第3話 風呂は身も心も洗い流してくれるのだ。

 鈍色に染まった空にゆらゆらと立ち上る白い湯気を、ヨアヒムはぼんやりと眺めていた。

 壁一枚隔てた浴室からは水の流れる音と、リーシャのご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。


 工房の壁には水を貯める金属製のタンクが二つある。

 一つは窯を備えていて湯を沸かすことができ、それぞれのタンクから伸びる管は壁の中を通って浴室に繋がっている。

 浴室の壁から突き出た管にはバルブが付いていて、湯と水をそれぞれ流したり止めたりできる構造だ。

 バルブの先には湯船があり、二つの管から流れ出す湯と水を混ぜて温度を調節する仕組みになっている。


 難点は水をいちいちタンクに汲み入れないといけない事だ。湯船を一杯にしようと思えば手桶で二十回は井戸とタンクを往復しなければならない。

 だが、自宅で入浴出来る設備がある事自体が贅沢なのだ。多少使い勝手に難があるぐらい、それこそ贅沢な悩みと言うものだろう。

 雨水を貯める仕組みを作れば良いのでは? あるいは近くの水路から水を引く仕組みを作れば水汲みの手間がないのでは?

 などと、ヨアヒムがとりとめのないことを考えていると、壁向こうからキュッキュッとバルブを閉める音が聞こえてくる。


「ヨアヒムーお湯溜まったよー」


 わかったよ。と言葉を返してヨアヒムは窯の火を落とした。代わりにタンクの側面に彫られた刻印に手を触れると、にわかに光を帯びたのは"保温"の刻印。これで沸かした湯がしばらくの間は冷めない。どうせなら"発熱"の刻印にしておけば火を炊く必要もないのに……と、ヨアヒムはいつも抱く感想をやはり今日も抱いたのだった。

 火の番から解放され、リーシャの湯浴みが終わるまで夕食の準備でも……と立ち上がったところで、唐突に磨りガラスのはまった窓が開く。


「ヨアヒム! あのいい匂いのやつ! 入れてもいい?」


 声につられてヨアヒムが目をやれば、壁のやや高い所にある窓から、タオルを頭に巻いただけのリーシャが顔を出している。

 いささか恥じらいの足りない妹弟子の振る舞いに、ヨアヒムは慌てて顔を背ける。

 リーシャの言う"いい匂いのやつ"と言うのは香油の事だ。

 孤児院で風呂を借りた時に使って以来、リーシャのお気に入りアイテムの一つになっているのだ。勧めてきたのがヘンリエッタだと言うのだから、人は見かけによらないと言うかなんと言うか。そんなふうに言ったら失礼かもしれないが。

 いや、そんな事よりもっと恥じらいを、とヨアヒムは口にしようとしたがやめておいた。

 変に意識しているように聞えるのではないか? そう思うと、なんだか憚られたのだ。

 ヨアヒムは取り敢えず平静を装って顔を背けたまま「好きなのを使えば良いよ」と返事をしておいた。

 やった! っと満面の笑みで顔を引っ込めたリーシャが湯船に香油を垂らしたのだろう。あたりには花の香りを煮詰めたような、甘い香りが立ち込める。

 女の子なんだなぁ、などと当たり前のことを考えながらヨアヒムは炊事場へと足を向けたのだ。




 お風呂上りのリーシャはご機嫌だった。

 埃っぽさから解放され、お日様の匂いがする肌着とスモックに着替えると心身ともにサッパリとしてすこぶる気分が良かった。

 風呂上がりの身体から漂うほのかな香油の 匂いも一層気分を盛り上げてくれる。

 リーシャの足元ではエンバがしきりに匂いを嗅いでは困惑したような顔を向ける。狼犬(ウルフハウンド)の鼻には香りが強すぎるらしく不評なのが残念だ。

 エンバを抱きしめた時にこの香りがしたら素敵なのになぁ、とリーシャは思う。だが、エンバにしてみれば良い迷惑だろう。

 背後から扉を隔てて水音が聞こえてくる。湯船にお湯が流れ込む音だ。

 よしっ、小さく意気込むとリーシャは軽快な足取りで炊事場に入った。


「あっ……」


 炊事場ではスープが食欲をそそる香りを放っていた。その隣でわずかに湯気を立ちのぼらせているのはパスタのソースらしい。あとはパスタを茹でるだけ、と言うところまで準備が終わってしまっている。


