2話

​ 鹿ノ子村に移住して一ヶ月。誠一の「完璧なライフスタイル」を維持するための、薄氷のような平穏が音を立てて崩れ始めていた。

​ 「……嘘だろ。また減ってる」

 誠一は、iMacのRetinaディスプレイに映し出されたSNSのインプレッション画面を、穴が空くほど見つめていた。フォロワー増減グラフの折れ線が、冷酷なまでに右下へと急降下している。移住初日の「大手代理店マン、文明を捨てる」という鮮烈なデビューで得たご祝儀的な数字は、もはや見る影もない。

 画面をスクロールすれば、都会の喧騒の中に残したはずの、かつてのライバルたちの投稿が飛び込んでくる。高級外車でのゴルフ、虎ノ門の最新ビルのレセプション、そして「大型案件、受注しました」という、誠一が最も渇望し、そして手放したはずの「勝者の記号」。

 それに対し、自分の最新の投稿はどうか。

 『薪を割ることで、自分の中のノイズを削ぎ落とす。 #丁寧な暮らし #薪割り #マインドフルネス』

 ついた「いいね」は、全盛期の十分の一以下だ。コメント欄には、かつての部下と思わしき捨てアカウントから『いつまでこれ続けるんですか? ぶっちゃけ飽きました』という、毒のように痛烈なメッセージが刻まれていた。

​ 「(分かっていない。こいつらは、本質が見えていないんだ)」

 誠一はマウスを叩きつけるようにクリックした。だが、彼自身が一番分かっていた。自分自身が「この静かな暮らし」に飽き果てていることに。

 毎朝の鳥のさえずりは、今や誠一にとって耳障りなアラームでしかなく、澄んだ空気は情報の欠落した真空のように感じられる。都会の雑踏という「情報の奔流」の中に身を置いていた彼にとって、一秒ごとに意味が生成されないこの村の時間は、緩やかな窒息に等しかった。

​ 経済的な不安も、誠一の合理性を蝕んでいた。

 国と県から出る補助金、月額20万円。地方で慎ましく暮らすには十分な額だと、移住前は計算していた。しかし、誠一は「成功した移住者」という衣装を脱ぐことができなかった。

 何より誠一を焦らせたのは、自身のブランド価値が低下していくことへの恐怖だった。

 「(金が要る。ただの補助金生活者として埋もれるわけにはいかない。僕は、この村を『ハック』して、莫大な利益を生むビジネスモデルを構築するために来たはずだ)」

​ 誠一は立ち上がり、書斎の窓を開けた。

 湿った夜の風が流れ込み、iMacの熱を冷ます。窓の外には、一ヶ月前には「神秘的」だと感動した暗闇が広がっている。しかし今の誠一には、それは一円の価値も生み出さない「無駄な余白」にしか見えなかった。

 村の男たち――多田や山根といった老人たちは、確かに誠一を「有能な若者」として受け入れ、頼りにしてくれている。水路の管理の効率化を説けば、彼らは感心した顔で頷き、自家製の濁酒を振る舞ってくれる。

 だが、それが何になる。

 彼らに感心されたところで、銀行の残高が増えるわけでも、フォロワーが万単位で増えるわけでもない。彼らとの時間は、誠一にとっては「補助金をもらうための我慢の時間」に過ぎず、その沈黙は誠一の「もっと認められたい」という乾いた喉を、一滴も潤してはくれなかった。

​ 「……ねえ、誠一さん。まだ仕事?」

 寝室から、奈緒が幽霊のような足取りで現れた。

 彼女はこの一ヶ月で、驚くほど痩せていた。だが、その瞳には都会にいた頃の病的な焦燥はなく、代わりに底の知れない湖のような、静かな虚無が宿っている。

 「仕事だよ。僕たちがここで生き残るための、戦略を練ってるんだ」

 「……もう、いいじゃない。よし子さんたちが言ってたわ。無理に抗うから、苦しくなるのよって。この村には、この村の『流れ』があるんだから」

 「奈緒、君まで何を言ってるんだ。その『流れ』とやらに身を任せて、僕たちは野垂れ死ぬのか? 僕はね、この村を、世界が注目するコンテンツにアップデートするんだ。それが僕の……僕たちの生きる道だ」

