第4話 小さな努力の積み重ねが、いつか大きな実りとなるのだ。

 夕食を終えた後、ヨアヒムはいつものように、リーシャに“宿題”を言いつけると書斎へと向かった。

 かつては師であるグラハムが使っていた書斎。

 ヨアヒムの記憶の中にあるそこは、乱雑に物が積み上げられて足の踏み場もなおような場所だった。だが今は綺麗に整理整頓されている。

 書架に並んだ古い書籍の独特な匂いだけがかつての名残を残している。

 きっとリーシャが片付けたんだろうことは想像に難くない。

 ヨアヒムが師と共にこの工房で過ごしていた頃は、ろくに部屋のものを触らせてもくれなかったのを思い出す。そう思うと師匠はリーシャには随分と甘かったのかも知れない。

 自分との扱いの違いが気にならないと言えば嘘になるが、師匠がリーシャを特に目をかけていたとしても不思議はないように思える。あの才能の塊のような妹弟子なら可愛がられても当然だ。そうヨアヒムも思うからだ。


 書斎机に向かい書き物をしていたヨアヒムは、いまごろ自室でヨアヒムが言いつけた宿題に取り組んでいるだろうリーシャに思いを馳せた。

 今日の宿題は刻印の書き写し、つまり師であるグラハムの残した刻印の図鑑を見ながらそれを紙に書き写すのだ。

 刻印のパターンやそこから伸びる根のようなマナ受容体の形状をイメージできるようになる事は、鑑定作業などを行う上で重要だ。多種多様な刻印の種類を覚える訓練でもある。

 ヨアヒムもグラハムに引き取られてすぐの頃にこの訓練を受けたことがある。

 根気と集中力を要する作業だ。ヨアヒム自身はそれを苦だと思ったことはなかったが、果たしてリーシャはどうだろうか。そんな事を考える。

 だがすぐに、何かに集中するとピンと立つ彼女の大きな耳を思い浮かべて、思わず頰を緩めた。

 知識欲旺盛なリーシャならこの宿題もきっと楽しんでいるに違いない。そんな確信めいた思いがある。


 工房の共同生活を始めてから、ヨアヒムとリーシャはいくつかルールを作った。

 その一つに"日が暮れたら仕事をしない"というものがある。

 工房は仕事場兼住居だ、その気になれば昼夜を問わず仕事をしていられる。

 マナを扱った作業にはそれなりの疲労を伴う。

 ヨアヒムはともかく成長期真っ只中のリーシャに無理は禁物だ。そんな思いから取り決めたルールだったから、当然のようにヨアヒムは自分を度外視するつもりだった。

 しかし、それは不公平だと主張するリーシャの粘りに折れて、二人とも夜は仕事をしないことになったのだ。


 代わりに、という訳でもないのだが、リーシャには寝るまでの間に時折“宿題”と称した自習の時間を設けることにした。

 それはヨアヒムが書斎にこもる口実だったのだが、知識欲旺盛な妹弟子は自分から次の課題を催促するようになった。それが今では日課のようになっている。


 少しこんを詰めすぎるところがあるのが心配のタネではあったが、打てば響くようなリーシャの成長は実に教え甲斐がある。

 今は後見人で指導教官の立場にもあるヨアヒムとしては、まったく兄弟子冥利に尽きると思う。


 ともかく、リーシャが“宿題”に没頭している間、ヨアヒムは書斎で作業をすることが多くなったのだ。もちろん仕事をするのは二人のルールに反するのでやらない。

 なら一体何をしているか? それは巷でもよく尋ねられる質問でもある。


 曰く、「魔法鍛冶師マギアスミスは普段何をしているのか?」


 答えは単純明快、「研究」である。

 何を研究するかは各々で千差万別だが、研究に精を出さない魔法鍛冶師マギアスミスはいない。

 なにせ長い間なんの成果も発表出来ず、ギルドに職務怠慢とみなされればその資格を失うことすらあるのだから。

 そんな訳でヨアヒムも研究に勤しんでいるのだ。成長目覚ましい妹弟子に触発されて、という事もある。

 ヨアヒムの研究テーマは「刻印の複製」についてだ。

 “親方マスター”になってからこのテーマですでに三度中間報告をあげたが、ギルドの評価はいずれも“可”だった。

 研究意義は認めるが成果不足。と、まぁそんなところだろう。

 理論自体は大方かたまってきているのだが、実証がまだ不十分--と言うよりはろくに出来ていない。

 そのための準備に手こずっているのだからそれ以前の問題だ。工房を持っていないというのも実証が進まない理由の一つだったがそれは解決を見た。あとは大量のサンプルが必要なのだが致命的に数が足りないのだ。


「やっぱりに行かなきゃダメかな」


 自分の書いた実証方法の手順書とにらめっこしながらも、ヨアヒムは唸るように独りごちる。

 上とはもちろん帰り路の塔の上層の事だ。

 工房のあるこの二層はすでに調べ尽くされて新たな発見は望みが薄い。

 少なくとも三層には行かなければサンプル--つまり刻印入りの魔法具の入手は難しいという事だ。

 ランプの明かりが照らす薄ぼんやりとした天井を眺めながら、ヨアヒムは一人思案に沈んだ。

 やがて、よし、と小さく決意を固めて手紙をしたためるべく羽ペンを取る。


 さて、まずはなんと書き出したもんか--。


 ヨアヒムがそう思案し始めたその時、書斎の扉がノックされた。

 扉を内から開けると、お茶の香りと共にリーシャが顔をのぞかせる。


「お茶を入れたんだけどどうかな? って」

「ありがとうリーシャ。宿題は終わった?」


 トレーに載せたティーセットを受け取って書斎のテーブルに運びながらヨアヒムはリーシャへと視線を向けた。


「じゃーん!」


 リーシャは手に持った紙の束を広げて見せる。

 手に持った紙の束には事細かく刻印のデザインが書き写されていた。


「うん、よく出来てる。頑張ったな」


 えへへ、と得意げな顔つきで微笑むリーシャに、思わずヨアヒムもつられて頬を緩めた。

 開け放った扉から居間の壁掛け時計が目に入る。時計の針は十一時を少し回った事を示していた。


「もうこんな時間か、そろそろ寝ないとな」

「ヨアヒムはまだ寝ないの?」


 リーシャは書斎のテーブルに目をやる。兄弟子の作業の進み具合が気になるようだ。


「あぁ手紙を書いてたんだ。ベアトリーチェさんにね。書き終わったら俺も寝るよ」

「何のお手紙?」

「それはまだ内緒。すぐにわかるよ。さぁ、先に寝てしまって。俺もすぐ行くから」


 両肩を抱いて回れ右させるヨアヒムに、リーシャは少し不満気な表情を見せたが、はぁい。と大人しく従った。

 また静かになった書斎で、リーシャの入れたお茶をすすりながらヨアヒムはテーブルに向かう。

 まずは時候の挨拶、それから--。ヨアヒムはペンでインク壺をコンコンとつつきながら目を閉じた。

 それから何度か小さく頷いて再びペンを取る。

 小さな虫の鳴く声と、羽ペンが紙を擦る音だけが書斎に響いていた。


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