8

 指定をされた場所は電車を二回乗り継ぎ、そこからバスに乗ってようやく向かうことが出来るような山の中だった。蝉時雨が降り注ぎ、夏が始まりつつあるのだということを嫌というほどに主張している。

 そんな閑散とした土地の中でも更に人の居る方から離れていくように、山の中に出来た小さな道を通る。車を通すことも難しそうな道だけが、街と家を繋いでいるのだろう。どうしてここまで不便な場所に住んでいるのだろうか。まるで、ひと気がある場所を避けるように、世界から孤立するように。

 僕たちはなだらかな、けれどろくに舗装をされていないせいで歩きづらくなった道を進んで行く。進んでも草木ばかりのみが視界に現れるせいで、本当にこの道でいいのかという疑念を携えながら。

 ようやく辿り着いたそこには、死体のような家があった。廃れている、と言いたいわけではない。手入れはなされているようで、外装はむしろ小綺麗に整えられている。みすぼらしい、と言いたいわけではない。むしろその家は館と言おうかと迷いそうになるほど、そして山の中に忽然と現れることに異質さを覚えるほど、大きく豪壮な佇まいをしていた。

 それでも僕がこの家を死体のようだと形容したのは、ここには人の息づく温度のようなものがなかったからだ。生活の臭いとでも呼べるものがなく、本来人が存在するべき空間にあるべきではない空虚さだけが内包されている。廃墟のような恐ろしさこそはないけれど、不気味さだけで比べれば廃墟よりも酷いかもしれない。これから訪ねる人の住んでいる場所をそう思うのは、礼を欠いたことなのかもしれないけれど。

 ドアの隣に取り付けられていたチャイムを押す。暫くの静寂がした後で、風により葉が擦れ合う音に紛れ込んでしまいそうなほど静かにドアが開く。

 現れた男は場の異質さに似合わない、あくまでも普通の恰好をした、普通の男性に見えた。清潔な白いシャツを着て、黒いパンツを履いている、シンプルで特徴のない無難な服装。事前に調べた限りでは三十六歳とのことだったけれど、まさにそれくらいの年齢に見える。若くも、老いても見えない。街中に居ればすぐに溶け込んで、記憶からも消えてしまいそうな容姿をしている。

「君が、電話をくれた白野君かな」

「はい。貴方が来栖先生でよろしいですか」

「先生って呼ぶのはやめてくれ。そういう柄じゃない」

 そう言って、彼は身を翻して家の中へと這入っていく。少しの間戸惑っていると「あがってくれよ。立ち話をするわけでもないだろう」とだけ言って彼は家の奥へと進んで行く。見失わないように、僕たちも急いで家の中へとあがり、靴を脱いで追いかけていく。

 家の中は白い壁紙のせいもあってか清潔に見えた。しかし、それは掃除が行き届いているという意味ではなく、何も使っていないからなのだろうという印象を受ける。ひと気のない博物館に這入っているような感覚になる。誰かが実際に使っている場所というよりは、保存され、展示している場所に這入ったような無機質な小綺麗さがこの場所にはあった。

 少しの間廊下を歩き、客間らしき場所へと通される。来栖さんはソファに腰かけ、僕たちもテーブルを挟んだ向かいにあるソファに腰かけるように視線が告げていた。「失礼します」と僕たちは言って、慎重にソファに座る。

「そっちの彼女の方が月行病なのか」

 前置きもなく、来栖さんは必要最低限の会話だけを求めるようにしてそう尋ねた。歓談をしに訪れたわけでもないのだ、その態度は当たり前のことなのかもしれないけれど、ここまで徹底して無駄をこそぎ落としたような会話というのはなかなか見ることがないものだ。

 僕は言うべきなのだろうかと一瞬逡巡したけれど、その間に芥生さんは「はい」と返事をする。

「私が月行病に罹っています」

「そうか。実在したんだな」

 男は言葉とは裏腹に、淡々と、公的な書類にサインでもするような形式的な態度で呟く。月行病に対する、彼の態度が見えない。確たる月行病という証拠を提示することもなく受け止めるのは、何故なのだろうか。そして、月行病の研究をしているのにも関わらずこれほどまでに、その病気に罹っている当事者が目の前に現れてここまで淡泊な態度を貫き続けるのは、何故なのだろうか。

 幸いとも言えるのかもしれない。月行病により狂気的な執着を見せる人間ならば、珍しいサンプルである芥生さんにより強く、危険な興味を示したのだろうから。けれど、ここまで淡泊な態度を取られると不安にもなる。この人は、僕たちが求めるものを有しているのだろうかと。