「むぅぅ……」


 リーシャはむくれ顔を作るはめになった。

 ヨアヒムの入浴中に夕食の準備を済ませておいたらきっと喜んでくれるだろう。そんなリーシャの目論見は脆くも崩れ去ってしまった。

 リーシャは兄弟子の準備の良さを少し恨めしく思った。

 リーシャの敬愛する兄弟子は効率だとか能率だとかを常に意識して行動するきらいがある。と言うよりは手持ち無沙汰になることが嫌いなのかもしれない。いつだってヨアヒムが一足先回りして準備してくれている。

 それ自体は感謝するべきなのだと頭では理解できる。もちろん、それがリーシャの為を思っての行動だということも。いつも何かしてもらうばかりで、何も返せないもどかしさが胸の片隅に居座り続けている。

 今のことにしたって、リーシャの目論見通りにことが進まなかったのはリーシャが長湯しすぎたせいだ。


「だってせっかくの香油入りのお風呂が勿体無いし……」


 と誰に伝えるわけでもなくリーシャは言い訳を口にする。

 手間のことを考えれば、湯船に湯を張るのはちょっとした贅沢だ。エッタに分けてもらった香油を使う機会をずっとうかがっていたこともある。ちょっと、いや大分浮かれてしまったってしょうがない。

 結果として決して短く無い時間、兄弟子に入浴の順番を待たせることになった。


 その手すきの時間にヨアヒムが夕食の用意を済ませてしまうことなど、その性格を鑑みればすぐに思い至ることのはずだ。

 それぐらいのことがわかる程度には、リーシャはヨアヒムを理解しているつもりだった。

 つまるところが、リーシャの計画の見通しが甘かったのだ。

 その不満をヨアヒムに向けること自体筋違いだということは言うまでもない。

 他にできることがありはしないかと思案を始めたリーシャの後ろで、浴室から勢いよく湯をかぶる水音が聞こえた。

 そういえば……と、リーシャは師匠が留守にする前のことに思いを巡らせた。


「お背中流してあげたら、師匠すごく喜んでたっけ……」


 そう口に出して思い浮かべた光景は、なんだかずいぶん昔の記憶のような気がして、リーシャは不思議な気分を味わった。


「ヨアヒムも喜んでくれるかな?」


 リーシャはポツリと独りごちる。

 思い立ったが早いか、リーシャはスモックを脱ぎ捨てるようにソファーに投げ出すと浴室の扉に手をかけた。だが、リーシャを首で追うエンバの怪訝な視線に気づいてふと手を止める。

 さすがにいきなり入るのはどうだろう? リーシャはしばし逡巡した後、小さく深呼吸してから扉越しに声をかける。


「ねぇ、ヨアヒム?」

「どうしたリーシャ? 晩御飯なら上がったら用意するから少し待っててくれ」


 恐る恐るかけたリーシャの声に、釈然としない返事が返ってくる。

 どうも夕食を催促しにきたと思われているらしいその答えに、リーシャは不満げな視線を浴室の扉へと向ける。


「そうじゃなくて! あのね、お背中流してあげようかと思って」

「……へ?」


 ゴホン、と小さく咳払いをすると気を取り直して扉越しにかけたリーシャの声に、僅かに間を空けて兄弟子の困惑した返答が返ってくる。


「だから、入るよ?」

「いやダメだ、背中ぐらい一人で流せるよ、大丈夫」


 ヨアヒムのそっけない返事が返ってくる。どうも雲行きがあやしい。またしてもリーシャの計画が崩れようとしている。だがここで引くわけにはいかない。


「遠慮しなくてもいいよ? お背中流すのリーシャうまいんだから!」

「いやいやいや、ダメだって! あぁそうだ! パスタを茹でなきゃいけないからお湯を沸かしてきてくれ」


 ヨアヒムはどうしても浴室に入れないつもりなのか、炊事場の用事をリーシャに言いつけた。その取って付けたとしか言いようの無い言い草に、リーシャはなんだか妙に腹が立った。


