ハラヤドリ

九式

1話

​ ボルボV60の静粛な車内に、低い低音が響いていた。

 佐伯誠一は、ステアリングを握る自分の左手を、意識的にフレームの端に寄せる。車窓から流れる鹿ノ子村の、重苦しいほどに深い緑。そのコントラストを、iPhone 15 Proの広角レンズが正確に捉えていた。

 「見て、奈緒。この霧、まさに『天然のヴェール』だ。都会の喧騒が嘘みたいだろ」

 誠一は、停車した瞬間に慣れた手つきで撮影したばかりの動画を編集アプリに放り込んだ。

 『移住初日。文明のノイズを捨て、本質(リアル)と向き合う。 #移住 #地方創生 #成功者の選択』

 投稿ボタンを押す。即座に「いいね」が数件つく。その青白い光が、誠一の顔に満足げな影を落とした。

 「……ええ。本当に、静かなところね」

 助手席の奈緒は、膝の上で不妊治療の通院記録が挟まったスケジュール帳を強く握りしめていた。彼女の瞳は、誠一の画面ではなく、道路脇に並ぶ頭のない地蔵のような、古い石積みを見つめている。

 「奈緒、もうあの無機質な病院に通う必要はないんだ。この村の綺麗な空気が、君のホルモンバランスを最適化してくれる。不妊なんてのは、結局のところ都市生活のストレスが生んだ『バグ』に過ぎないんだよ」

 誠一は、広告代理店時代に培った、もっともらしい理論を並べた。彼は自分を、迷える妻を導く理知的で慈悲深い夫だと信じて疑わなかった。

​ 車を停めたのは、村の最奥に近い、茅葺き屋根が残る巨大な古民家だった。

 「ようこそ、佐伯さん。遠いところ、よくおいでなすった」

 軽トラの影から現れた多田健三は、土に汚れた作業服をまとい、深い皺を波打たせて笑った。

 「初めまして、多田さん! 最高の家をありがとうございます。僕の知見が、この村の活性化に少しでも寄与できれば光栄です」

 誠一は、YouTubeで予習した「好印象を与える話し方」を実践した。腰を十五度曲げ、爽やかな笑顔。だが心の中では、多田の使い古された長靴や、鼻をつく堆肥の匂いを『情報密度の低い、前時代的な遺物』として切り捨てていた。

 「いやあ、有能な若い方が来てくれるのは、村の皆も喜んでおる。……奥さんも、色白で綺麗な方だ。この村の水は体に良い。すぐに馴染めますよ」

 多田の視線が、一瞬だけ奈緒の腹部をなぞった。奈緒はその無機質な視線に、都会の医師とは違う、もっと泥臭く、執拗な「期待」を感じて身をすくめた。

​ 家の中は、誠一にとっては最高の「素材」の宝庫だった。

 太い梁、煤けた囲炉裏、磨き抜かれた縁側。

 誠一は荷解きもそこそこに、三脚を立て、ライカを構えた。

 「(……完璧だ。このアングルで撮れば、都会のフォロワーどもに圧倒的なマウントが取れる。補助金をもらいながら、こんな贅沢な空間を独占している僕を、彼らは羨望の眼差しで見ることになる)」

 多田は、誠一がPCをカチャカチャと操作する様子を、一言も発さずに眺めていた。

 「佐伯さん。この家はね、村の『境界』に建っているんです」

 「境界、ですか。地理的なアドバンテージですね。開発の起点にするには最適だ」

 「……ええ。だから、あまり大きな声や、その……派手な光は、ほどほどに。山の向こうが、落ち着かなくなりますから」

 多田は静かに、奥ノ沢の方角を指差した。そこには、昼間だというのに光を吸い込むような、不自然なほど暗い森が広がっていた。

 「ははは、環境配慮ですね。分かっていますよ。僕もサステナブルな開発を信条としていますから」

 誠一は適当に返事をし、多田を送り出した。

​ その夜。

 誠一は、MacBookのバックライトで照らされた書斎で、初日の投稿の「数字」を確認していた。

 「(……悪くない。移住初日でこのエンゲージメントなら、半年後にはオンラインサロンを開ける。村人を適当に役者に仕立てて、地方再生の成功例としてパッケージ化してやる)」

 誠一は、プライベートの裏アカウントでこう呟いた。

 『村のジジイが謎の警告をしてきた(笑)。迷信を盾に現状維持を望むのは、衰退する地方の典型的なメンタリティだ。僕がこの村を「アップデート」してやる必要がある。 #移住 #地方創生 #情弱狩り』

