正しく君の悲しい心を
7
もしも月行病と再び向き合うことになったならば、何をするべきか。彼女が飛び立ってしまってから、僕はずっと考え続けていた。それがもう実現不可能な、虚しい仮定だとは理解をしていても、もしもやけれどを考えずにはいられなかったのだ。
そんな有り得ない可能性が今再び僕の目の前に現れた。仮定として考えていた事柄の多くは、見つめ直してみれば月行病というよりも鏡花と再び会えたならという惨めな縋りでしかなくて殆どが思い出の中に棄却することになったけれど、それでも全くその蓄えが無意味になったということでもなかった。
僕たちは学校を抜け出して、電車に揺られていた。県境を跨ぎ、中学生だった僕と鏡花が行くことが出来なかった遠くまで行こうとしている。
月行病は確認をされた数の少なさからその存在すらも疑われている。重力に逆らい、月へと浮かんでいくという症状のせいもあって、非科学的なファンタジー、オカルトとして捉えられることが殆どだ。それでも、その不可解さに魅入られて、あるいは神秘性に惹かれて、研究をする人間は存在する。
僕に出来ることは限られている。ならば、僕に出来ないことは、他者の力を借りるべきだ。ゆえに、月行病を研究している一人の学者とコンタクトを取り、話を聞くことにした。あくまでも、その人物が研究しているものは論理的な根拠の存在している科学ではなく、民俗学に寄ってしまっている以上明確な解決策を提示して貰えるという確証はないけれど、何も出来ずにいるままよりはましだ。
「悪い、付き合って貰って」
「なんで謝るの。これは元より私の問題だし、何より月行病の人間が居るって言ったんでしょ。それなら私が行くのが筋じゃない」
「それは、そうだけどさ」
ただ話を聞きたいと言って、受け入れられるかが分からなかった。高校生で月行病について興味があると言っても、思春期らしい未知のものに対する漠然とした野次馬根性だと疑われると思った。だから、月行病の当事者であるというカードを、僕は切った。
しかし、向こう方からしてみれば、月行病に罹患している本人というのは貴重なサンプルだと捉えることが出来る。芥生さんの踏み入られたくない領域に、無遠慮に踏み入られる可能性は十分にある。そのような危険な賭けであることは理解していて、だから初めは芥生さんを同行させるつもりはなかった。僕は月行病の人間に二度遭遇しているし、本格的な研究をしている人間と比べれば些末な知識量ではあるだろうけれど、芥生さんと比べれば恐らく僕の方が月行病について知っている。僕自身が、月行病に罹患しているのだと嘘を吐いて話を聞くと、そう想定しながら動いていた。
けれど、話を聞いた芥生さんは同行することを申し出た。彼女が大切に守り続けている日常を壊しかねないというリスクを承知したうえで、それでも自分が行くべきなのだと決断を下した。
何も言わずに向かうべきだったのかもしれない、と思う。しかし、時間は戻らず、不可逆的に進み続けている。悔悛に意味はなくて、僕はただ現れてしまった現状から、次に何をするべきかを考えることしか出来ない。
「私たちよりもずっと月行病について知ってる人の話を聞けるんだから、行くだけの価値はあるよ。もしかしたら、二人で考えてるだけじゃ全く思いつかなかったような解決策を教えてくれるかもしれないしさ」
それが限りなく夢想に近い希望であるということを、芥生さんもまた分かっているはずだし、僕も痛感していた。そんな機械仕掛けの神様のような、都合のいい特効薬が存在するほど、月行病という現象は単純なものではない。
それでも他に縋るものがないのだから、僕たちは向かう。僅かでも、そこにあるものに手を伸ばすために。そうでもしなければ、どれほど虚しくても希望すらも捨ててしまえば、僕たちは世界の中に佇むことに耐えられなくなってしまう。
電車が駅へと止まる。昼下がりという時間帯のせいも相まって、降りる人は居れども乗って来る人は居ない。車内は伽藍としていて、車輪が轍を踏む無機質な音だけがメトロノームのように周期的に響いている。
「君は、本当に今のままでいいのか?」
「今のままって?」
「時間は限られているだろ。何も、大層なことをしろって言いたいわけじゃない。こんなことに付き合わずに、今ある日常を大切にするべきなんじゃないのかってことだよ」
先日、芥生さんの友人と帰り道に話したことを思い出す。僕が芥生さんを支えるべきだという言葉を。そして、そこから僕が考えた、吐いた言葉を。
