春の消息
14
微睡に浸かった怠さと虚しさを抱きながら、冬の最中に誤って目を醒ましてしまった熊のように、僕はベッドから起き上がる。
未だ冬の気配を僅かに残している春の朝は冷たい。ただ、身体の芯を撫でられるような冷たさは冬の残滓のせいだけではなくて、仄かに身体に残っている気がする彼女の体温のせいでもあるのだろう。あくまでも、気のせいだなんてことは分かり切っているのだけれども。
慣性で行うことが出来るようになった朝の支度を済ませて、制服に着替える。どれだけ気分が落ち込んでいても、身体が怠くても、始業式には行くべきだろう。これから一年、どうやって過ごすにしても、リズムを作ることが出来るのだから。
家を出て、学校へと向かう電車に乗った。殆どの時間帯において空席の方が目立つこの電車も、朝に限っては通勤するスーツ姿の社会人と雑多な制服姿の学生が入り混じり人で満杯になる。久しぶりの人混みと倦怠のせいで軽い目眩がしたけれど、ドアが閉まり、ゆったりとしたペースで動き始めるとそれも収まり始めた。
車窓の外では代り映えのない風景が溶けた油絵のようなぼんやりとした輪郭を伴いながら過ぎ去っていく。どこまでも自然が広がっているとも、見渡す限り灰色のコンクリートだらけとも言えない、中途半端な街。いつになればここは変わるんだろうか。変わるとすれば、それは発展なのだろうか、衰退なのだろうか。どうせ何も変わらないのだ、考えたとしても無駄だということは分かっていても、思考は空転した。
いつもの風景。変わらない、四月十一日。僕は香深に吐いた嘘を思い出す。ささやかな、しかし決定的な嘘を。
繰り返しのきっかけとなった後悔を、僕は未だ知らない。何をしたかったから、僕は今ここに居るのか。自らのレゾンデートルすら知らずに、再び永遠の中を漂っている。
確かに僕は香深に好きと伝えられなかったことを後悔していた。けれど、その後悔は繰り返しを続ける中で、彼女を突き放してから生まれたものであり、繰り返しの起因となった後悔ではない。
初めて彼女を見た時に漠然とした既視感を覚えたことは事実だった。けれど、それは夏の日に小山内先生と面談するため毎年訪れていた香深の横顔と重なったからに他ならない。
嘘を吐いたつもりはない。言葉の綾だ、と言ったら間違いなく香深は怒るだろう。ただ、香深が繰り返しから抜け出すにはあのタイミングしかないと思った。あれ以上あの時間に囚われ続ければ、きっと彼女は本当に抜け出せなくなっていた。異常に溺れ、そこに居ることこそが当然だと錯覚し、何をしてもここから動けなくなっていた。
自己犠牲を美徳だなんて思わない。誰だってご都合主義の大団円を望んでいる。誰も犠牲にならない美しい結末を選べるならば、僕だってそうした。けれど、そんなことは不可能なのだ。現実を生きている以上、僕たちは常に何かを犠牲にしなければ前へと進めない。僕が留まるだけでいいなら。香深をここから抜け出させることが出来るのであれば。迷う時間は必要なかった。
哀しみは僕だけのものではない。香深もまた、進んだ先の三月十日で哀しんでいて、その哀しみは僕が留まることを知らなかっただけにより残酷な形の哀しみなのだろう。
二度目だった。取り返しのつかないことを彼女にしたのは。そして二度目は、一度目のようにその虚を埋めて、取り繕うことが出来ない、絶対的な行いだった。
何をしても癒えることの出来ない傷を彼女に刻んでしまったことを申し訳ないと思う権利は、僕にはない。それは彼女を裏切ると決めた時に捨てなければならなかったから。あの行いに対して、後悔はない。
ただ、僕とは違う時間を生き始めた彼女の幸福を祈る権利くらいは、与えて貰えないだろうか。好きだった人の行き先を祈ることくらいは、せめて。
電車に詰まっていた人の流れが一気に放流し始めたことで、僕は電車が高校の最寄り駅に着いたことに気が付く。高校生が堰を切ったように下車するこの駅において発車するまでは多少の時間の余裕があるけれど、降り損ねないように急いで電車を降りて、人の流れのままに改札を抜ける。
友人と話しながら歩く者、恋人と肩を並べながら歩く者、ただ独りで歩く者。様々な形の青春が新たな一年の始まりに向けて進んでゆく。僕は、そのうちのどれなのだろうか。これ以上はないという青春を過ごした僕に、未だ青春の断片は残っているのだろうか。
人の波の間を通り抜けながら、高校へと向かう坂を上っていく。香深と付き合ってからは、いつも一緒に登校をしていたな、と思い、苦い感情がむわりと胸の中に広がる。僕の中には、香深との思い出が多すぎる。何をしても、どこを通っても、彼女のことが頭を過る。もう僕は一人で進まなければいけないのに。それを覚悟したうえで僕は彼女を裏切ったというのに。やけに重い足を引き摺るようにして一歩、また一歩と始まりの場所へと向かっていく。
足元を見ながら歩いていたせいで、校門に着いたことに気が付いたのは校門を丁度通り過ぎた後だった。地面が歩道から学校へと移ろって道が広がり、地面には桜で出来たまだら模様に美しく染められ、また僕が見ている間にも広がり続けていた。
顔を上げると、そこには桜がある。ずっと見ていた、あの桜が、今回もまた同じように花びらを散らしている。胸の中に湧いた何かを失っている感覚はいつかの繰り返しの中で出来た残滓なのだろうか。それとも香深を失った哀しみなのだろうか。
雪のように落ちてゆく花弁は、一枚一枚が香深との思い出のようだった。それが重力のままに不可逆的に地面に落ちてゆく度に、温かな鋭い痛みが身体に突き刺さる。
いつの間にか、僕は泣いていた。そうあるべきであったかのように静かに頬を伝った感触に手で触れて、ようやくそのことに気が付く。春がまた始まった。しかし、ひとつの春が終わったことも確かだった。その哀しみが、哀しみとしか言い表すことの出来ない心の嗚咽が、桜が散るように僕の中から流れ出てゆく。
不意に、ひとつの影が視界の端を掠めた。たったそれだけで、意識は一気に現実へと引き揚げられて、蹌踉めくようにその背中を追いかけてしまう。
けれど、彼女はもう振り返らない。時間に逆らうこともなく、ただ真っすぐと前へと進んで行く。僕はその背中に追いつくことが出来ない。声をかけることが出来ない。目前に居るその少女は、確かに香深由良だった。しかし、僕が恋していた、愛していた彼女とは決定的に違うのだ。
話したいことがあった。いや、話したいことなんて本当はなかったのかもしれない。ただ、どんなことでもいいから彼女と話がしたかった。それが例えあの永遠を共有していた香深由良ではなかったとしても、彼女の声が聞きたかった。彼女の目の中に映りたかった。
ただ、それらは全てもう無為なことだ。彼女は既に、彼女の道を歩み始めている。だから、声をかけることは出来なかった。
僕もまた、進まなければいけない。行く道の果てが見えなくても、嵐の中をゆかなくてはならない。
その道は果てしなく孤独なものだ。眩みそうなほどにどこまでも真っ黒で、頼りになるものはなにひとつない。
それでも僕には思い出があるから。僕の中にだけ存在する、異質で歪んでいて美しい青春があるから。
足を踏み出す。春嵐の中をゆく。僕もまた、いつか春の先にあるものに祈りながら。
永遠ノ春ノモトデ しがない @Johnsmithee
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