​ 「……ねえ、誠一さん。今の音、聞こえた?」

 隣の寝室から、奈緒の震える声がした。

 「音? 風の音だろ。断熱性能の低い古民家特有の……」

 「違う。誰かが、縁側のすぐ外で……。じっと、こっちを見てるような気がするの。何かを、待っているような」

 誠一は溜息をつき、眼鏡を拭いた。

 「奈緒。都会のノイズが抜けるまでは、静寂が逆にストレスに聞こえるんだ。それは『無』を『音』として解釈してしまう脳のバグだよ。明日は村の散策に行こう。多田さんたちが歓迎会を開いてくれるそうだ」

 誠一はそう言って画面に戻った。

​ 翌朝、誠一は眩いばかりの朝光の中で目を覚ました。

 「最高だ。この光、この空気。120点の朝だよ」

 彼は隣でまだ眠る奈緒を起こすこともなく、まずiPhoneを手に取り、枕元のサイドテーブルに置かれた高価なエビアンのボトルと、窓から見える田園風景を一枚の絵に収めた。

 『村の朝は、都会の午後よりも鮮烈だ。 #MorningRoutine #自然共生 #QOL』

 

 午前九時。誠一は用意していた「作業着風のデザイナーズウェア」に身を包み、村の集会所へと向かった。今日は村の共同作業である、水路の泥上げの日だ。

 「おはようございます! 佐伯です。今日からビシバシ扱ってください!」

 誠一は、体育会系の爽やかさを完璧にトレースして挨拶した。集まっていた十数人の男たちは、皆、誠一の靴の白さに一瞬だけ目を向けたが、すぐに顔を綻ばせた。

 「いやあ、佐伯さん。本当に感心だ。都会の若い人は、こういうのを嫌がると思ってたよ」

 多田が、周囲の男たちに誠一を紹介する。山根、石井、松本。似たような顔、似たような日焼け。誠一は彼らの名前を「リソースA、B、C」と脳内でラベル付けしながら、泥まみれのスコップを手に取った。

​ 作業中、誠一は意識的に「質問する側」に回った。

 「この水路の構造、実に合理的ですね。ただ、ここをセンサー管理にすれば、見回りの手間は1/3にカットできますよ。僕がいた業界では、スマート農業の導入で……」

 誠一の口から溢れる横文字やカタカナを、男たちは一言も漏らさず聞き入っていた。

 「すごいもんだ。さすが都会で大きな仕事をされていた人は違う」

 「いやいや、多田さん。僕なんてまだまだですよ」

 誠一は謙遜しながらも、確信していた。

 『(ちょろいな。こいつら、自分の生活がどれほど非効率かさえ気づいていない。僕が知見を小出しにするだけで、あっという間にこの村の「軍師」になれる)』

 

 一方その頃、奈緒は自宅の縁側で、多田の妻・よし子や数人の老婆たちと向き合っていた。

 誠一が「村の改善」を説いている間、ここでは全く別の、粘り気のある会話が交わされていた。

 「……奥さん、お辛かったでしょう。あんなに細い体で、痛い注射やら、高い薬やら」

 よし子が、枯れ枝のような手で奈緒の膝をそっと撫でた。奈緒の心拍が跳ね上がる。誰にも、誠一にさえ、本当の意味では理解してもらえなかった「不妊の焦燥」を、この初対面の老婆が言い当てたからだ。

 「どうして、それを……」

 「分かりますよ。この村に来る人は、皆、何かが欠けている。でもね、安心しなさい。ここは『満ちる場所』ですから」

 よし子の背後で、別の老婆が静かに頷く。

 「ここではね、自分で頑張る必要はないの。自分の意志でどうにかしようとするから、体が強張る。ただ、ここを流れる運命に身を任せればいい。授かる時は授かる。死ぬ時は死ぬ。そう決まっていると認めてしまえば、こんなに楽なことはないわ」

 奈緒は、その「絶望的なまでの受動性」に、戦慄すると同時に、甘美な誘惑を感じていた。都会の病院で突きつけられた「努力不足」や「確率」という冷酷な数字。それに比べて、この老婆たちが語る「決定論」は、なんと慈悲深い呪いだろう。

​ 「……決まっている、のなら。私が何をしても、しなくても、同じなの?」

 「そう。ただ、村に溶け込み、私たちと同じものを食べ、同じように祈る。それだけで、あなたの腹の中にある『うろ』は、正しいもので満たされるわ」

 

