第3話 愛果

 河原から出た七七子は、真夜中の静かな田舎町を全力で駆けた。人通りはなく、車もほとんど通らない。夜の冷えた空気が肺に入り込み、七七子の体温で温まって大気に放出され、白い煙となって消えた。肩にかけた発砲スチロールの中身は重く、走る邪魔だったが、そうも言っていられない。

 高校の前まで辿り着いた七七子は、ここにアスモデウスがいると確信した。見た目はただの静まり返った夜の校舎だが、歌舞伎町で感じたあの気色の悪い気配が、建物から漏れ出ていた。

 明日は土曜日だが、事件の保護者説明会のために多くの人が校内にやって来るはずだ。その前に、絶対にケリをつけなければいけない。

 決意を固め、七七子は柵を乗り越え敷地に入った。

 校舎に近づくと、正面玄関は開いていた。当然、夜間は施錠されているはずなので、愛果が開けたということなのだろうか。

 校舎のなかは夜間照明が灯っているだけで薄暗く、その奥に何が待ち構えているのか、この場所からでは見えなかった。

 七七子は数珠を取り出し、警戒しながら校舎に一歩足を踏み入れた。その瞬間、我が目を疑った。

 そこは、夕方の校内だった。真夜中のはずなのに、窓からは夕日が差し込んでいる。しかも、外からは見えなかった生徒たちがいた。当たり前のように談笑しながら、帰宅するために靴を履き替えている。

 入って来た真後ろを振り返ると、暗かったはずの外の光景は、夕方の橙色の輝きに満ちていた。


「ねえ、ちょっと」


 近くにいる男子生徒に話しかけても、無視された。もう一度話しかけ、肩を揺すってみても、こちらを見もせず友達と冗談を言い合っている。

 これはどういうことだろう? 幻か、夢なのだろうか? 七七子はアスモデウスの能力で知らぬうちに夢を見させられる可能性を警戒し、感覚を研ぎ澄ましていたが、今のところ特に違和感はない。

 男子生徒に触れた感触は本物だった。本物の生徒が、校内にいると見た方がいいだろう。

 七七子は一度校舎から出ようとした。だが透明の壁があるかのように、開け放たれた扉から外に出ることができない。

 結界だ。この校舎はもう、アスモデウスの結界になってしまっているのだ。

 七七子は諦めて校内を進んだ。いずれにしろ、行くしかない。

 歩きながら、七七子はかなりの数の生徒とすれ違った。本当に放課後の校舎そのものだった。だが誰一人として、七七子とは視線が合わない。決められた行動をとるように催眠をかけられているのだろう。

 途中、松木ひかりとすれ違った。だがやはり、七七子が声をかけても一切反応が返ってこない。そのまま、どこかに歩み去ってしまった。

 これだけの数の人間を同時に操っている。七七子は改めて、アスモデウスの力の凄まじさを感じた。

 本当に、私なんかで勝てるのだろうか。振り払ったはずのそんな不安が、再び芽生えた。ネガティブな感情は怪異と戦う際に重い足かせとなる。それをわかっていながら、どうしても考えずにはいられなかった。

 しばらく進み、美術室に辿り着いた。引き戸を開け、なかに入る。

 美術室のなかにも、やはり夕日が差し込んでいた。まるで本物の夕日のような、温かく切ない光の粒子が、美術室を満たしていた。

 窓際の机に真崎が座っていた。アスモデウスに生気を吸われ、骨と皮だけになり瀕死だったはずなのに、普段と全く同じ健康的な姿に戻っていた。物憂げな表情で、本を読んでいる。


「あー。七七子ちゃん、来たんだ」


 愛果ののんびりとした声が聞こえた。

 美術室の真ん中に愛果はいた。制服姿で椅子に座り、大きなキャンバスに何か絵を描いている。七七子のいる位置からではキャンバスの裏しか見えない。


「よく私がここにいるってわかったね」

「美術室はあなたの特別な場所だって聞いていたから」

「そうだよ。夕方の美術室の、この雰囲気とこの匂いが、大好きなんだ」

「でも今のこの場所は本当じゃない。悪魔の結界のなかの、偽りの時間に固定されたまがいものでしかない」

「まがいものじゃないよ。この美術室に、私がいて、先生がいる。これこそが本物なんだよ」


 愛果はそう言って微笑んだ。これまでの愛果とは異なる、柔らかで、それでいて底知れなさを感じされる笑顔だった。


「……あなたは、須磨愛果なの? それともアスモデウスなの?」

「さあ、どうなんだろうね」


 愛果はのびのびとした動きでキャンバスに筆を走らせた。


「今ね、展覧会に出す絵を描いてるんだ。今回は『あこがれ』がテーマなんだよ。『あこがれ』を絵にするなんて、難しいでしょ? 私、どう描くのかずっと決められなくて迷ってたんだけど、やっとどんな絵を描くか決めたの」