「そんなに嫌がらなくたっていいじゃない!」

「えぇ? なんで怒ってるんだよ!?」


 壁越しにますます困惑した言葉が返ってくるがもう知らない。


「お背中流してあげるったらっ!!」


 そういうが早いか、リーシャは勢いよく浴室のドアを開けはなつ。


「うわぁぁっ、ちょっと、えぇっ? なんでっ!?」


 腰掛けに座って髪を洗っている最中だったヨアヒムは、突然浴室に入ってきたリーシャにひとしきり驚いて見せたあと、なんともぎこちない動きで泡だらけの頭を湯船からすくった手桶で流すと、リーシャに背を向け押し黙ってしまった。

 その表情は読めない、怒っているようにも呆れているようにも思えた。

 もしかしたら恥ずかしかったのかも? そこに思い至るとなんだか急にリーシャも恥ずかしくなってくる。このままではお風呂に乱入した変な子だ。リーシャは焦りを覚えた。


「えっと……あの……ヨアヒム怒ってる?」


 気まずい沈黙に耐えかねて、リーシャはおずおずといった様子で切り出す。


「いや、そうじゃないけど、うん、まぁビックリした」


 ヨアヒムは居心地悪そうに天井を仰ぐと背を向けたまま返事をした。


「あの、あのね、師匠のね、お背中流してあげるとね? すごく喜んでくれたの。だからね? ヨアヒムも喜んでくれるんじゃないかってリーシャ、あの、その……」


 腹づもりを改めて口に出してみれば、なんて子供っぽいことを言ってるんだろうとリーシャは思った。

 最後の方は消え入りそうな声になってしまった。

 余計に恥ずかしくなって顔が熱くなるのが自分でもわかる。浴室に篭る湯気の熱気のせいだったら良いのに。

 居たたまれなさ極まるがリーシャはもう引き下がれないのだ。

 ここで何もせずにこのまま浴室を出てしまったら、ただヨアヒムの入浴を覗いただけになってしまう。それだけは避けなければならなかった。


「あの、だからね、背中を……あっ……」


 そう言って手桶を引き寄せてヨアヒムの広い背中に目をやった。そして気づく。

 石鹸の泡が流れ落ちていくヨアヒムの背中は古傷でいっぱいだった。

 みんな治って随分たった傷。ひときわ大きな、引き攣れのような傷が右肩から左の肩甲骨の下まで走っている。どうしても目を奪われてしまう。視線に気づいたのか、小さくため息をついたヨアヒムが落ち着いた声で話し始めた。