限りがあるならば、僕よりも彼女のような人と時間を過ごすべきだ。どうせ、ただ隣に居ても月行病に対する解決策が天啓のように降って湧いて来るというわけでもないのだから、今ある日常を大切にした方が良い。
思えば、僕は話をした彼女の名前すらも聞いていなかったらしい。名前を聞かなかったこと、聞かずとも知らずとも不自然に思わないこと。そういうささやかな人間的欠落の堆積が僕という欠陥製品を作り上げているのだろう。つくづく、嫌気が差す。
「月行病がなんとかなればそんなに焦る必要もなくなるでしょ。だからいいの」
「それは――」
楽観的という形容すらも生温い、ただの現実逃避ではないのかと言いそうになって、言葉を堰き止めた。時として、人を傷付けることになるのだとしても事実を告げる必要はある。けれど、告げてしまえば不可逆的に壊れてしまうというのであれば、噤む方が良い。人は真実の中に生きているのだ、事実が、現実が必ずしも正しく美しいものであるとは限らない。偽りの真実がなければならないというのであれば、そうした不純さも必要になる時が来るものだ。
しかし、芥生さんは僕の躊躇を見て、可笑しそうに笑った。
「冗談だよ。流石にそんな楽観的な考え方はしてないから。あと一カ月、じゃなくてもう二週間くらいだっけ。それくらいを期限だと考えて生きてる。だから、私は私なりに考えてここに来てるんだよ。心配しなくても、大丈夫」
彼女はいつも見せる、哀しさを携えた笑顔でそう言った。何度向けられても、この表情には慣れない。いや、慣れてしまってはならないのだろう。人が死と深く接している表情に何も思わなくなれば、それは人間として大切な部分が壊死してしまっている証明になる。僕は自らの人間としての不出来さを自覚しているからこそ、これ以上頽落するわけにはならないのだと願うのだ。
「もう時間がないからこそ、何かをしてないと頭がおかしくなりそうなんだ。だから正直なことを言うとさ、君と会うまで私、ほんとに狂いそうだったの。自分がこことは違うどこかに近付きつつあることは分かっていて、それなのに何も出来ずにただ時間だけが過ぎていくだけで」
そうは見えなかった、というより僕はそもそも彼女のことを見ていなかったのだろう。例えば、先日話をした彼女の友人はきっとそうした異変に気が付いていた。だからこそ、こんな不甲斐ない人間に頼み事までしたのだ。
「このままじゃきっと、なんて事のない風を取り繕うことすらも出来なくなるから、私は私に出来ることをしたいんだ。それが君に付いて行くだけだったとしてもさ」
「……なら、好きにすればいいと思うよ。それで後悔がないなら」
「うん、ないよ」
彼女は迷う様子もなく断定した。ならば、僕に止める権利も必要もない。それが彼女自身の幸せなのだとすれば、誰が否定することなど出来るのだろうか。
ただ、彼女を支えてくれと言っていた友人のことを思い出す。芥生結が生き続けることを疑わなかった、一人の少女のことを。ああ、とようやく僕は気が付く。どうして、出会ったばかりの少女の言葉に揺らいだのか。自分には関係のないことだと一蹴をすることが出来ずに、思考の隅に引っかかって緩やかな疼痛を覚え続けていたのか。
それは悲劇的な状況への感傷のような、チープで表層的な感情ではない。彼女は、僕と同じなのだ。取り残される人間であるという点で見れば、今の彼女と昔の僕は美しく重なる。
彼女のことを想ってくれている人が居るのだ。それならば、僕は言わなければいけない。過去の自分を救うためにも。
「君の時間は誰に侵されるでもない、君だけのものだ。好きに使えば良い。ただひとつだけ、覚えておいてくれないか」
「……何かな」
「誰にも告げずに去っていくという選択は、特別な時間を過ごそうとせずに当たり前の日常の中で消えていこうとする選択は、君にとっては良いものかもしれない。納得のいくものなのかもしれない。ただ、残された人間にとっては果てしなく残酷なものだ」
どのような事情があったかということは、残された者にとっては関係がない。失ってしまったならば、そこにはただ空漠が存在しているだけでどのような意味を付与したとしても価値はないのだから。
「……だから、言えってこと? あるいは、ここに来るべきじゃないって言いたいってこと?」