 七七子は数珠を握り締め、愛果から目を離さないようにしながら窓際に移動した。読書をしている真崎の顔を横目に見る。

 やはり、普段の真崎そのものだった。あの骨と皮だけになった恐ろしい姿など、幻だったかのようだ。悪魔は生気を奪うこともできれば、与えることもできるのかもしれない。


「あんまり、私の先生に近づかないでくれる?」


 愛果がそう言った瞬間、七七子は車にぶつかられたような凄まじい力で弾き飛ばされた。黒板に激突し、床にくず折れる。歌舞伎町の地下室と同じ、念力のような攻撃だ。

 だが、すでに二度も同じ攻撃を食らっていたため、ぎりぎりのところで受け身をとることができた。元々痛んでいた箇所に追い打ちをかけられ、相当に痛んだが、根性ですぐに立ち上がる。

 大丈夫、戦える。体は付いていけるし、頭も冴えている。

 しかも、恐らくだが七七子に対し、アスモデウスは百パーセントの力を発揮できない。歌舞伎町の地下室で見た畑中乃亜の遺体は、体全体が潰れるほど凄まじい力で天井に押し付けられていたが、七七子がぶつけられた念力はそこまでのものではない。つまり本来の威力を発揮できていない。

 器となった愛果がブレーキをかけているのかもしれないし、七七子が身に纏う神通力がアスモデウスの力を阻害しているのかもしれない。あるいはその両方の可能性もある。


「……警告する。アスモデウス、その子を解放しなさい」

「解放って、もう無理だよ。私の体のなかに入っちゃってるんだから。七七子ちゃんだって、心臓を取り出せって言われても困るでしょ? それと同じだよ」


 愛果はそう言って自分の腹を撫でた。

 腹のなかに、あの腕が入り込んだのだろうか。


「悪魔は心臓じゃない。あなたを利用して滅ぼす、異物でしかない」

「またそれだ。七七子ちゃんの言うことって、私には息苦しいんだよね」


 愛果は絵を描く手を止めた。椅子を少し引いてキャンバスを眺め、満足そうに頷いた。


「できた! 七七子ちゃん、ちょっと見てみてよ」

「見ない。悪魔の描く絵に興味はない」

「酷いな―。描いたのは悪魔じゃなくて私だよ? 普通に、絵の率直な感想が聞きたいだけ。うんと悩んで決めた題材だから、七七子ちゃん的にはどうなのかなーと思ってさ。ちょっとでいいから、お願い」


 一体どういうつもりなのか。悪魔のペースに嵌っていいのだろうか。七七子は迷った末、警戒しながらゆっくりとキャンバスに近づき、一定の距離を保ちながらその絵を正面から見た。


「どうして……」


 思わず、七七子はそう声を漏らした。

 七七子の祖母、洞口アキが、大きなキャンバスいっぱいに描かれていた。いつも七七子に向けている厳しい眼差しも、真っ直ぐに伸びた姿勢も、本物の祖母そのものだった。

 描かれるはずのない絵を前に、七七子の全身から冷たい汗が噴き出した。

 まずい。記憶を読まれている。あんなに警戒していたのに、頭のなかに侵入されている。やはりこの悪魔、人の欲望にアクセスする能力が極めて高い。

 一体、どこまで思考を読まれた?