​ 誠一は奈緒の言葉を遮り、再びモニターに向き合った。

 彼の指は、無意識に検索エンジンのバーに「鹿ノ子村 秘密」「鹿ノ子村 怪異」といったワードを打ち込み始めていた。

 かつての代理店時代、誠一が最も得意としたのは「隠れたニーズの掘り起こし」だった。

 綺麗事の裏に隠された、人間のドロドロとした欲望や、古臭い因習。それこそが、現代の飽食したユーザーが最も好む「毒」であることを、誠一の鼻は嗅ぎ取っていた。

 「(この村には、何かがある。多田たちが隠したがっている、もっと剥き出しの何かが。それを引きずり出して、デジタルでパッケージ化してやる)」

 誠一の瞳に、MacBookのリンゴマークが青白く映り込む。

 誠一がモニターの中で「デジタルの数字」という幽霊を追いかけている間、妻の奈緒は、それとは対極にある「泥の感触」の中に沈み込んでいた。

​ 日中の古民家は、驚くほど静かだ。誠一は「村のリサーチ」と称して書斎に籠もりきりか、あるいは不自然に最新のGoProを振り回して村の外縁をうろついている。そんな夫の背中を見送るたび、奈緒の心には、都会のコンクリートジャングルでは決して感じることのなかった、奇妙な「空隙」が広がっていった。

 その隙間を埋めるように現れるのが、世話役の多田の妻・よし子を中心とした、村の女衆だった。

​ 「奥さん、今日もいいお茶が入ったわよ。これ、奥ノ沢の根っこを干したやつ。体に、こう、じわーっと沁みるから」

 よし子は、縁側に座る奈緒の隣に、音もなく腰を下ろした。彼女の手はいつも冷たく、それでいてどこか安心させるような湿り気を帯びている。

 奈緒は、差し出された湯呑みを受け取った。立ち上る湯気は、土の匂いと、少しだけ腐敗した果実のような、甘酸っぱくも不気味な香りがした。それを一口飲むと、胃の腑の底が重く、鈍く、沈んでいくような感覚に襲われる。

​ 「……よし子さん。私、最近、自分の体が自分のものではないような気がするんです」

 奈緒は、誰にも言えなかった告白を漏らした。都会の不妊治療専門クリニック。清潔だが冷淡なステンレスの椅子。排卵日を計算する誠一の無機質な指。あれほど「自分の体をコントロールしよう」と必死だった日々が、今では遠い前世の出来事のように思えた。

 「それでいいのよ、奥さん。都会の人たちは、自分ですべてを決められると勘違いしているけれど、それは大きな間違い。風が吹くのも、雨が降るのも、お腹に命が宿るのも、すべては『言代様』が決めること。私たちはただ、その流れを堰き止めないように、体を緩めて待っていればいいの」

 「……待っていれば、いいんですか?」

 「そう。抗うのをやめなさい。誠一さんみたいに、あれこれ知恵を回して、この村を変えようなんて思っちゃいけない。あの人は、まだ『自分の言葉』を信じすぎている」

​ 奈緒は、よし子の言葉の端々に混じる不穏な響きに気づかないほど、精神的な麻酔にかかっていた。

 「決定論」という名の救済。

 自分が努力しなくてもいい。自分が責任を取らなくてもいい。すべては「運命」という名の不可抗力によって、最初から決まっている。その思想は、不妊という「結果の出ない努力」に疲れ果てた奈緒にとって、どんな高価な薬よりも深く、速やかに効いた。

​ その頃、書斎の誠一は、奈緒の変節を「順調な適応」とポジティブに誤認していた。

 「(いいぞ、奈緒が村のババアたちに取り込まれている。それはつまり、僕が村の深部にある『秘匿情報』にアクセスするためのパイプが太くなっているということだ)」

 誠一は、キーボードを叩きながらほくそ笑んだ。

 彼はすでに、村の図書館で盗み撮りした「言代様」の資料をベースに、最初のオカルト系ショート動画を制作し終えていた。

 タイトルは『【実録】予言で人を支配する村。禁忌の神「コトシロ」の正体とは?』。

 BGMには、低音を強調した不気味なドローン・アンビエント。

​ 「(これだ。これこそが、僕の『有能さ』の証明だ。多田たちは、僕が自分たちの生活を豊かにするために知恵を絞っていると思っている。だが、僕が本当に売っているのは、彼らの『気味の悪さ』そのものなんだよ)」

 誠一は、マウスをクリックするたびに、優越感に浸った。

 都会では、彼は「情報を整理する側」にいた。しかしこの村では、彼は「情報を捏造し、神話を作る側」に回ったような気がしていた。

 彼にとって、SNSの画面の向こうにいる数万人のフォロワーこそが真実の「神」であり、下で茶を啜っているよし子や、庭で土を弄っている多田は、その神に捧げるための「生贄(コンテンツ)」に過ぎなかった。