「違う。言っただろ、君の時間と選択は誰に侵されるべきでもなく君自身が選ぶことの出来るものだ。そこに善悪や正誤はなくて、好きなものを選べばいい」
ただ、と僕は言葉を区切る。
「君は知らなくちゃならないんだよ。自分の選択が、他人をどれだけ深く、どうしようもなく傷付けるのかってことをさ。他人を傷付けることは、何も特別なことじゃない。生きていれば誰にだってある、当たり前のことだ。だからせめて、自分がどれだけ相手に痛みを与えることになるのかを、知らなきゃいけないんだ」
最もグロテスクなことは、他者の痛みを知らずに、あるいは目を逸らしながら踏み躙っていくことだ。他者を蔑ろにするのであれば、踏み台にするのであれば、自らが何を傷付けることになるのかを知らなければならない。そして知ったうえで、それでも続けるのであれば誰にも止めることは出来ない。
「……それは、君が残されたことのある人間としての言葉なのかな」
「どうだろう。取り残された人間であるという事実はどうしたって僕と切り離して考えることは出来ないから、否定をすることは難しい。ただ、僕としてはもっと根本的に、僕の中に根差した倫理観みたいなものだと思ってる」
勿論、それすらも失ってしまったことに起因をするものなのかもしれない。けれど、自分と同じ哀しみを他人にも背負って欲しくないとでもいうような直截的な因果はそこには見えず、それは人を殺すべきではないとでもいうような、より本能的で説明のつかない願いだった。
芥生さんは「そう」と頷き、それから体重を背凭れに深く預ける。乗換を行う駅まではまだ少し距離があるけれど、それでも確かに近付きつつあるのだと、ドアの上に設置された電光掲示板に流れていく文字を見ながら思う。
「私はさ」と彼女が口を開いたのは二つ分の駅を沈黙のもとでやり過ごした後のことだった。
「私が行うことの、私が巻き込まれることの、結果と責任については理解してるつもりだった。でも多分、残される人の哀しみっていうのは私が理解したつもりになっているよりもずっと深く、凄惨なものなんだろうね」
「ああ」
僕が月へと誘われる苦痛を理解出来ないように、彼女もまた喪失の傷を理解することは出来ない。哀しみを共有出来ないように、痛みは決して共有出来ないのだから。
「それでも、私の選択は変わらない。どれだけの人をどれくらい傷付けることになるとしても、私は私のために足掻きたいし、憐れまれたくない」
「……なら、応援してるよ。君が君の選択を貫けることを」
「うん、応援しててね。一人じゃ挫けそうになるかもしれないからさ」
芥生結という人間は強い。僕の応援なんてくだらないものがなかったとしても、一人で背負っていけるのではないかと、そう思う。しかし、流れていく窓外を見つめる彼女の表情の中に諧謔的な色は見えず、戦争映画でも見るような、真剣な色を帯びていた。
彼女は僕に何を期待しているのだろうか。あるいは、僕ではなくてもいい、ただ誰かが隣に居るだけでいいのだろうか。後者であればいいと思う。誰でもない誰かになんて、なりたくない。その期待は僕には重たすぎる。背負ってしまえば、拉げて死んでしまいそうになるほどに。
会話は失われ、再び無機質な電車の走る音だけが反響する。いつの間にか、芥生さんとの間に存在する沈黙に慣れつつある自分が居ることに気が付いた。居心地の悪さや不快感はなく、ただそこには気兼ねのない静謐だけが存在している沈黙。
そうして捉えることが出来るようになったことを喜ぶべきなのか、哀しむべきなのか。今はまだ分からない。人は全てが終わった後でしか価値や意味を見出すことが出来ないのだから。
名状することの出来ない感情を抱いたまま、名状することの出来ない関係の僕たちは静かに電車に揺られていく。このまま、どこにも止まらずに電車は走り続けるのかもしれない、と考える。あらゆる問題は置いて行かれたままで、どこまでも進んで行く。そうだ、いっそのことこのまま果てしなく遠い場所へと行ってしまえばいい。カムパネルラとジョバンニが乗った、あの鉄道のように。
そんな願いが虚しい妄想だということは分かっている。鈍色をした冷たい車内アナウンスは目的地まで着実に近付きつつあることを僕に報せる。それでも今だけは、藍色をした幻想に浸らせてはくれないだろうか。そう思いながら、瞼を閉じた。
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