第4話 対決

 七七子は祖母の描かれたキャンバスに近づき、躊躇なくそれを倒した。肩にかけていた紐付きの発砲スチロールを床に置いて蓋を開ける。そこには赤や茶色の何かが大量に入ったビニール袋と、小さなペットボトルが入っていた。七七子はペットボトルを取り出して蓋を開け、なかの液体をキャンバスに振りかけた。灯油の臭いが周囲に立ち上る。続いて腰のポーチからライターを取り出し、灯油まみれのキャンバスに火を灯した。

 祖母の絵が、勢いよく燃え上がった。本物そっくりの顔が歪み、すぐに真っ黒に焦げて判別できなくなってしまった。


「あーあ。せっかく描いたのに」


 愛果がつまらなそうに言った。

 七七子は次に、発砲スチロールからビニール袋を取り出した。愛果は怪訝そうにその袋を見つめる。


「何をするつもりなの?」

「アスモデウス。正体がわかれば、お前と戦う術はある」


 縛っていた袋の口を開けると、強い生臭さが鼻をついた。そこには魚の内臓がたっぷり入っていた。青梅に移動する前、歌舞伎町の魚料理を取り扱う居酒屋に行き、譲ってもらったものだった。

 その袋いっぱいの内臓を、燃えるキャンバスの上にぶちまけた。灯油のお陰で火は消えず、燻された内臓の強烈な臭いが、美術室に広がる。


「『トビト書』によれば、お前は魚の心臓と肝臓と胆のうを燻した煙が苦手なんでしょう? もっとも、私にはそれらの選別ができないから、ここには内臓が全部入ってるけどね」


 愛果は目を見開き、歯を剥き出して七七子を睨んだ。部屋全体を震わせる、獣のような唸り声を上げている。

 次の瞬間、七七子は見えない力によって持ち上げられ、天井に叩きつけられた。そのまま三メートル以上の高さから床に落ち、胸を強打してしまう。これまでとは異なる方向に飛ばされたため全く受け身が取れなかった。痛みと衝撃で呼吸ができない。少し動くだけで肋骨に激痛が走った。骨折したのかもしれない。

 なんとか顔だけで愛果を見ると、腰を屈めて激しく咳き込んでいた。

 効いている。畳みかけるなら今しかない。

 激痛を堪え、喘ぎながらなんとか立ち上がる。脂汗が額から滴る。


「……お前は私を結界に閉じ込めたと思ってるだろうけど、それは違う。お前こそが、私の結界のなかにいるんだ」


 七七子は先日、校舎を取り囲むように、切り離した数珠を一粒ずつ地面に埋めていた。数珠が形作る円の内側は、経文を唱えれば結界となる。高校が怪異との戦場になる可能性が高いと踏み、先手を打っていた。

 七七子は深呼吸し、精神を集中させた。持って来ていた数珠を両手でこすり合わせ、じゃらじゃらと音を鳴らす。


「一の弓の、はじめをば、このところの神まで、請じ参らせさぶろうぞや。二の弓の、音声をば、村々神まで、請じ参らせさぶろうぞや。三の弓の、響きをば、日本が六十六ヵ国の数の垂迹からまで、請じ参らせさぶろうぞや」


 神々から力を借り、自分が持つ以上の神通力を発揮するための経文だった。祖母は経文と同じように弓の弦を鳴らしていたが、今は弓はないので数珠の音で代用する。

 窓がガタガタと揺れ、外の夕景が歪んだ。ところどころに、本来の深夜の闇が滲んで見える。アスモデウスの結界に綻びが生じている。

 愛果がなおさら強く咳き込んだ。咳をしたままよろめき、四つん這いになったかと思うと、大量の血を吐き出した。

 七七子は愛果に駆け寄り、その体を横から蹴った。床に仰向けに倒れた愛果に馬乗りになる。

 愛果の服を捲って腹部を露出させる。そこにはアスモデウスの紋章が、生々しい傷跡として残されている。異形の腕が入り込んだと思われる傷跡もある。

 七七子はその上に手を当て、再び経文を唱えた。愛果は苦しみ、白目を剥いて激しく手足をばたつかせた。小柄な愛果に似つかわしくない強い力だったが、なんとか振り落とされずに堪える。


