第5話 夢

 愛果は見たことのない部屋に立っていた。

 七畳ほどの小さな居室。生活感はあるものの、整理整頓が行き届いた居心地のいい部屋だった。

 壁の一面には天井近くまである大きな本棚が設置されていた。そこには小説を中心に、様々な書籍が収められていた。一番上の段には、真崎が好きだと言っていた太宰治の作品が多数ある。

 ここは真崎の心の、一番深いところにある心象風景だ。偽らざる本音が形になっている場所だ。

 部屋の角にシングルのベッドがあり、そこに真崎が眠っていた。そしてその隣には、若い女性が真崎に寄り添うように眠っている。どこか儚い雰囲気のその女性は、真崎の部屋の仏壇に置かれていた写真に写っていた人物だった。

 きっと、亡くなってしまった真崎の恋人なのだろう。もしかしたら妻だったのかもしれない。いずれにせよ、真崎が心の奥底で思い続けている人物は、この女性なのだ。

 二人は安心しきった、幸せそうな寝顔で眠り続けていた。真崎は現在の姿だが、きっとここは、二人が一緒に住んでいた当時の部屋なのだろう。真崎の心は、今でも最愛の人との思い出に囚われている。

 愛果はそれほど大きくは落胆しなかった。わかりきっていたことだ。真崎の心の奥に自分がいるはずなどない。ただ、万が一、砂粒ほどの小さな可能性でも自分がそこにいる可能性があるのなら、そこに賭けて一応確認してみただけのことだ。

 七七子に乗せられた自分が馬鹿だった。結局のところ、心の底から私を愛してくれる人など、この世界のどこにも存在しない。誰の心にも、私はいない。

 永遠に、私は独りぼっちなんだ。

 もういい。ここを出て、七七子を殺そう。彼女のことは嫌いじゃなかったけど、もうどうでもいい。何もかもどうでもいい。校内の生徒も全部殺して、朝になったら保護者説明会のためにやってくる親たちも、教員も全部殺す。

 愛果は部屋の扉を開け、廊下に出た。廊下は妙に長く、壁には真崎のこれまでの人生の思い出の品が大量に飾られていた。大半が写真で、真崎の人生で重要な意味を持つ瞬間が、額に入れて飾られていた。他にも写真の合間に、好きな本や、テニスのラケット、愛用のスニーカー、くたびれたぬいぐるみなど様々なものが壁に貼りつけられていた。

 長く伸びた廊下の先に玄関ドアがある。あのドアを出れば、真崎の心から抜けて現実に戻る。

 愛果は俯いて廊下を歩いた。真崎の思い出の写真など見たくもない。見たって惨めな気持ちになるだけだ。

 だがふと、違和感を覚えた。視界の端の何かが意識に引っかかる。愛果は顔を上げ、横を見た。

 そこには、絵が飾られていた。花瓶に挿した一輪のガーベラが、誰もいない部屋の床に置かれている、どこか寂しい雰囲気の絵。

 それは愛果の絵だった。かつて美術部の活動中に描いたものだ。

そういえば以前、真崎はその絵が好きだと言ってくれていた。

 ただのお世辞だと思っていた。将来に悩む愛果を元気づけるために口にした、優しい嘘だと思っていた。

 だが、真崎はこの絵を、たくさんの大事な思い出と一緒に、心のなかにずっと飾ってくれていた。


「先生……」


 愛果は立ち止まったまま、孤独なガーベラの絵をいつまでも眺め続けた。



 愛果が目を瞑ってから、数分が経った。七七子は壁に背を預け、この機に乗じて体力の回復を図っていた。

 どうにか少しなら動けそうだ。だがもし、真崎の心を覗いた愛果に隙ができなければ、勝つことはできない。かなり分の悪い賭けだった。

 その時、閉じられた愛果の目の端から、静かに涙が零れた。

 七七子は震える足でなんとか立ち上がり、身構えた。

 動いた。どっちだ? 悪魔が弱る方向に働いたか?

 愛果がゆっくりと目を開いた。涙を拭い、未だ目を瞑ったままの真崎を見つめた。


「……先生、ごめんね」


 愛果は立ち上がり、制服の裾を持ち上げた。アスモデウスの紋章が描かれた腹が露わになる。

 そこに横一文字に走っている傷跡に、愛果は指をさし込んだ。苦悶の表情を浮かべ、呻き声を上げながら、その傷を開こうとしているようだった。


「い、一体、何を……」


 七七子はわけがわからず、数珠を手にその様子を見守った。

 傷が完全に開き、腹のなかから、アスモデウスの腕が震えながら出てきた。ずるずると腹から吐き出されるように全体が現れ、やがて床に落ちた。それと同時に、愛果の体がくずおれる。

 血まみれの腕は床に爪を立て、這って逃げようとしているようだった。

 七七子は急いで駆け寄り、最後の力を込めて、その腕を踏み潰した。腐った肉が潰れる嫌な感触と共に、腕は簡単にバラバラの肉片となった。それぞれの肉片は小さく震えたかと思うと、すぐに溶け、ただの茶色い液体となってしまった。

 突如、地震のように校舎全体が振動した。窓から差し込む夕日が少しずつ弱まっていく。やがて校舎の振動が治まるころ、窓の外は真夜中の闇に変わっていた。アスモデウスの結界が壊れたのだ。


「勝ったの……?」


 七七子は信じられない思いでそう呟いた。

 そうだ。それより、愛果はどうなった?

 愛果は床に仰向けになり、腹の傷口から大量の血を流していた。七七子は近寄ってしゃがみ込み、その傷を確認した。

 二十センチほどの長さのその傷は、奥に内臓が見えるほど深かった。素人が見たって、それはどう考えても致命傷だった。愛果の周囲に、瞬く間に血の池が広がっていく。

 愛果の顔には一切血の気がなかった。だが、その顔には微笑みが浮かんでいた。


「……ねえ、七七子ちゃん。私、もう、さみしくないよ」

「そう……。よかったね」


 七七子は愛果の手を握った。今から救急車を呼んでも間に合わないことはわかっていた。

 愛果は焦点の定まらない目で、真崎が座っている辺りを見た。真崎は椅子に座ったまま寝息を立てている。


「先生を起こそうか?」

「……ううん。いいの」


 愛果の目から、どんどん力が失われていくのがわかった。口をぱくぱく動かし、何かを喋ろうとしているようだが、なかなか声が出てこない。

 七七子は愛果の顔に耳を寄せた。


「……せん、せい。だいすき、だよ」


 消え入りそうな声でそう口にした直後、愛果の目から、完全に生命の光が消えた。

 七七子は泣き出しそうになるのを堪え、代わりに、愛果の手を両手で強く握った。


「……ねえ、先生の心の奥に、あなたはいたの?」


 七七子の問いは、空しく静寂に溶けていった。

 しばらくして、七七子は立ち上がろうとした。だが足に力が入らずその場に倒れてしまう。

 まだやるべきことはたくさんあるのに。真崎先生の状態を確認しなきゃいけないし、他の生徒たちがどうなったのかも見なきゃ。アスモデウスの残骸を処理しなきゃいけないし、救急車も呼ばなきゃいけないし、それから、それから──。

 七七子は愛果の横に倒れたまま、意識を失った。

 窓の外から満月の放つ青白い光が美術室に降り注ぎ、血だまりに倒れる愛果の亡骸と、傷だらけの七七子を照らしていた。

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