「罹ってからどれくらいになるんだ」

「もうすぐ、半年です。より正確に言うなら五カ月と少しくらいでしょうか」

「俺の推測だともう少し短い期間で月へと行くものだと思っていたが、そうか。違うのか」

 芥生さんが僕の方に少しだけ視線を送る。けれど、僕は口を噤み、何も言わなかった。情報を交換しようと持ち掛けたわけでもないのだ、何も情報を無理にこちらから話す必要はない。それに、鏡花のケースが絶対的なものであるとも限らないのだ。断定的に語るものではない。

「月行病の人間の身体が透けるというのは、本当のことなのか?」

「ええ。浮かび上がっている時は何も掴むことが出来ません」

「なるほど。今はどれくらい飛ぶことが出来る?」

「正確に測ったことはないので数値としては何とも。ただ、今の時点で木の高さくらいまでは」

「この山にあるものと同じくらいの高さの木かな」

「はい」

「そうか」

 男は一方的にこちらに質問をして、思案するように沈黙することを繰り返す。これでは、僕たちが話をするために訪れたみたいだ。対価として、それくらいの話はするべきなのかもしれないけれど、もどかしさが僕の思考をじくじくと刺激する。

 彼は指を組み、何度かそれをパズルでもするみたいに組み替えた後で小さく息を漏らす。溜め息というほど大仰なものではないけれど、ただの呼吸にしては些か大袈裟に聞こえる息だった。

「聞いて貰った通り、俺はそれほど月行病について知っているわけではない。だから、妙な希望を持たれないように先に言っておこう。治療法や、せめて症状を遅らせるような希望的手段を俺は知らない」

 男は変わらない、時計の針が刻む音のような無機質な声色でそう告げる。覚悟をしていたからこそ、哀しみとでも呼べるような巨大な暗い感情が去来することはなかったけれど、それでも心の中に暗い色が塗りたくられたような感覚がする。

「俺は俺の知っている限りのことを話そうと思うし、質問があるならばそれにも答えよう。それは、直截的に月行病という問題を解決するものではない。ただ、君たちも十分に知っていることだろうが、月行病という病気は、現象は、とても奇妙なものだ。もしかすれば、俺が他愛のないつもりで話したことが解決の糸口になればいいとは思う。俺に出来ることは、それだけだよ」

「構いません」

 芥生さんはすぐにそう答える。僕が希望のなさに落胆している中で、それでも彼女は揺らぐことなく、あるいは揺らいでいたとしてもそれを表に出さないようにしている。自らの死が覆しようのないものだということが確定的になった彼女の方が酷い気分であるはずなのに、それでも。

「少しでも良いから、例え治らなくてもいいから、知りたいんです。これが何なのかを」

「そうか。なら話そうか」

 男は瞼の裏に暗闇が存在することを確かめるように目を瞑り、それからゆっくりと口を開く。

「月行病がどれほど昔からある病気なのかは分からない。理由は二つ。ひとつ目は記録にある状態が神話のような、明確なフィクションと区別がつかないこと。もうひとつはそもそも記録に殆ど残されていないからだ」

 そこまでの情報は、僕も調べた中で知ることが出来ていたものだった。月行病の記録は、極めて少ない。あるとしても、古い人が残した創作だとされて気にも留められないことが殆どだ。それに、月へと行った人間は死体を残さない。蜃気楼のように、痕跡すらなく忽然と消えていく。幻想的な病気のこれ以上ない証拠は、身体とともに月へと旅立ってしまう。

「アンリ・ベランジュの「月と狂想」という作品を読んだことはあるか?」

「いえ」

 僕たちは否定をする。作者の名にも、作品の名にも、聞き覚えはなかった。

「恋人が月へと惹かれていく姿について描かれた幻想小説だ。多くの人間にとって、この作品はただのファンタジーとして消費されるものだが、アンリ・ベランジュの書簡からこれは実際に彼の身に起こったことだとも言われている。つまるところ、恐らくは最も正確に、細かく描かれた月行病に関しての記録だと」

 僕は少なからず月行病に関して調べたつもりでいた。けれど、どれほど探しても出てくるのは月行病をテーマにしたフィクションか、あるいはオカルト的視点から流言飛語を並べているようなものばかりで、そのような小説など全く出て来なかった。来栖さんの語り口からするに、読んだからといって、何かが解決していたわけではないのだろう。それでも、自分の能力不足がまざまざと感じられて嫌になる。

