9
「少し、二人で話をしないか」
全ての話が終わり、来栖さんがそう声を掛けたのは芥生さんではなく僕の方だった。
月行病の研究のために、僕が居ては聞きづらい話をしようと芥生さんを呼び止めるならば分かる。しかし、ただの傍観者に過ぎない僕を呼び止める意味が分からなかった。
「僕は、月行病の患者ではないですよ」
「分かっている。ただ、少し君と個人的に話がしたいというだけだよ」
僕と芥生さんを取り違えたわけでもなく、本当に彼は僕と二人で話がしたいようだった。その意図が分からないながらも、来訪に応じてくれたという貸しがあることは確かで、「分かりました」と僕は頷く。
「先にバス停に行っててくれないか」と芥生さんに頼む。彼女は大儀そうな素振りや表情を見せることもなく「分かった」と言って先に立ち上がり、「今日はありがとうございました」と男に礼をする。
「いや、わざわざご足労して貰って有益なことを話せなくて申し訳なかった。そう時間は取らせないから、少し彼を借りさせてくれ」
「どうせ時間は余っているので、急がなくても大丈夫ですよ。自然が綺麗ですし、ゆっくり待っています」
それでは、と言って芥生さんが再び礼をすると男は「ああ」と相槌を打つように返す。
「君の病が、良い結末を迎えることを願っているよ」
男は最後まで、治るようにとは言わなかった。それが非現実的な願いであることは分かっているから、せめて良い結末をと口にするのだ。残酷だけれど誠実なその言葉を芥生さんは静かに受け止め、そして客間から出て行った。僕たちは暫く、彼女が立ち去っていた後に残された静寂の残響の中で佇んでいた。彗星を待つ天文学者のように、何も言わずに。
暫くした後で男は「煙草を吸ってもいいか」と尋ねた。僕は「ええ」と頷く。父は、結婚をするより前は喫煙者だったらしい。それが結婚をして辞めて、それから母が死んで再び吸うようになった。母が死に、父と二人きりで同居をしている間に紫煙の臭いには慣れていた。問題はない。
しかし、芥生さんが席を立ってから吸い始めるのは、女性の前では吸わないようにしているという気遣いなのだろうか。逆に言えば、男の前でならば吸っていいという基準の曖昧な無遠慮さの結果なのだろうか。そう思っていると、男はポケットからセブンスターを取り出し、口に咥えて火を点けてから「違うよ」と僕の思考を読んだように言った。
「女の前じゃ吸わない、なんて気障な主義は持ってない。ただ、今までのは知識を羅列するだけの、作業的な会話だったのに対して、これから話そうとしているのは俺の個人的な部分にまつわる話だから吸いたいんだ。中身を曝け出すような話は、何かで気を紛らわせないととても出来るようなものじゃないだろ」
僕は物言わずに頷く。月行病だということを吐露した時の芥生さんの表情を、そして僕があまりにも個人的な過去について吐露時の心情を思い出す。誰にも侵されないはずの、内なる神秘を曝け出すような行為はとても素面で出来るようなものではない。熱情に流されるまま衝動的に行うか、何かで気を紛らわせでもしない限りには、本当のことを話せないほどに、人間という生き物は弱いのだから。
紫煙がゆっくりと立ち上り、部屋の中を満たしていく。父の吸っていたものとは異なる香りで、少しだけ安堵した。憎悪と呼べるほど大層な感情は今更父には抱いていないけれど、好ましく思っていないことは確かで、彼を想起させるような香りであれば、少なからず自分は不快に思っていたのだろうから。
煙草を吸う男の表情は、笑っているわけでも哀しんでいるわけでもない、凪いだ湖面のようなものだった。それでも、分かる。それは先ほどまでのシステマチックで無機質なものとは違い、人間らしい温かな息吹を感じるものに変化していることが。
「どうして、僕と話をしようと思ったんですか」
耐え切れず、僕の方から話を始める。男は煙草に口をつけ、僕の言葉を吟味するように考え込んだ後で、何てことがないように答えた。
「君が、俺と似ているように見えたからだよ。いや、似ているという言葉は正確ではないな。君は、俺と同じなんだろう」
こちらを見つめる澄んだ目を見て、確信をする。この男は、分かっているのだ。どうして僕が月行病に執着をするのかを。彼もまた、同じ理由で月行病に執着しているからこそ。
世界に対する秘密を、僕の最も個人的な領域を発かれたのにも関わらず、不思議と恥や不快感を覚えることはなかった。むしろ、どこか安心と清々しさすらあった。シンパシーと呼ぶには醜悪な共鳴を、彼に感じることが出来たから。
それ以上、男がそれについて語ることはなかった。僕も、何も語らない。しかしその沈黙こそが僕たちの間にある密やかな同位体の存在を証明しているように思えた。
「これ以上進むつもりなのか」と男は言った。
「君の望む結果は、このまま進んだとしても手に入ることはない。そして、いずれ失われるものに入れ込めば、それだけ失うことは辛くなるばかりだ。本人が居ないから直截的に言うが、彼女はもう助からない。月へと消えていくだけだ。それでも、君は――」
「だからこそですよ」
男の言葉を遮るようにして僕は言う。
「失う痛みを忘れるために、僕は彼女の隣に居るんです」
男は知らない。僕が月行病の人間に触れたことがあるということを。希望はないのだと、男は言った。けれど、あるのだ。微かな、少し目を離してしまえば見失いそうなほど小さなものであったとしても、確かに可能性は存在しているのだ。
ならば、諦めるわけにはいかない。今度こそ、僕が望んだものを掴むために。
男はさして残念がるような様子もなく「そうか」と呟いた。
「君がそう選択をするなら、俺に止める権利はない。ただ、人生の先輩としてひとつだけアドバイスをしておこう。起こってしまった現実は変えられない。不条理には抗えない。不可能は覆せない。俺たちに出来ることは、ありのままの世界を認めることだけだよ」
「貴方がそれを言うんですか」
「大人とはいつだって、自分の果たせなかった願望を子供に押し付けるものさ」
そう言って、男は小さく笑った。それは自嘲をしているようにも、僕を励ますようにも見える不思議な笑みだった。
「君はまだやり直せる。歳を取った後ならともかく、若いうちに見る夢は破滅的でない方がいい」
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