第16話 えぴろーぐ
初夏の日差しのなか草木の緑が映える皿屋敷の庭で、アジサイの花と花の間をモンシロチョウが一匹、ひらひらと懸命に羽を動かして飛びまわっている。
それを横目に、お菊はホースで水をまいていた。
日鷺院那乃を撃退してから五日が経っている。あれ以来、彼女がなにかをしてくることはなく、皿屋敷は平穏な日々のなかにあった。
お化け屋敷としては営業を禁止されたままなのだが、そもそも閑古鳥を鳴かせていた状態だったので、幸か不幸か、ほとんどかわりはなかった。
水滴をまとった草花が陽光に照ってキラキラと輝くなか、お菊の目の前でモンシロチョウが「お邪魔しました」と挨拶するかのように右往左往したのちさっていく。
「ちょいと、お菊」
不意に、背後の縁側からアヤメに声をかけられた。
「あたいの部屋にきておくれよ。みんなも集めてあるからさ」
ウキウキとした声でそう言ってくるアヤメの顔はにこやかだった。着物を着崩しているせいで谷間まで見えてしまっている胸もとに彼女は両手をあてて、そこになにかを大事そうに抱きしめていた。
「はい・・・」
なにやらご機嫌な様子のアヤメにお菊は返事をすると、鼻歌まじりでさっていく彼女の背中を見つめながら小首をかしげた。
「なにかいいことでもあったのかな、アヤメさん」
着物を新調した様子はないし、煙管や簪を買いかえたという話も聞かない。ヘアスタイルはいつもの日本髪のままでかえたようには見えず、ダイエットだって毎日失敗つづきだ。ようするに、アヤメがご機嫌になれる要素などなにひとつ思いあたらないのである。
「いけば、わかるのかな」
蛇口をひねって水をとめると、お菊は縁側に足をかけて居間に入り、そこからアヤメの部屋へむかった。
遊郭を模したアヤメの部屋には、すでにジーナ、助六、新三郎が横一列にならんで待機していた。部屋の上座にはアヤメがいて、煙管ももたずに、あいかわらずニコニコとした表情で胸もとに両手をそえ、そこになにかをかくしていた。
胡坐をかいているジーナの横に、お菊はそっと正座しながら小声でたずねた。
「なんです?」
「さあね。でもひとつたしかなのは、アヤメがああやってご機嫌なのは気味が悪いってこと。きっとよくない前兆よ」
「そ、そんな・・・」
またオーナーからイチャモンをつけられたのではないかと、お菊は急に不安になった。だが、それにしてはアヤメのニコニコ顔が腑に落ちず、結局のところ、お菊たちはアヤメが口をひらいてくれるのを辛抱強くまつしかなかった。
やがて、アヤメがニコニコしながら一同を見わたし、もったいぶるようなことを言いはじめた。
「ンフ~。あたいがなんでご機嫌なのか、わかるやつはいるかい?」
「ウザい。さっさと用件を言って。ゲームのなかでフレンドまたせてんだから」
この場にいるアヤメ以外のだれもが思っていることを、ジーナが穏やかな口調で代弁してくれた。
「しょうがないねえ。んじゃあ、あんたたちにも見せてやるとするかね」
そう言ってアヤメが畳の上に差しだしてきたのは、一枚の絵葉書だった。
そこには、青々と茂る木々の狭間で絹糸のように垂れた一本の滝が美しい、風景写真がプリントされていた。
緑の香りを運んでくる涼風と、滝壺で豪快に弾ける水の音が、この空間にいる者に深い安らぎをあたえてくれることだろう。そんなふうに想像できる絶景であった。
「へえ~。すてきな写真ですね」
お菊は正直な感想を述べながら絵葉書を手にとった。間近で写真の景色をしばらく堪能したのち、「それで、だれからのです?」と言いながら裏をめくって差出人を確認する。
が、そこに差出人の名前はなかった。
お菊は頭の上に「?」を浮かべながら文面に目を移した。
その途端、お菊の全身を電流が駆けめぐる。
そこには、でかでかとこう書かれていた。
〈無明、息災!〉
たったこれだけの短い一文。自分の名前と「無病息災」をかけた、くだらないダジャレ。しかも幼い子供が書いたような汚い字。それでもお菊には、見おぼえのある筆跡から、この一文がまぎれもなく無明の直筆だとわかった。
「無明さま・・・」
お菊は、愛しい人の名をささやくようにそうこぼし、宝物を抱きしめるように葉書を両手で胸におしあて、宙の一点を見つめて頬をゆるませながらポーっとなった。
「無明、息災」とは「無明は元気だ」という意味である。
三十年もの長きにわたってなにも報せてくれなかった彼への恨みは一瞬で消し飛び、彼が無事であることが知れたよろこびでお菊の心はたちまち満たされた。
「うそでしょ! 無明さまなの?」
お菊のささやきを聞いたジーナが飛び跳ねるように立ちあがり、お菊が胸に抱きしめている葉書に手をかけてきた。が、お菊は指にグッと力をこめてはなさない。
「ちょ・・・お菊! あたしにも見せてよ!」
「ダメです! これはたった今、わたしの宝物になりましたので!」
「はあ? ふざけないでよ! そんな勝手なこと、だれがゆるすってのよ!」
「だれのゆるしもいりません! なぜなら必然だからです!」
「わけわかんないこと言ってないで、よこしなさい!」
「あッ、やめてくださいッ、ジーナさん! 破れたらどうするんですか!」
「だったらはなしなさいよ!」
「そうだよ、お菊。独りじめはよくないよ?」
観音さまのようなニコニコ顔のアヤメが仲裁に入ってきたが、お菊はありがたがるどころか逆に怪しんだ。
「アヤメさんだって、ずっと抱きしめてたじゃないですか! だいたい、この葉書、いつ届いたんです?」
「・・・昨日」
『えええええええ!』
お菊とジーナが声をあわせておどろく。
お菊は頬をプクッとふくらませてアヤメを睨みつけた。
「わたしたちにすぐ言わないで、昨日、一日中、ずっとこれを抱きしめてたんですか?」
アヤメがニコニコ顔のまま、しれっとうなずく。
「無明さまからのお便りはないかと、毎朝、文字どおり首を長くして皿屋敷の郵便うけを覗いてた、あたいの特権だよ」
「そんなのずるいです! じゃあ、これはもう、わたしのものでいいですね!」
「なんでそうなんのよ! あたしなんか、まだ文面すら見てないんだからね! ほら、よこしなさい!」
「あああッ、やめてください! ひっぱらないでええェェェ!」
葉書一枚をめぐって争っている少女ふたりを、蛇の目傘と牡丹提灯がほのぼのと見守っていた。
「も~、子供みたいだな~」
「は、は、は。左様でござるな」
この日、皿屋敷には一日中、ジーナの怒号とお菊の悲鳴が響きわたっていた。
「菖蒲園ゆうえんち」の片隅に、閉鎖されたお化け屋敷がある。もとから閑古鳥を鳴かせていたので、来場者のほとんどが閉鎖されたことにも気づいていなかった。
だが、人間たちは知らない。
このお化け屋敷のお化けたちが実は本物で、彼女らが毎日を泣いたり、怒ったり、笑ったりして、人間とそうかわらない日々をおくっているのだということを・・・。
まれによくあるお化けの日常 寿屋なむ @kotoya_namu
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