「その中には、恋人から月へと浮かんでいくこの姿を決して他の人には話さないで欲しいと頼まれる場面がある。結果としてアンリは恋人が月へと飛び立った後――公的には失踪した後、あろうことか世間にその事実を作品として発表したわけだが、彼のケースだけではない。他にも残された、恐らくは月行病の罹患者と思わしき人々はみな、誰もが口外をしないようにと言っている。口外されてしまえば、月へと飛び立つよりも先に自ら命を絶ってしまった者もいるほど、彼らはみな自らの症状が露見することを恐れていた」

 その恐れを、僕は見たことがあった。出会った時の芥生さんが見せた、過剰とも言えるような怯え。ひとつの点に過ぎないと思っていたものが、連綿と存在していた過去と重なる。

「これらの事実からどうして月行病という存在が見えざる手によって秘匿でもされているように、不透明な存在で在り続けたのかを推測することが出来る。つまり、その事象を口外しないような精神的な作用が月行病にはあるのかもしれないということだ」

「……そんなこと、有り得るんですか。月へと浮かんでいくという症状が人の行動や、思考にまで影響するなんてことが」

「君はハリガネムシという寄生虫を知っているか? カマキリに寄生する、蚯蚓をより細く、長くしたような奴だ」

「名前くらいは」

「ハリガネムシは宿主を水の中へと飛び込ませるように仕向けるんだ。脳へと干渉し、水面が反射する光へと移動させ、それが死に至る行為だというのに宿主自身の手で水の中へと入らせる。結局のところ、思考なんていうものは記号的な電気信号が具象化したものに過ぎないんだ。月行病に限らずとも、それを操り、変化させるということは何も非現実的なことじゃない」

 その可能性を考えて、身体の奥底に冷たい針を刺されたような痛みと恐怖が走った。単なる、と言ってしまえば逃れることの出来ない死が待っている月行病を侮っていると捉えられるかもしれないけれど、僕は月行病のことを単なるひとつの怪奇的な物理現象に過ぎないと思っていた。けれど、もしもその仮説が正しいならば、月行病は想像をしていたよりもずっとグロテスクな現象だ。肉体を月へと誘うだけではなく、精神まで作り変えてしまう。不可侵だと思っていた思考までも捻じ曲げてしまう。

 それは、完全な殺人だった。肉体だけではなく精神までも殺してしまう、究極的で吐き気のするほどに醜悪な死だった。

「勿論、何も確定的なことではない。月行病の当事者ではない俺たちからすれば理解が出来ないだけで、宙へと浮かんでいく姿を見られるというのは人間の価値観からしてみれば耐えられない恥辱なのかもしれないし、精神的な作用ではなく単にそういう姿を見られたくないと思うような人間が月行病に罹るという風に、順番が逆なのかもしれない。あくまでも、仮説のひとつだ」

 男の言う通り、確証は何もない。それこそ、月行病の人間の脳を検査すれば分かることなのかもしれないけれど、月行病の人間が自らの状況を吐露しない以上、性質と結果の因果関係は不明瞭なままだ。

 昔のことを思い出す。彼女が何も言わずに去ってしまったのは、月行病のせいだったのだろうか。そうだとすれば、少しだけ救われたような気分になる。裏切られたわけではなく、仕方のないことだと諦めることが出来るようになるのだから。けれど、月行病が精神にまで作用するものだとは思いたくなかった。それは、鏡花や、今目の前に居る芥生さんまでも月行病に支配された偽りの存在であると決めつけるようなもので、認めたくない。彼女たちの行動は、意志は、他の何に侵されるでもない彼女たち自身によるものだと信じたかったから。

 芥生さんの方に目をやる。彼女は、何を思っているのだろうか。自らの選択だと思っていた思考が、病によって支配されていたものかもしれないと告げられて、今までの決断に揺らぎを覚えてはいないだろうか。けれど彼女は僕の視線に対して「大丈夫だよ」と呟いた。

「私は私だから。大事なのは今ある結果で、そこにどんな理由があったとしても変わりはない」

「君も、月行病のことを人に隠しているのか?」

「はい。彼に話したのも、見られてしまったからであって、彼に見られなければ私は誰にも知られないままで月へと行っていたんだと思います」

「そうか。その性質が原因なのか結果なのかは分からないが、やはり月行病とその秘匿には関係がありそうだな」

 男は芥生さんの言葉を聞いて考え込むように視線を少し下げ、テーブルを見つめる。そうしている間の男は、このうらびれた家の中ではない、別のどこかに居るようだった。ある種の人間は、思索をする際に意識を現実ではない場所へと切り離して個人的な世界へと没頭をすることがある。僕もまた、似たような症状を持っているからこそ分かる。

