第2話 転勤
九州のど真ん中にある星川食品九州工場。冷凍食品の製造拠点で、全国のスーパーに並ぶ唐揚げや餃子がここから旅立っていく。
その資材調達部で村瀬悠馬は、今日もパソコンに向かって材料である野菜や肉の発注を行っていた。
そこへ工場長が血相を変えて飛び込んできた。
「大変だ! 本社から人事部長が来るぞ!」
その一言にフロアがざわついた。
「理由は分からん! とにかく片づけだ、掃除だ! 俺と部長以上は玄関でお出迎え!」
……工場長、普段は「九州なんて田舎だから早く東京に戻りたい」なんてぼやいてるくせに、こういう時だけ生き生きしてるんだよな。
仕方なくモップを握りつつ、悠馬はため息をついた。地元の国立大を出て三年目、地域枠の職員。給料は都会の総合職より安いけど、九州でこれだけもらえる仕事はそうそうない。
妹の美玖は東京の大学に行きたいって両親を困らせてるけど、俺は地元でのんびり暮らすのも悪くないと思っていた。
――その時までは。
掃除を終えて席に戻ると、廊下から工場長の声が近づいてきて、ドアが開いた。
入ってきたのは恰幅のいい男性と、スレンダーな女性。女性はスッと視線を走らせると、澄んだ声で言った。
「村瀬さんはどちらかしら?」
「は、はいっ、あちらです!」
工場長が全力で腰を折り、俺の方を指さす。まさか呼ばれると思っていなかった俺は慌てて立ち上がった。
「少しお話してもいいかしら?」
会議室に移動すると、俺と、本社から来た二人だけ。
「人事部長の大石だ」
「秘書課課長の滝川です」
「ざ、資材調達部の……む、村瀬悠馬です」
噛みまくった自己紹介に、クールそうな滝川課長がふっと口元をゆるめた。
彼女がカバンから取り出したのは一枚の紙。……いや、あれ、社内報?
「これ、村瀬さんでしょ?」
指さされた先には、見覚えのある――いや見たくない――写真。
忘年会での女装姿の俺だった。女子社員のノリと俺のポテンシャルが合わさり、そこには妙に可愛い“女の子”が写っていた。
「え、えっと……余興の一環で……」
怒られるのかと身構えた俺に、滝川課長は信じられない一言を放った。
「いえ、褒めに来たの。まさかここまで女装が似合う人材が社内にいたなんて」
「……は?」
いや、何の話?
混乱する俺に、滝川課長はさらりと本題を切り出した。
「結論から言うと――あなたに東京へ来てもらいたいの。結城専務の秘書としてね」
「えっ!?」
耳を疑った。なぜ俺が? と思った瞬間、さらに衝撃の説明が飛んできた。
――専務は男性秘書だとやる気が出ない。セクハラ問題にもなって困っている。だから「女装した男性秘書」という禁じ手で切り抜ける。
……そして白羽の矢が立ったのが、俺。
「ちょ、ちょっと待ってください! バレません? すぐ!」
「大丈夫。これから徹底的に教育するわ」
滝川課長は涼しい顔。人事部長は「これしか方法はない」とため息。
そして工場長に悠馬の異動を打診すると――
「ええ、もちろん構いません!」
即答。あっさり。俺の意思はガン無視。
こうして、俺の東京行きは強制的に決まってしまったのだった。
◇ ◇ ◇
引継ぎと引っ越しの準備を三か月で片づけ、悠馬は慣れ親しんだ九州の地をあとにした。
だが、結城専務の秘書になるからといって、すぐに配属されるわけではなかった。
やってきたのは千葉県の海沿いにある保養所兼研修施設。ここで女性秘書になるための研修が始まったのだ。
スケジュール管理や文書作成といった秘書業務。お茶の出し方やビジネスマナーといった接遇。さらには――メイクやコーディネート、ヒールでの歩き方まで内容は多岐にわたった。
机の上には積み上がる分厚いマニュアル。出勤するとそれを読み込み、時にはメイクや歩き方の仕上がりをオンラインで滝川課長からチェックをうける。
まさか「チークは横長にぼかして」と指導される日が来るとは思わなかった。
その日も昼休み、コンビニ弁当を広げてひと息ついた瞬間だった。
テーブルに置いたスマホが震える。画面には「滝川課長」。
慌ててお茶でご飯を流し込み、通話ボタンを押す。
「村瀬さん、順調に進んでる?」
「あっ、はい」
「そう、よかった。あと十分で着くから」
一方的に告げられ、ブツッと切れる通話。週に一度は抜き打ちでやってくる。
慌てて弁当をかき込み、口紅を塗り直し、姿見の前でスカートのシワを確認。――よし。
玄関先でお辞儀の角度を四十五度に決め、滝川課長を迎える。応接室に案内してから、何度も練習した通りにお茶を差し出す。
「失礼します」
正面に柄がくるように茶碗を置く。完璧なはずだ。
課長は一口お茶をすすり、悠馬を上から下までじろりと見つめた。
「一週間ぶりね。だいぶその格好も様になってきたわ」
「ありがとうございます」
「ただ、アイシャドウは寒色より暖色系ね。あとチークはもう少し濃く」。そっちの方が専務の好みだわ」
そう言うと、滝川課長の手がスカートの下にすべり込み、お尻を撫でる。
「きょ、今日のパンツは何色かしら?」
「ピンクです」
「そこはもう少し、恥じらって言った方がいいわね。そっちの方が専務は喜ぶわ」
専務からのセクハラを想定した訓練――頭では理解しているけど、やっぱり心臓に悪い。最初は驚きのあまり「何するんですか!」と叫んでしまったら、「失格!」と一蹴された。
それが今ではなんとか耐えられるようになった。
ふと、課長が雑談のように言った。
「ところで、妹さん、東京の大学志望するそうね」
――ドキリとする。
転勤に伴い総合職扱いとなり給料も上がり、会社が社宅まで準備してくれる。ようやく妹・美玖の東京行きにも現実味が出てきた。俺がヒールで足を痛めながらも頑張れる理由は、そこにある。
「そろそろ、秘書として配属してもいいかもね」
「……はい!」
胸が引き締まる。いよいよ結城専務の秘書に――。
だが滝川課長は、さらりと付け加えた。
「でも、その前に最終試験よ。ウィークリーマンションは引き払って、明日から東京に来て」
言うだけ言って、ヒールの音を響かせながら去っていく。
取り残された悠馬は、冷めたお茶を見つめながら深いため息をついた。
――最終試験って、いったい何なんだよ。
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