「小さい頃の傷なんだ。できれば見せたくなかったんだけど」

「まだ痛いの?」


 リーシャはその傷にそっと手を触れようとして躊躇った。


「もう痛くはないさ、随分古い傷だからね。ただ痕は消えなくて。ごめんな、見ていて気持ちのいいもんじゃないだろ?」


 穏やかな声で詫びる兄弟子は、この傷を自分に見せたくなかったのだと、リーシャはようやく理解した。


「そんなこと、無いよ……あの、ごめんなさい」

「謝るようなことじゃないさ」


 とヨアヒムが微笑んだ気がした。リーシャからはその表情は見えないままだったが。


「それより、いつになったら背中流してくれるんだ?」


 そう言われて、リーシャははたと当初の目的を思い出す。

 湯船から手桶にお湯をすくい手拭いを浸して軽く絞る。ほんのりハーブの匂いがする石鹸を泡立ててヨアヒムの背中をこすった。

 古傷にしみたりしないか最初はおっかなびっくりだったが「こうゆうのも悪くないな……」と呟いたヨアヒムの様子になんだか嬉しくなって背中を泡まみれにしてしまった。


「もうそれぐらいで良いんじゃないか?」


 もくもくと膨れ上がった泡の向こうでヨアヒムは肩を震わせている。どうも熱が入りすぎて上手く加減できてないらしい。


「じゃ、じゃぁ流しちゃうね」


 リーシャは手桶ですくった湯をヨアヒムの背にかけ流してゆく。泡立てすぎた泡を洗い流すのに何度も湯船から湯をすくう。

 そんなリーシャの様子をヨアヒムはクスクスと笑いながらも、最後までじっと待ってくれた。


「ありがとうリーシャ、少し湯船で温まったら出るから、先にパスタを茹でるお湯をわかしてきてくれないか?」


 綺麗さっぱり洗い流されると、ヨアヒムはやんわりと理由をつけて退室を促す。

 リーシャの前で立ち上がるには障りがあると言いたいのだと、わからないほど察しは悪くはない。リーシャはおとなしく従って浴室を後にした。

 喜んでもらおうと思って勇んで来たのに、なんだか迷惑をかけてしまったような気がする。

 ヨアヒムは笑っていた、だったらいいじゃないか。自分で思っていたよりは上手くできなかったけれど、リーシャの気持ちはきっと伝わった。

 リーシャはそう思うことにした。



 浴室を後にして炊事場に向かうと、リーシャは棚から小ぶりな寸胴鍋を取り出し水樽から水を移して火にかける。"発火石"の使い方は一緒に暮らし始めて最初に教わった、もうお手の物だ。

 湯気に揺らめく鍋の水面をぼんやりと眺める。どれぐらいそうしていただろう? 大きな鍋の水がふつふつと煮立ち始めた頃、背中から声が掛かった。


「スープも温め直さないとな」


 そう言って隣に立ったヨアヒムは片手に持ったタオルで頭をワシワシと拭きながら、もう一方の手で器用にスープ入った鍋を火にかけ直した。


「うん」


 炊事場に並んで鍋の前に立ち、しばしの沈黙が訪れる。

 ふつふつと湯の煮立つ音と、温められて再び立ち上る食欲をそそる香りが二人を包んでいく。

 ふふっ、と不意に隣の兄弟子が思い出したように小さく吹き出す。

 リーシャが不思議そうな視線を送るとヨアヒムはチラとこちらを見て、また鍋に視線を落とし穏やかに話し始める。


「いやなに、俺も初めて師匠の背中を流してやった時のことを思い出しちゃって」

「ヨアヒムも師匠の背中を?」

「あぁ、でも、力が弱いって言ってみたり、今度は強すぎるって言ってみたり。場所が違う、もっと上だ下だって注文が多くて」


 ヨアヒムは思いを巡らせるように、時折視線を天井に向けたりしながら乾燥パスタを鍋に放り込む。


「全然喜んでる風に見えなくてさ、喜んでもらえると思ったのに随分がっかりしたのを覚えてるよ」


 ヨアヒムが言わんとしている事がおぼろげに見えてくる。ヨアヒムの語る幼い頃の彼の姿が今のリーシャに重なっていく。

 気がつけばヨアヒムの穏やかな視線がリーシャに注がれていた。


「でも不思議なことにそれから湯船に湯を張った時は背中を流してくれって頼まれるようになったんだ。大して喜んでなかったのにどうして?ってその頃は思ったけど。今なら師匠の気持ちがわかる気がするよ」


 ヨアヒムは頭を拭いていたタオルを首にかけると、空いた手でリーシャの頭を撫でる。


「労ってくれようとしたんだよな、ありがとうリーシャ」

「うん」


 ヨアヒムはすごい、リーシャはそう思う。些細な心のつかえにも気づいてくれる。


「また今度もお願いしようかな。あ、でもいきなり入ってくるのはもう勘弁な?」


 そう言われて浴室でのやり取りを思い出すと、リーシャはまた顔が熱くなるのを感じた。ふと見上げれば少し意地悪そうな笑みを浮かべるヨアヒムの顔が目に映った。


「もぅ、そこは忘れてよっ」


 負けじとリーシャも態とらしく頰を膨らませて見せる。

 二人で顔を見合わせてひとしきり笑いあった頃、ちょうどパスタも茹で上がったようで、せわしなく夕食の用意を済ませた。

 今夜のメニューはトマトと蒸し鶏をハーブオイルで和えたパスタに黒麦パンとポタージュスープだ。

 テーブルクロスのシワを伸ばし、ヨアヒムが盛り付けた皿をリーシャが運んでテーブルに並べていく。エンバには味付けする前に取り避けた蒸し鶏を少し。最後にヨアヒムがグラスと水差しを持ってきて席に着く。


「さ、温かいうちに食べよう」

「うん!いただきます!」

「あぁ、いただきます」


 ヨアヒムはいつものヤアル族流の作法をとっている。リーシャも真似をしてみた。

 バタバタとして遅い夕食になってしまったが楽しい夕食になる、そんな予感がした。

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