​​ 誠一が心血を注いで編集した動画は、ある種の「禍々しさ」を放っていた。

​ 動画の冒頭、画面は砂嵐のようなノイズから始まり、不穏な低周波の重低音が視聴者の不安を煽る。誠一のナレーションは、かつての代理店時代のような明快さをあえて捨て、囁くような、含みのあるトーンで構成されていた。

 『……皆さんは「件(くだん)」という怪物をご存知だろうか。幕末から昭和初期にかけて日本各地で目撃された、牛の体に人間の頭を持つ異形だ。件は生まれて数日で死ぬが、その間に一度だけ、逃れられない予言を吐くという。その予言は、戦争の終結であれ大震災であれ、必ず的中したと言われている。だが、その伝承には続きがある。件を「神」として飼い慣らし、人為的に予言を生成し続けることで、永遠の安寧を手に入れた集落が実在するとしたら……?』

​ 画面が切り替わり、図書室で盗み撮りした古写真がフラッシュバックのように差し込まれる。二つの顔を持つ、歪な肉の塊のような「言代様」。それを取り囲み、恍惚とした表情で祈りを捧げるモノクロの村人たち。誠一は、村の風景をわざと彩度を落として加工し、何気ない道端の地蔵や水路の蓋さえも、何かを封じ込めるための呪具であるかのように意味付けした。

​ 夜、誠一が寝室へ向かうと、奈緒は布団の中で、全裸になっていた。

 「……奈緒? どうしたんだ」

 「よし子さんが言ったの。今日は『月の巡り』がいいから、余計な布を脱いで、土の気を吸い込みなさいって」

 奈緒の肌は、月の光を浴びて青白く発光しているように見えた。その瞳は、誠一という「夫」を見ているのではなく、その背後にある、村の巨大な「虚無」を見つめているようだった。

 誠一は、一瞬だけ背筋に冷たいものが走るのを感じたが、すぐにそれを「村の生活による性欲の昂り」と脳内で処理した。

 「(いいさ、奈緒がその気なら好都合だ。不妊治療のストレスから解放されて、これで本当に子供ができれば、それもまた『移住成功のストーリー』として発信できる)」

​ 誠一は奈緒を抱き寄せた。だが、その肌の温度は驚くほど低かった。

 奈緒の耳元で誠一が囁いた「愛している」という言葉は、部屋の中に漂う「言代の茶」の匂いに飲み込まれ、霧散した。

 奈緒は目を閉じたまま、心の中で、よし子に教わった呪文のような歌を繰り返していた。

 それは、夫への愛の言葉ではなく、自分をこの檻の中に繋ぎ止めるための、冷たいくびきのような音色だった。



​ その夜、誠一は自室の遮光カーテンを固く閉め、ディスプレイの青白い光の中に没頭していた。iMacのモニターに表示されているのは、昨日アップロードしたばかりの最新動画のアナリティクス画面だ。

​ 「……キタ。これだよ、これこそが僕の真価だ」

​ 誠一の指が震えていた。再生数は、投稿からわずか24時間で10万回を突破。これまで「丁寧な暮らし」を発信していた頃は、一週間かかっても数千回が関の山だった。しかし、図書室から盗み撮りした古写真に不気味なエフェクトを被せてサムネイルにした途端、アルゴリズムが誠一を選別した。

​ 誠一は、マウスホイールを狂ったように回し、コメント欄をスクロールした。

​ 『主さん、これガチのやつじゃん。写真の子供、明らかに人間じゃないだろ』

 『件の伝承が残る村って実在したんだ。特定班、早く場所特定して!』

 『村人が笑ってるのが一番怖い。これ絶対何かやってるだろ』

 『移住ライフとか言って裏でこんなヤバい動画撮ってる主、メンタル強すぎw』

​ 溢れ出す承認の奔流。都会で培った「情報の切り取り方」が、この古臭い村の闇と見事に化学反応を起こしていた。誠一にとって、コメントの一つ一つは、自分の枯れかけた自尊心を潤す「恵みの雨」だった。 

 誠一は、SNSを開いた。そこでも自分の動画のリンクが拡散され、トレンドの端っこに『#言代様』の文字が躍っている。

 「(みんな、飢えてるんだ。綺麗な自然やスローライフなんて嘘っぱちだ。結局、人間は、自分たちが理解できない『異常な隣人』を安全な場所から嘲笑い、恐怖したいだけなんだ)」