 険しい表情で立ち尽くす七七子を見て、愛果はクスクスと声を潜めて笑った。


「ごめん、これは私じゃなくて、七七子ちゃんの『あこがれ』だったね」


 愛果は立ち上がり、跳ねるような足取りで真崎に近づいた。愛果と七七子には無関心で本を読む真崎に後ろから抱きつき、無精ひげの生えた顔に頬ずりする。


「私の『あこがれ』は、こっち。でももう、わざわざ展覧会用の絵なんて描かなくていいんだ。だって、もう本物を手に入れたんだから」


 愛果に抱きつかれても、真崎は意に介さず本を読んでいた。校内にいた生徒たちと同じように、決められた行動をとるだけで自らの意識はないのだろう。


「ねえ先生、キスして」


 甘えた声で愛果にねだられた真崎は、無表情で愛果を抱き寄せ、キスをした。


「……ふざけるのもいい加減にして」


 七七子が苛立った声を出す。


「ふざけてないよ。私はただ、自分に素直になっただけ。これまでの私は、ずっと自分を偽ってた。怯えて、萎縮して、自分の願望をさらけ出すことなんて一切できなかった。唯一できたのは、怪しい薬を飲んで慰めの夢を見ることだけ。私だってわかってたんだよ? 都合のいい夢を見たって、それはなんの解決にもならないことくらい。わかっていても、弱い私はそこに逃げ込むしかなかった。でも今は違う。私は強くなった。今はもう、夢になんて頼らなくても、この力でなんでも思い通りにすることができる」

「私に言わせれば、悪魔から与えられた力なんて、それは都合のいい夢とほとんど変わらないよ。それはあなたを搾取するための餌に過ぎない。他者に危害を与える分、夢よりももっと悪質だよ」

「いいよね、七七子ちゃんは。自分に自信があるから、そうやって堂々と正論を言えるんだよ。教えてあげる。正論って、私たちみたいな弱い人間にとっては、暴力と同じなんだよ。言われれば言われるほど、苦しくなるんだよ。だから誰も、七七子ちゃんの言葉に耳を貸さないんだよ」


 真崎に抱きついたまま、愛果は冷たい視線を七七子に向けていた。

 愛果の言葉に七七子は動揺した。

 正論は暴力と同じ。それは七七子にとって思いもよらぬ価値観だった。

 確かに、これまで誰も七七子の説得に耳を貸さなかった。愛果だけでなく他の生徒たちも、すぐに逃げたり、怒ったりした。

 私の正論によってみんな傷ついていた? だからみんな、反抗的な態度をとっていた?

 人の弱みにつけ込む強力な怪異と戦うためには、自分のなかにブレない芯が必要だ。そのためには正しい自分である必要がある。正しい行動をとり続け、確固たる自信を築き上げる必要がある。

 だがそれを、いつの間にか他人にも求めるようになっていた。そしてその結果、却って怪異に有利に働いてしまった。


「やっと気づいた? 自分が間違っていたって」


 黙り込んだ七七子を見て、愛果は嬉しそうに口の端を持ち上げた。


「ううん、本当はもうとっくに気づいてたよね。自分が正しい人間じゃなく、私たちと同じ弱くて間違ってる人間だって。さっき私のこと他人に危害を加えるって言ってたけど、七七子ちゃんだって変わらないよね。七七子ちゃんが自分で怪異を倒そうとせずすぐに秋田のおばあちゃんに連絡してたら、こんなに人が死なずに済んだんだよ。乃亜ちゃんも含めたら、九人も死んでる。七七子ちゃんが、おばあちゃんに認められるために自分で解決することに執着したから、乃亜ちゃんも、脇本くんも、翔くんも、莉緒ちゃんも、みんなみんな死んじゃったんだよ。だから今こうなってるのは、私じゃなくて七七子ちゃんのせいだよね」


 七七子は唇を噛み、俯いた。それは考えないようにしていたことだった。今すぐに耳を塞ぎたかった。

 自分のせいで失われた命。自分がしっかりしていれば、いや、自分が弱さを受け入れてさえいれば救えたはずの命。たしかに、私が殺したようなものだ。

 こんな私に、愛果に言葉をかける資格があるのだろうか。悪魔を打ち倒し、愛果や他の生徒を救う資格があるのだろうか。

 後悔と自己否定に、心が支配されそうになる。涙が零れそうになり、顔を上げることができない。手足が震え、力が入らない。

 気付くと、愛果がすぐ近くに立っていた。七七子の顔に手を伸ばそうとしている。

 七七子は噛み千切るほどの強さで唇を噛んだ。その痛みを気つけとして頭の淀みを払い、愛果の手を撥ね退けた。後ろに飛び退き、愛果と距離をとる。

 ここは悪魔の結界のなか。隙を見せると、あっという間に心を支配される。


「わかってる。私は弱いし、間違ってる。後悔してるし、反省もしてる。でも今は、悔いるべき時じゃない」

「不誠実だね、七七子ちゃん」

「なんとでも言いなさい。私は悪魔を祓って、あなたを助ける」

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