第6話 出張

 星川食品本社ビル三十五階。

 このフロアにいるのは、社長や専務といった偉い人たちと、その秘書課だけ。一般社員はめったに足を踏み入れない、ちょっとした聖域だ。


 午前と午後に二回ずつ。悠馬は役員専用の男子トイレを磨き上げる。

 ちなみに本当のところ、掃除ついでに自分もこっそり用を足していたりする。……いや、掃除中だからセーフ、セーフ。


「村瀬さん、トイレ掃除押し付けちゃってごめんね」


 出てきたところで、社長秘書の松林さんと鉢合わせた。

 いつも完璧にスーツを着こなし、笑顔も爽やか。秘書課の先輩女子の中でも、ちょっと憧れの存在だ。


「いえ、新人の仕事ですから」

 にこっと笑って謙遜モード。


 本音は「ついでに自分も使ってます」とは口が裂けても言えない。


「ありがとうね」

 軽く手を振って去っていく松林さんを見送り、ふうと息をついた。


 さて、次は女子トイレ。

 入口に「清掃中」の衝立を立てる。鏡に自分の姿が映った瞬間──ブレザーにタイトスカートの自分が、いよいよ女子秘書らしく板についてきた気がした。


 トイレ掃除を終えて専務室に戻ると、専務は書類の束を手に取り、目を走らせていた。

 机に肘をつきながら、ふっと息を吐く。


「はぁ~……専務って、決裁のハンコ押す仕事ばっかりで退屈なのよね。部長だった頃、いろんなプロジェクト立ち上げてたときが一番楽しかったわ」

「はい、コーヒーどうぞ」


 すかさず差し出すと、専務は微笑み、すっとカップを受け取る。


「ありがと、優ちゃん。――それで、明日の出張の件なんだけど」


 明日は仙台。新店舗候補地の視察で、一泊の出張が予定されている。


「はい。ご希望の仙台リッチホテルに予約を入れてあります」

「部屋は?」

「はい。……ツインで取っております」


 ……そう、あの瞬間。

 最初は常識的にシングル二部屋を手配しておいたんだ。なのに、専務から返ってきた答えは――


「経費節約よ。ツインの一部屋にすればその分安くできるでしょ」


 ――いや、経費って! 星川食品ほどの大企業が、そこケチる!?


 その夜、課長に相談してみたけれど。

 返ってきたのは深い溜め息と、ひとこと。


「……こんなことになるなら、手術しておけばよかった」


 ……いや、そこまで求められてないですから!?


 結局アドバイスらしいアドバイスは、

 「専務はお酒好きだけど強くないから、飲ませれば早く寝るわよ」

 というものだけだった。


 つまり男とバレずに済ませるサバイバルプランは――専務をどうにかして酔い潰す一択。



◇ ◇ ◇


 そして迎えた、運命の出張当日。 東京駅を出発した新幹線は、ほどなく東北へと滑り出す。

 隣の座席で専務は移動中でも時間を惜しんで仕事に取り掛かりノートパソコンを開き、画面に映る資料に目を走らせていた。


「ふぅん、この立地だと……周辺の人の流れはこうかしら」


 右手でタッチパッドを操作しながら、表情は真剣そのもの。

 けれど――問題は、空いている左手。

 その手は、なぜか自分の太ももの上に置かれていた。


「せ、専務……?」

「ん? ああ、ごめんなさいね。新幹線の席って狭いから手の置き場無くて」


 いやいや、ひじ掛けあるでしょ。とツッコミたかったが、専務相手にそんなことは言えず、ただじわじわと指先が動くのを我慢するしかなかった。


 周囲をちらりと見れば、通路を挟んだ席のサラリーマンはイヤホンでスマホに夢中。前後の席も雑誌を読んだり寝たりしていて、こちらを気にしてはいない。


 でも、公共の場で。しかも新幹線で。専務の左手が、スカート越しに自分の太ももをなぞるなんて――。

 男女なら完全にアウト。でも女子同士なら、きっとただのスキンシップに見えてしまう。


「優ちゃんって、本当に引き締まってるのね。触ってると落ち着くわ」


 さらりとそんなことを言いながら、パソコンから目を離さずに手だけは離さない専務。


 心臓は新幹線より速く走る。冷や汗をかきながら、必死に笑顔を保つ。

 ……仙台まで、あと何分?


◇ ◇ ◇


  仙台に到着後はレストラン候補地を数軒回り、夜は地元の不動産業者との会食。

 ホテルにチェックインしたときには、時計の針は九時を過ぎていた。


 専務希望のデラックスツインは、さすがの広さ。ソファも大きく、ベッドも二つ。

 専務はコートをクロークに掛けると、仕事中の張り詰めた表情をようやく崩した。


「はぁ〜疲れた。内見したあとに、クソジジイと飲み会だなんて。牛タンは美味しかったけど、相手がアレじゃ台無しね」


 会食中、年配の社長から「結婚しないの?」だの「ウチの息子の嫁に」だの、セクハラまがいの言葉を投げかけられていたのを思い出す。

 専務は営業スマイルで華麗にかわしていたけど、内心は相当ストレスが溜まっていたようだ。


「飲み直したいけど……先にシャワー浴びちゃうね」


 そう言うなり、専務は目の前でためらいなくジャケットを脱ぎ始めた。

 ――女性同士だから気にしない?

 いや、男同士だって脱ぐときはもうちょっと空気読むでしょ!?

 わざと見せてるのか、ただ自然体なだけなのか判別できない


 そんな悠馬の困惑をよそに、専務はブラウスをハンガーに掛け、スカートを脱ぎ、さらには目が覚めるような真紅のランジェリー姿で悠馬の横をすいっと通過。


 わざとなのか、素なのか。どっちにしても刺激が強すぎる。


「優ちゃんも、あとで入りなさいよ。シャンプーいい香りだから貸してあげる」


 軽い調子でそう言い残し、専務は浴室へと消えていった。


 ――え、これ女子同士の普通なんですか?


 ツインルームの静けさが、かえって心臓の音を際立たせる。

 襲われるのか、酔い潰れるのか、それともただ寝るだけなのか――

 専務と一晩同じ部屋で過ごす、この予測不能な夜はまだ始まったばかりだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る