◇取材記録:林道に響く太鼓

 狸の音といえば、もうひとつは「腹鼓はらづつみ」である。しばしば漫画や昔話では「腹を叩いて音楽を奏でる」とユーモラスに描かれるが、民俗資料を読むと、それは必ずしも笑いに限定されない。



 ――「村人の葬りの夜、山より腹鼓の響き渡りき。これを狸の仕業といひ伝ふ」

(『播磨国風土記伝承』抄)



 腹鼓は「死者を送る太鼓」と結び付けられ、狸の腹音が聞こえた夜に葬列が出たという伝承すらある。つまり腹鼓は「笑い」と「死」とをつなぐ境界の音でもあった。この二重性こそが、狸譚が人々の精神に強く残り続ける理由のひとつにほかならない。



■取材記録:林道に響く太鼓


【取材日】令和元年七月

【聞き取り対象】H氏(三十四歳・山梨県在住)


 この証言は、山梨県内に在住の会社員H氏から得たものである。アウトドアを趣味とする彼は、休日になると仲間と連れ立って釣りや山歩きを楽しむという。その日も、夜釣りのために車で山間のダム湖へ向かっていたのだという。


 「夜の9時前くらいでしたかね。地元の知人から聞いた“穴場”があるって話で、林道を車で進んでたんですよ。スマホの地図アプリもナビもちゃんと使ってたのに、なぜか同じ場所を何度も通る。分岐もないし、道は一本道のはずなんです。なのに、さっき見た倒木がまた現れて、何周目かで気持ち悪くなってきて……」


 車内に不穏な空気が立ち込めはじめたのは、そのときだった。


 「助手席のやつが突然、『太鼓の音がする』って言い出したんです。冗談だと思ってたら、後ろのやつも『聞こえる』って。耳を澄ますと……たしかに、“ドン……ドン……”と、腹に響くような音が聞こえてきたんです。ゆっくり、一定の間隔で」


 不安を覚えたH氏は車を路肩に停め、一度落ち着こうと提案したという。すると、そこで思いがけない事態が起こった。


 「全員、気づいたら寝てたんですよ。運転席の俺も含めて。気絶したように寝落ちしてて、目が覚めたら朝でした。窓の外が明るくなってて、太鼓の音も止んでて……なんというか、狐につままれた気分でした」


 そのまま山を下り、地元の食堂で朝食をとっていたとき、何気なく店主にその話をした。すると意外な言葉が返ってきた。


 「『ああ、あそこは狸だよ』って。地元じゃけっこう有名な場所だったらしいんです。道に迷うって話も多いし、夜になると太鼓が聞こえるって人も何人かいるって。……なんかもう、笑えないなって思いました」



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 本事例には、現代のテクノロジーをもすり抜ける“化かし”の特徴が顕著に現れている。スマートフォンの地図を使用しながら「同じ地点を何度も通る」という現象は、いわゆる“空間の撹乱”であり、これは古典的な狸譚にも多く見られる型である。


 特に注目すべきは、「太鼓の音」と、それに続く「意識の遮断(全員同時の寝落ち)」という異常な時間感覚の喪失である。これは、単なる道迷いではなく、「音による時間の化かし」とでも呼ぶべき現象であり、狸が奏でるとされる腹鼓や狸囃子が単なる聴覚的演出にとどまらず、人間の時間認識そのものに干渉している可能性を感じさせる。


 第一章でも述べたように、狸の腹鼓は単なる笑いの演出ではなく、かつては“死を知らせる太鼓”として伝承されてきた側面もある。陽気で滑稽な音楽とされる狸囃子も、土地によっては“葬列を先導する音”として記憶されている。つまり、音は「異界からの合図」であり、また人間を異界に引き込むための“仕掛け”として機能していた。


 本証言でも、「太鼓が聞こえる→停車→全員が無意識に陥る→夜が明けている」という一連の流れが示すのは、時間の欠落=異界への侵入と復帰の物語構造である。しかもそれが、「太鼓」というプリミティブな音によって引き起こされている点は、極めて象徴的である。


 また、H氏らが迷い込んだ林道が地元で「狸にやられる場所」として知られていたという点も見逃せない。これはまさに風説=“土地の記憶”の顕在化であり、狸譚が単なる個人的体験ではなく、集合的な伝承へと接続されていることを意味している。


 狸は時に笑わせ、時に惑わせ、時に“時”そのものをゆがめて見せる。


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