「アスモデウス! 出て行きなさい!」


 魚の内臓と、結界が効いている今が最大のチャンスだ。ここで勝負を決めるしかない。

 全神経を手のひらに集中し、経文をもう一度唱える。

 愛果の腹のなかで、何かが蠢くのを感じた。腹の傷が、開きそうになっている。

 悪魔よ、ここにいると消滅するぞ。早く、ここから出てこい。

 七七子は強く、手のひらに力を込めた。

 次の瞬間、右肩に鋭い痛みを感じた。見るとそこに、カッターが突き刺さっていた。無表情の真崎がカッターを握ったまま七七子を見下ろしている。

 絶対に動くまいと七七子は歯を食いしばった。だが、真崎がさらに深くカッターを肩に押し込み、七七子は悲鳴を上げて転がるように愛果から離れてしまった。

 真崎は跪き、愛果を抱き起した。


「ありがとう、先生」


 愛果が真崎の首に手を回し、抱きつく。

 その後ろでは、キャンバスの火が消えかけていた。立ち上る煙もわずかになっている。本来ならば教室のなかにこれまで出た煙が充満するはずが、どういうわけかほとんど残らずに消えている。

 七七子は黒板下の壁に背を預け、その様子を茫然と見つめた。

 もうほとんど力が残されていなかった。神通力は消耗し、これ以上はあまり使えそうにない。肉体のダメージはもっと深刻だった。全身が痛み、眩暈がした。気を抜くと気絶してしまいそうだった。

 もう、できることは全てやった。全力を尽くした。

 やはり、これほどの強力な悪魔に、私が勝てるはずなんてなかったのだろうか。


「あなたの負けだね」


 真崎に肩を抱かれたまま、愛果が微笑した。そして、血だらけの口で真崎にキスをした。


「七七子ちゃんには、私たちの愛は引き裂けないよ」

「……愛? そうか。あなたは愛が欲しいんだ」


 七七子はそう言って笑った。その嘲るような笑いはどんどん大きくなり、静謐な美術室に響いた。


「何が可笑しいの?」

「可笑しいでしょ。だって、あなたは何でも思い通りにできるって言ってるけど、結局一番欲しいものは手に入ってないじゃない。その先生、別にあなたを愛してるわけじゃないでしょ。ただ操られて、あなたがして欲しい行動をとってるだけじゃん」

「……そんなことない。先生は私を愛している。だからこうして私を抱きしめてくれるし、キスもしてくれる。行動こそが愛なんだよ。人のために何ができるかが愛なんだよ」

「普通の人にとっては、そうかもね。でもあなたは違うでしょ。アスモデウスの力を手に入れて、人の心を覗くことができる。先生の心を覗いてみた? 先生の心の一番大事なところに、あなたはいた?」

「……そんなこと、する必要ない」

「そうだよね。だって見たら証明されちゃうもんね。先生はあなたのことなんて全く愛してないって。今私に偉そうに振舞っていても、本当は何も手に入れてないって」

「黙れ!」


 見えない強烈な力で、七七子は壁に押し付けられた。肺が圧迫され息ができない。内臓が破裂しそうになる。

 窒息ぎりぎりのところで力が止まり、七七子は床にくず折れた。目を見開いて口を大きく開け、必死で酸素を取り込む。


「勝てないからって、嫌がらせで意地の悪いことを言うのはやめて。いつでもあなたを殺せるんだよ、私は」


 呼吸を整えた七七子は怯まずに、愛果に語りかけた。


「……殺したければ、殺せばいい。でもきっと、私が言ったことをあなたは忘れられない。これから何をしようが、どれだけの人を支配しようが、心の片隅に残り続ける。愛する人に愛して欲しいっていう、自分自身の欲望からは、逃げることができないんだから」


 七七子は倒れたまま咳き込み、荒い息を吐いた。咳と同時に少量の血が口から出た。気道のどこかが傷ついたか、それとも折れた肋骨が肺に刺さっているのかもしれない。だが今は、自分の体などどうでもいい。

 七七子は愛果を睨みつけた。


「見てみなさいよ、先生の心を。それをしないと、あなたが本当に欲しいものは、決して手に入らないよ」


 愛果は沈黙し、七七子を見つめた。それから、すぐ近くにある真崎の目を見つめた。真崎は変わらぬ無表情で、愛果の顔の位置に視線を向けている。それは空っぽの、人形の目だった。

 七七子は床に倒れたまま祈った。お願い。頼むから挑発に乗ってきて。勝利への道は、もうこれしかない。真崎の心を覗き、そこにいるのは自分ではないと知れば、動揺した心に隙が生まれる。その隙を突くしか、もう手はない。


「……わかった」


 愛果はそう言って立ち上がった。真崎と手を繋いで歩き、手近な椅子に並んで座った。背の高い真崎の肩に、愛果は頭を預けた。

二人の背後の窓から、永遠の夕日が部屋に差し込んでいる。柔らかな緋色の光に包まれた愛果と真崎の姿が、一塊の影となって見えた。

 愛果と真崎が、同時に目を瞑った。

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