 少しした後で、ひとまずの情報の整理が終わったのか男は視線を上げて話を再開した。

「君たちも十分分かっていることだろうが、月行病という現象は極めて非科学的なものだ。違うな、非科学的という言い方は正しくないな。お伽噺に出てくるような、一切の論理を排斥したような超常の存在なのか、それとも単に未だ解明をされていないだけの存在かは今の時点では分かっていないのだから。先に述べたような魔力めいた引力が月行病に存在するのだとしても、脳科学的な説明では全く理解出来ない理屈が存在しているのかもしれない」

 結論だけを見てしまえば、僕たちには理解を出来ない現象が起こっているというだけで終わってしまうことだけれども、そこに確固たる理屈が存在しているものと全く不可解な、論理や因果という今の僕たちが信仰している対象が通じないものでは大きく意味が異なる。

「つまり、もしも月行病が全く未知の論理や因果から外れたものであれば、打つ手は完全にないということですか」

「いや、俺は逆に考える」

 僕の問いに対して、来栖さんは否定をする。

「もしも今目の前に居る人間を救いたいというのであれば、科学的であることよりも魔術的な存在であることを祈るべきだ」

「どうしてですか」

「仮に現在の科学で説明可能なものだったとして、君に何が出来る? 特効薬を作ることも、不可触の人間を繋ぎ留める補助装置を作ることも出来ないだろう。それは、別に君だけに限ったことじゃない。月行病の人間がどれくらいで月へと飛び立つのか、正確な期限は俺には分からないが、残された時間が僅かであることは確かなはずだ。選りすぐりの科学者を世界中から搔き集めて今からその子の身体をどれほど検査し、弄くり回したとしても期限までには間に合わないだろう」

 その言葉は正しかった。科学的発展はそれ以前の積み重ねによって達成されるものであり、一人の天才が思いつきで解決するような物語的発展はそう有り得ない。そもそも、選りすぐりの科学者を集めるという有り得ない仮定ですらも間に合わないのだろうと判断を出来るのだから、現実的に考えればどれほど希望がないかは明らかなはずだ。

「だから、いっそのこと魔術的な理由である方がいい。陳腐な言葉だが、それであれば奇蹟を起こることを信じればいい。魔術的な現象は魔術的な現象によって破壊されるのだろうから」

「……そうですね」

 透き通った手と触れ合った時のことを思い出す。あの時、僕は紛れもなく彼女に触れていた。月へと飛び立つ、本来触れることが出来ない彼女の指の感触は、今でも生々しいほど鮮明に思い出すことが出来る。

 どうしてあのようなことが可能だったのかは分からない。ただ、そこには特効薬や補助装置のような現実的で論理的な救済ではなく、奇蹟とでも呼ぶべき偶然が存在していたことは確かなことだった。あれを再現するために必要なのは、理屈ではない。強いて言うならば、祈りのようなものでもなければ、どうしようもないままなのだ。

「ただ魔術的な原因なのだとして、申し訳ないが俺には提供出来る可能性の話はない。ベランジュの記録では魔女の儀式を試した、なんていう話があったが、意味はなかったようで結果として恋人は月へと飛び立っている。記録の中に、過去に答えはないままだ。奇蹟の起こし方を、俺は知らない」

 かつて魔術とされていたものも、今では理論によって解体され、その神秘性が剥奪されたものも少なくない。けれど、月行病は違う。未だその神秘性を保ったまま、グロテスクなほどに美しい現象としてあり続けている。解を導き出せる便利な定理は、誰にも見つからないままで世界の奥底に沈んだままだ。

 僕はその答えに近い場所に居るのかもしれない。少なくとも、僕よりもよほど月行病について知っている人は透過した月行病の人間に触れることが出来るというケースを知らなかった。知っていれば、解決策のひとつとして提示をしたのだろうから。不可触な月行病という現象に対して手の届く場所に、僕は居るのかもしれない。その答えを、ずっと探している。それでも、見つからないままで時間だけがいたずらに過ぎ去っていく。

「情けないが君たちに有用そうな話は、これくらいだ。他に何か聞きたいことはあるか?」

 男は組んでいた指を解いて手を両の膝の上に置き、僕たちを見る。

 何か、何でもいい。答えに繋がるべき問いはないのだろうか。それに近いのは僕だけなのだろうから。手繰り寄せるだけの可能性を見出さなければならない。折角ここまで来たのだ。直截的に答えに結びつかなくてもいい。せめて繋がるような欠片でもいいから、それを掴むことが出来るような問いを。

