第3話 最終試験

 翌朝、まとめた荷物をコンビニから宅配便で送ると、二か月暮らした千葉の部屋をあとにした。

 家具は備え付けで、荷物といっても服や化粧品などダンボール二つ。引っ越しというより旅行に近い。


 満員電車に揺られる二十分。あっという間に東京に到着した。


 電車に乗り込むときは、女装がバレたらどうしよう……と心臓がドキドキしていたけど、ぎゅうぎゅう詰めの車内で誰もが下を向き、駅を降りても淡々と歩を進めるばかりで、悠馬を気にする人なんて一人もいない。


 都会の人の無関心さに救われたのか、それとも二か月の研修で女装の完成度が上がったのか。どちらにしても、誰もが悠馬を素通りしていく。


 丸の内の高層ビルの一階。昨日もらったばかりの社員証をカバンから取り出し、ゲートを通過する。

 社員証の名前は「村瀬優」。これが、ここでの悠馬の新しい名前だ。


 守衛さんのおじさんと目が合う。

「新人さんかい?」

「はい、今日から秘書課に配属です」

「そうかい、頑張ってね」


 にこっと笑って送り出してくれる。胸をなで下ろす。転勤が決まってから必死で練習した女声。アイドル並みのかわいさはなくても、少なくとも疑われることはないらしい。


 エレベーターで三十五階。秘書課のあるフロアに着き、課長室のドアをノックした。


「失礼します」


 何度も練習した斜め四十五度のお辞儀。課長はゆっくりと視線を上げた。


「おはよう。よく眠れた?」

「はい」


 本当は、昨日の夜は片付けと緊張でほとんど眠れなかった。


 最終試験って、なんだろう。もし失敗すれば、九州に逆戻りだ。そうなれば、美玖の努力も全部水の泡になってしまう。


「そう、緊張しなくていいわよ」


 課長は優しく笑って言った。


「最終試験っていっても今の村瀬さんならクリアできるわよ。はい、これ」


 一枚の紙を手渡される。内容を目で追ううちに、思わず顔が引きつった。


「……え」


 紙にはこう書いてあった。

 美容室で髪をカット。デパートで美容部員から接客を受けて化粧品を購入。そして、下着売り場で下着を買う。


 心臓がバクンと跳ねた。


「課長、これ……」

「簡単でしょ? もちろん、男だってバレないように、ね」


 にっこり笑う課長。完全に楽しんでるとしか思えない。


「そんな……よりによって下着売り場……」


 顔から火が出そうになる俺をよそに、課長は満面の笑みで手を振った。


「それじゃ、行ってらっしゃい。ちゃんと下着売り場でサイズ計ってもらうのよ」


 ドキドキを胸に抱えたまま、最終試験が始まった。


◇ ◇ ◇


 地下鉄の駅を出て青山通りに立った瞬間、目に飛び込んできたのはガラス張りの建物と、雑誌から抜け出してきたみたいな人たちだった。

 シンプルなのにどこか洗練された服装。歩いているだけで、悠馬は完全に場違いな気分になる。


 胸の奥でドキドキが加速する。

(だ、大丈夫……。美容室なんて、みんな普通に行くところだから……!)


 スマホで検索し、青山の美容室に予約を入れた。けれど「床屋」しか知らない悠馬にとっては、未知の世界だ。髪を切るだけなのに、バレないかどうかを試される最終試験。


 不安を抱えながら、ビルの二階にある美容室のドアを開けた。


「いらっしゃいませ」


 出迎えてくれたのは、まさにファッション誌のページから飛び出してきたような美容師のお姉さん。

 綺麗に巻かれた髪、モノトーンなのにセンスの光るコーデ。そんな人に案内されて椅子に座った瞬間、背筋がカチコチに固まった。


「今日はどんな感じにカットされますか?」


 鏡越しに微笑まれると、喉がカラカラになる。

 おそるおそるウィッグを外す。半年間伸ばし続けた髪は肩に届くくらいになっていた。


「お、女の子らしく……その、かわいい感じでお願いします」


 言ってから、自分の声の震えに気づいて余計に赤面する。

 でも美容師さんはにっこり笑い、さっそく髪を手に取った。


「じゃあレイヤーを軽く入れて動きを出しつつ、顔まわりは前上がりで小顔効果を狙いましょうか。毛量はセニングで調整して、最後にワンカールで柔らかさを出しますね」


「…………はい」


 専門用語が一気に降ってきて、頭の中が真っ白になる。

(レイヤー? セニング? ワンカール……?)

 全然わからないけれど、わからないなんて言えるわけもなく、悠馬はただ必死に頷いた。


 いつもの千円カットとは違い、髪を切っている間に雑誌を渡されたり、シャンプーで仰向けになったりと、初めて尽くしに戸惑ううちにカットが終わった。


 鏡に映るのは、顔まわりがアゴを包み込むように整えられ、毛先は内巻きにワンカール。全体にふんわりとした軽さが出て、さっき青山の街ですれ違った女子大生のような、柔らかいミディアムボブに仕上がっていた。


 鏡越しに見える美容師さんも満足そうに頷き、にっこり笑った。


「ありがとうございました」


 出口まで見送ってくれた美容師さんに恐縮しながら店を出ると、街の空気が来る時とは違って感じられた。

 華やかで洗練された景色は変わらないのに、今の悠馬はその一部として自然に溶け込めている――そんな実感が胸に広がっていた。


 思い返せば、美容師さんは最後まで「彼氏さんいるんですか?」とか「周りの男性がほっときませんよ」なんて笑顔で言っていた。

 男だとは気づかれていない、最終試験の第一関門はクリアできた。


 デパートの1階、まぶしいライトに照らされた化粧品フロア。

 ブランドロゴがずらりと並ぶその空間は、まるで異世界みたいで――悠馬は黒服の美容部員さんに椅子へと導かれていた。


 慣れないメイク体験。ファンデーションを頬にすべらせるたび、アイシャドウをまぶたに重ねるたび、鼓動が耳に響くようだった。

 脱毛サロンで髭を処理してきたとはいえ、男だとバレないかヒヤヒヤして仕方ない。


「鼻筋がすごくきれいですね」「顎のラインもしっかりしてます」なんて言葉が飛んでくるたび、冷や汗が背中をつたった。

 けれど次の瞬間には「ここにノーズシャドウを入れると鼻が小さく見えます」とか「ハイライトで角ばりをやわらげられます」と、まるで魔法みたいなテクニックを教えてくれる。気づけば真剣に聞き入っていた。


 仕上がった自分を鏡で見た瞬間――息が止まった。

 そこに映っているのは、まるで知らない女の子。頬がほんのり赤らみ、髪型と溶け合って、どう見ても若い女性OLの一人にしか見えない。

 思わず鏡に見入ってしまい、名前を呼ばれて我に返った。


 その勢いのまま勧められた化粧品一式を、ボーナス一括で購入。カード決済のとき、わざとサインを選んで「村瀬悠馬」と書き込む。


「……えっ、男の方だったんですか? ずっと近くで見てましたけど、全然気づきませんでした!」


 目を丸くする美容部員さんの声は、驚きに満ちていて――作り笑いなんかじゃなかった。

 悠馬の胸に、じんわりと温かい自信が芽生えていく。少しずつ、本当に“女の子”として見られているんだ――。


 次は……下着売り場か。最大の難関だが、なんとかなりそうな気がしてきた。

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