第5話 ほころびと装い

 朝、出勤した専務を出迎えると、彼女は悠馬の前でふいに立ち止まった。

 すっと伸びた指先が首元に触れる。


「優ちゃん、リボンの左右の大きさが違うわよ」

「は、はいっ。すみません……」


 まだ配属されて三日目。早くも専務は、二人きりのときは必ず「優ちゃん」と呼んでくる。

 リボンを器用に結び直すと、最後にポンポンと肩を叩かれた。


「これでよし。……優ちゃんって、華奢に見えるけど、触ると意外と筋肉質ね」

「えっと……学生の頃、水泳をしていたので」


 ――中学のとき水泳部だったのは本当。少し広い肩幅や引き締まった体つきの言い訳に使うことにした。


「あら、水泳やってたのね。私もジムで泳ぐの。今度一緒に行きましょう」

「い、いえ、今は水着を持ってなくて……」

「大丈夫よ。買ってあげるわ。優ちゃんの水着姿、見たいし」


 耳まで熱くなる。

 男の上司が部下にこんなことを言えば一発アウトのセクハラ発言。だけど――女性同士なら、冗談のように受け流されてしまう。


 返答に困っていると、タイミングよく専務のスマホが着信音を響かせた。

 専務は画面を一瞥すると、英語で流暢に応対し始める。どうやら海外からの電話らしい。


 悠馬はその横顔を見つめてしまった。

 ――四十七歳にしてこの美貌とスタイル。圧倒的な自信に満ちた美魔女。

 そんな人に言い寄られて、心がざわつかないわけがない。


 けれど。

 理性のタガを外すわけにはいかない。

  専務は生粋の同性愛者。男とバレたら即アウトだ。

 頭の中で九九を逆から唱えながら、暴れ出しそうな下半身をどうにか落ち着けた。


 通話を終えた専務はこちらを振り返る。


「今日で三日目だけど、毎日スーツね。社外の用事がないときは、スーツじゃなくてもいいわよ」

「わ、私、スーツしか持ってなくて……」


 事実、女性の服なんてスーツしかない。休日に外出するときはジーンズにTシャツのユニセックスな格好。さすがにそれでは秘書にはふさわしくない。


「そうなの。それじゃ、私が買ってあげる。今日の夜、予定ないでしょう? 仕事終わったら行きましょ」

「そ、そんな、ダメですよ」

「いいのよ。就任祝いってことで受け取って。かわいい服着て、私の目を楽しませてよ」


 断り続けるのも失礼かと思い、しぶしぶ頷く。

 すると専務は小さく手を叩いて喜んだ。クールな仕事の顔とはまるで違う、無防備な笑顔に心がぐらりと揺れる。


 嬉しそうに手帳に予定を書き込む専務を見ながら――悠馬は内心で毒づいた。

 ……いや、これ、もし五十歳のオッサン上司に言われてたら、即刻コンプラ案件だろ。


◇ ◇ ◇


 お昼休み。秘書室に戻ってランチタイム――心安らぐひとときのはずなのに、悠馬にとってはまったく気が抜けない時間だった。


 秘書仲間の三人と机を並べてのランチ。華やかな会話は、最新コスメの口コミとか、インスタ映えするカフェ巡りとか……悠馬には未知のワードだらけだ。

 昨日までは課長が同席していて、さりげなく助け舟を出してくれたけれど、今日は会議で不在。完全にひとりで女子会に挑むしかない。


「そういえばさー、年末にクラス会あるんだよね。高校の担任が定年だからって」

「え、いいじゃん! 独身のイケメンとか来る? いたら連絡先ゲットしてきてよ」

「ざんねーん、女子高だったの。清和女子」

「かおりって清和だったんだ? あの白セーラーの制服でしょ。めっちゃかわいくて憧れてたんだよねー。私も受けたけど落ちちゃったんだ」


 きゃっきゃっと制服トークで盛り上がる彼女たち。

 けれど東京出身ですらない悠馬には、完全に異国の会話。サンドイッチに必死でかぶりつき、存在感を消すしかなかった。


「村瀬さんは高校の制服どんな感じだった?」

「えっ、私?」

「ほらほら~教えてよ」


 竹田が唐突に矛先を向けてきた。

 冷や汗が首筋を伝う。


「え、あ、えっと……普通だよ。ブレザーにプリーツスカートで、リボンは紺色……だったかな」

「へえー、写真ないの? 見たいなあ」

「ムリムリ! 高校時代めっちゃ太ってて、ブサイクだからさ……」


 苦しい嘘を押し出しながら、背中に冷たいものが流れ落ちる。バレてない、はず。……たぶん。


 幸い女子トークは移ろいやすい。すぐに話題はスカート丈へ。


「うちの学校さー、めっちゃ校則厳しくて。スカート膝下じゃないとダメだったの! ダサすぎでしょ」

「それはダサい!」

「だから学校出た瞬間にウェスト折ってミニにしてた」

「あ、それ私もやってた~!」


 悠馬は内心「へぇ……そんな裏ワザあったんだ」と驚きつつ、表情はにこやかに合わせる。


「う、うん。私もやってた……」


 ――やってない。

 でも、やってたふりをしないと、この輪からはじかれてしまう。


◇ ◇ ◇


 仕事終わり。解放感に浸る間もなく、専務に連行されるようにタクシーへ。

 たどり着いたのは、誰でも名前を知ってる老舗デパートだった。


 ……え、服買うのってここなの?


 庶民代表の自分にとって、デパートは贈答品を買う場所であって、自分のために何かを買う場所じゃない。


 煌びやかな照明の下、並んでいるのは雑誌でしか見たことのないレディース服ばかり。専務のヒールがコツコツと音を立て、自然と後ろをついて歩く自分。


「いらっしゃいませ」


 若者向けのショップの前に立ち止まった専務に、スタッフが笑顔で駆け寄ってきた。どうやら顔なじみらしく、軽く言葉を交わすとすぐにこちらを振り返る。


「あの子、私の秘書なの。仕事用はスーツしかないって言うから、ちょっと揃えてあげようと思って」


 ……え、そんな紹介のされ方するの?

 店員さんは手際よくサイズを測ると、あっという間に服を抱えて戻ってきた。


「今年の冬はこの柄がトレンドで――」

「こちらのフリルは上品さも可愛らしさも演出できます」


 さすがデパート。生地の質の良さは素人目でもわかる。でも持ってこられる服、ことごとくセクシー寄りなのは気のせいじゃない。

 透けブラウス、丈短すぎミニ、胸元ざっくりニット……専務の趣味が完全に反映されている。


「あら、これ素敵」


 専務が選び取ったのは黒のレースブラウス。前は大人っぽく上品なのに、背中が大胆に開いている。

 ……これ、下着どうするの?


 そして試着タイム。

 鏡の前に立つと、透け感たっぷりの白ブラウスに、膝上二十センチのチェック柄タイト。

 専務は満足げにうなずき、店員も「すごくお似合いです!」と拍手しそうな勢い。


 ……いやいやいや、見られるこっちの身にもなってください。

 今まで「ミニスカって最高」とか思ってましたけど、ほんとごめんなさい。視線って、こんなに心削るんですね……。


 悠馬が心の中で頭を抱えている横で、専務は涼しい顔でカードを差し出していた。

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