 けれど、どれほど考えても、創造性というものが根こそぎ奪われてしまったように頭の中には何も思い浮かばなかった。思考はいつまでも空転を続けていて、滑車の上を走り続けているように永遠に答えには辿り着かない。

「どうして、月なんですか」

 そう尋ねたのは僕ではなく、芥生さんだった。まるで、それがこの人生における命題でもあるように慎重な声色だった。

 その質問が果たして解決に繋がるのかは分からない。けれど、彼女にとってはとても重要なことなのかもしれない。自分を誘うものが何なのかという問題は。

「太陽でも金星でもなく、どうして月に誘われるのか、ということか?」

「はい」

「一説によれば、月には地球にまで届く引力があるからだと言われている。潮の満ち引きは実際にそうして起こっているし、分かりやすい理屈だろう」

「でも、地球の重力がありますよね。影響が現れるなんてことがあるのだとしても月の引力よりも地球の重力の方が強い以上、浮かび上がるなんてことにまではならないでしょう」

「まあ、そうだな。地球の重力からは外れて、月の引力のみから影響を受けるようになるというのがこの説を支持している連中の言い分だが、俺からすればどうにも腑に落ちない。理屈が通じない現象である以上、真っ当な感覚による違和感なんて当てにはならないんだろうが」

 月の引力によるものだという仮説は、男と同じく僕の直感からも外れたものだった。尤もらしい説明ではあるが、尤もらしいだけだ。本来説明をつけることの出来ないものを手にあるものでなんとかしようとしただけ、不格好な説明であるとすら思う。

 男は継ぐ言葉を吐こうとして、一瞬逡巡を見せた。今まで淡々と、事実を吐き出し続ける機械のように語り続けて来た男のその表情は珍しいもので、僕は構えて次の言葉を待つ。

「もうひとつある仮説は、月には人を引き寄せる魔力とでもいうようなものが存在しているということだ」

 思ってもみなかった可能性の提示に、戸惑った。月行病というものが超常的な存在であるということは理解していても、このシステマチックな態度を取り続ける男がその説明のために魔力という言葉を使うとは思わなかったからだ。

 けれど、その可能性がいやに腑に落ちてしまうこともまた、確かなことだった。

「魔力ですか」

「ああ。古くから、月は人を狂わせるとされている。狼男が満月の夜に変身をするのもそうした考えによるものだとされているし、狂うを意味する英単語であるLunaticも、語源は月を意味するLunaだ。月には、科学や理屈では見えない、解剖出来ない特別な力学が存在している。それは時として精神に作用し、肉体をまで誘うこともある、というのが二つ目の仮説だよ」

「来栖さんは、どちらを信じてるんですか?」

 芥生さんの問いに男は再び惑うような表情を見せた後で、溜息を吐き出すように答えた。

「後者だよ。論理性もクソもない、馬鹿馬鹿しい空想を俺は信じてるんだ」

 それは、ある種の降伏のように見えた。本来、事象を論理で解体し、整然とした結論を語るべき学者がそれでも根拠のない魔力を信じることしか出来なかったのだという清々しいほどの敗北の宣言に。

「馬鹿馬鹿しくなんてないですよ」と芥生さんは言った。安っぽい慰めではなく、心の底からそう思っているように。

「引力よりも、魔力の方が私は納得がいきます。この身体を宙へと持ち上げていくのは、引力なんて分かりやすいものじゃないですよ。もっと曖昧で、ぼやけていて、得体がしれないからこそ、怖いんです。誰にも、言えないんです。自分自身でも、そんなことがあったなんて認めたくないから。質の悪い悪夢に過ぎなかったんだって思い込みたいから」

 彼女の吐露する飛翔の恐怖は、聞いているこちらの身までも引き裂きそうなほどの切実さを持っていた。

 僕は漠然と、月行病の人間が抱く恐怖とは行く先にある死についてのものだけなのかと思っていた。けれど、制御が出来ず、未知の力学によって飛翔していくことが耐えがたい恐怖であることは、言うまでもない当たり前のことだった。だからこそ、秘匿するのだ。防衛本能として、耐え難い現実をなかったことにするために、否認しようとするのだ。

「そうか」と男は小さく呟いた。自らの迷妄が、少しだけ報われたとでも言うように。時計の針が時間を刻みつける音だけが、点滅するようにして客間に響き続けていた。

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