 夕方。

 誠一は、腰の痛みを「勲章」のように感じながら帰宅した。

 「奈緒! 聞いてくれ。村の連中、僕のアドバイスをメモまで取って聞いてたよ。完全に懐に入ったね」

 誠一は、多田からもらったという、土のついた大根を台所に置いた。

 「……そう。よかったわね、誠一さん」

 奈緒の返事は、心ここにあらずといった様子だった。

 「なんだよ、具合悪いのか? やっぱりこの家、少し冷えるな。明日はAmazonで高性能なヒーターを注文しよう」

 誠一はすぐにMacBookを開き、今日の作業風景を収めた動画の編集を始めた。

 画面の中の彼は、泥にまみれ、村の男たちと肩を並べて笑っている。

 「(完璧だ。これが『信頼を構築するフェーズ』の完成形だ。次は、この信頼をどうキャッシュ(現金)に変えていくか、だな)」

 誠一がキーボードを叩く背後。

 奈緒は、台所に置かれたあの大根を見つめていた。

 土にまみれたその白さが、なぜか自分を監視する巨大な「指」のように見えて、彼女は音もなく、その場に蹲った。


​ その日の夜、村の集会所で誠一と奈緒の歓迎会が開かれた。

 誠一は、自身が「都会から来た救世主」であることを隠し、徹底して「学びに来た謙虚な後輩」を演じきると決めていた。

 「さあさあ、佐伯さん、奥さん。村の不細工な料理ですが、食べてください」

 多田の号令とともに、古びた長机に料理が並べられた。

​ 並んだのは、都会のオーガニックレストランでは決してお目にかかれない、野生味の強い皿の数々だった。

 まず目を引いたのは、奥ノ沢で獲れたという山女魚(ヤマメ)の塩焼きだ。炭火でじっくりと焼かれた皮は爆ぜ、白身からは脂が滴っている。それを一口運ぶと、川の苔の匂いと、驚くほど強烈な塩の味が誠一の口腔を支配した。

 「……うまい! こんなに力強い味、東京じゃ絶対に食べられませんよ!」

 誠一は大袈裟に感嘆してみせたが、喉を通る際、その身の「硬さ」に、野生の命をそのまま飲み込むような拒否感を一瞬だけ抱いた。

 

 さらに供されたのは、猪肉の味噌煮だ。煮込まれた根菜はどれも角が丸くなり、肉の野性的な脂を吸って赤黒く光っている。誠一はその肉を噛み締めながら、村人たちの話をひたすら聴く側に回った。

 「ほう、去年の冬はそんなに雪が……。大変でしたね。僕たちには想像もつかない苦労だ」

 「山根さんの仰る通りです。土を作るのに十年。頭が下がります」

 誠一は、相手の言葉の語尾を繰り返す「バックトラッキング」を駆使し、村の長老たちの承認欲求を丁寧に満たしていった。時折、奈緒の皿に「これ、体に良さそうだよ」と、まるで家畜を労わるような手つきで料理を取り分けてやることも忘れなかった。

​ 奈緒は、よし子たち女衆が作ったという「山菜の和え物」を口に運んでいた。

 それは、都心のスーパーでは見たこともない、紫色の不気味なシダのような植物だった。口に入れると、鼻に抜けるような強い苦味と、舌にまとわりつく粘り気がある。

 「奥さん、それは『言代の芽』って言ってね。お腹の中を掃除してくれるのよ。たくさん食べなさい」

 よし子が隣で、奈緒の耳元に囁くように言った。

 奈緒は、その苦味の中に、えも言われぬ懐かしさを感じていた。誠一が語る「効率」や「分析」とは対極にある、ただ沈殿し、熟成され、腐敗して土に還るような味。

 「……はい。美味しいです」

 奈緒がそう答えるたび、周囲の老婆たちが「ほう」と満足げな溜息を吐いた。その溜息が重なり合い、集会所の空気が、徐々に粘土のような重さで誠一と奈緒を包み込んでいく。

​ 誠一は、村人たちの笑顔の中に、ある共通した「欠落」を感じ取っていた。

 彼らは笑っているが、その目は誠一の「人格」を見ていない。ただ、自分たちの村という巨大な生き物に、新しい「栄養」が加わったことを喜んでいるだけのような、非生物的な歓喜。

 『(いいぞ、完璧だ。連中は僕を「御しやすい若造」だと思い込んでいる。この信頼さえ勝ち取れば、あとのコントロールは自由自在だ)』

 誠一は、ポケットの中でiPhoneを握りしめた。

 この歓迎会の録音データ。そして、村人たちの顔写真。

 これらはすべて、後で自分のブランドを強固にするための「素材」になる。

 「佐伯さん。この村はね、入るまでは大変ですが、入ってしまえばこれほど楽な場所はない」

 多田が、自家製の濁酒(どぶろく)を誠一の湯呑みに注いだ。

 真っ白な、濁った液体。

 誠一はそれを一気に飲み干した。

 その瞬間、胃の底から沸き上がるような熱気と、脳を麻痺させるような甘みが全身を駆け抜けた。

 「……ありがとうございます、多田さん。僕、この村に来て、本当に良かった」

 誠一の本心からの言葉に、村人たちが一斉に、鏡合わせのような同じ角度で微笑んだ。

​ その夜、誠一は泥のように眠った。

 彼が眠る横で、奈緒は月明かりに照らされた自分の腹部を、無意識に、だが執拗に撫で続けていた。

 彼女の舌には、あの「言代の芽」の苦味が、いつまでも消えずに残っていた。

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