り返ると、奈緒は井戸から汲んできた水を茶碗に注ぎ、月明かりの中でそれをゆっくりと揺らしていた。
「何が『いい』んだ。明日、僕はこの村の連中を地獄に叩き落としてやるんだ。そうすれば、こんな生活ともおさらばだ」
「……言葉を放てば放つほど、あなたは『空っぽ』になっていくわ。でも、私は満たされていくの。よし子さんが言ってた。器が空になればなるほど、新しい『言葉』が降りてくるための隙間ができるのよって」
奈緒の顔は、かつて都会で見ていた彼女のものとは、もはや別人のようだった。頬はこけ、瞳は異様に大きく、その視線は誠一ではなく、彼の背後の「虚無」を見つめている。
誠一は、彼女の言葉を無視して、安物のマウスをクリックした。
「(明日だ。明日、この配信ボタンを押せば、僕の勝ちだ)」
誠一の背後で、奈緒が再び水を飲む「ゴクり」という音が響いた。
その音は、誠一の家の外壁を叩き続ける「コン……」という乾いた音と、一瞬だけ完璧に重なった。
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