 誠一は、かつて自分が部下たちに説いていたマーケティング理論を反芻した。

 情報の価値は、その希少性と『毒』の強さで決まる。

 これまでの自分は、毒にも薬にもならない「良い移住者」を演じすぎていた。だが、この村には本物の「毒」がある。多田やよし子たちの、あの得体の知れない親切、あの空虚な瞳。それを「異常性」として文脈化するだけで、それは一級のエンターテインメントへと昇華される。

​ 「(多田さん、感謝してくれよ。あんたたちの地味な信仰が、僕の手によって、世界中に拡散されている。これこそが最強の村おこしじゃないか)」

​ 誠一は画面に向かって独りごちた。

 世間の反応は、誠一に「正義」の錯覚を与えていた。視聴者が「もっと見たい」「もっと証拠を」と求めるたび、誠一は自分が隠された真実を暴くジャーナリストであるかのような高揚感に包まれる。

 だが、その熱狂の中に、いくつか不穏なリプライが混じり始めていた。

 『主さん、特定した。そこ奥ノ沢でしょ。地元民だけど、そこ絶対触っちゃダメな場所だよ』

 『撮影してる主の背後、窓に映ってるの何?』

​ 誠一は、その手のコメントを「演出に貢献するノイズ」としてあざ笑い、次々と非表示にしていった。

 「(呪い? 迷信を信じてる連中のたわ言だ。デジタル化された情報に、そんなアナログな力が宿るはずがない。情報はただの記号、0と1の羅列だ)」

​ 誠一は、次に打つべき一手を考えた。

 図書室の写真だけでは、熱はすぐに冷める。フォロワーが求めているのは「現在の、生々しい証拠」だ。多田たちが「決して入るな」と警告していた聖域。あそこには、まだ撮影されていない何かが隠されているはずだ。

 誠一は、最新型のドローンのプロポ(コントローラー)を引き出しから取り出した。

 「(明日は、これを使う。空から撮れば、足跡一つ残さずに彼らの『秘部』を暴き出せる。そしてその動画をアップすれば、再生数は100万を超えるだろう。そうなれば、僕はもうこの村の補助金なんて頼らなくて済む)」

​ 誠一は、画面の向こう側にいる数万人の匿名者たちの熱狂を、自らの「命綱」のように感じていた。

​ 翌朝。誠一は重い機材バッグを背負い、家を抜け出した。目的地は、村人たちが「決して足を踏み入れるな」と、呪文のように繰り返していた禁足地、奥ノ沢の最深部だ。

 「(物理的に入れないなら、空から暴けばいい。ドローンを使えば、奴らの隠し事なんて一網打尽だ)」

 誠一は、胸元に隠した最新型のプロポ(コントローラー)の感触を確認しながら、鬱蒼とした森の入り口へと歩を進めた。

​ だが、森の入り口へと続く未舗装の農道に差し掛かった時。

 「佐伯さん。……こんな朝早くから、どちらへ?」

​ 背後からかけられた声に、誠一は心臓が口から飛び出すほど驚いた。振り返ると、そこには草刈り鎌を手にした多田と、数人の男たちが立っていた。逆光のせいで彼らの表情は読み取れない。ただ、手にした鎌の鋭利な刃先だけが、朝露に濡れて鈍く光っている。

​ 「あ、ああ、多田さん……。いや、ちょっとね。新しいドローンのテスト飛行ですよ。この辺りは景色がいいから、空撮の素材を撮っておこうと思いまして」

 誠一は、引き攣った笑顔を作り、機材バッグを隠すように肩をすくめた。

​ 「空から、ですか」

 多田が一歩、前へ出る。その歩みは無機質で、感情の揺らぎが一切ない。

 「佐伯さん、あなたは『賢い人』だ。その賢さを、村のために正しく使ってくださると信じていますよ」

​ 多田の瞳は、誠一の顔ではなく、彼が背負っているバッグの中身を透かし見ているようだった。誠一は、その視線に、昨日自分が動画に施した「恐怖の演出」など比較にならないほどの、本能的な悪寒を覚えた。

 「……ええ、もちろんですよ。村のため、ですよ。ははは」

 誠一は逃げるようにその場を去った。

​ 背後に残った多田たちは、誠一が去った方向を、一言も発さずにじっと見つめていた。

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