第2話 正体
七七子が目を覚ました時、地下室に愛果の姿はなかった。
立ち上がろうとすると、背中に激痛が走った。かなり強く打撲しているようだが、骨は折れていない。どうにか動けそうだった。
コンクリートむき出しの床に、中年男の死体が転がっていた。背中の怪異が貼りついていた箇所は大きな傷になっている。死体は血まみれだが、それは天井に貼りつく肉塊となった乃亜から滴り落ちた血で、中年男自体は一滴の血も流していないようだった。とっくの昔に怪異に全てを吸い尽くされ、ただの人形となっていたのだろう。
床には、愛果が持ってきたリュックとナイフが落ちていた。ナイフは血に塗れている。
七七子は途中で気を失ってしまったが、あの後何が起きたのか、想像はついた。
恐らく、愛果は中年男の代わりに、あの怪異にとり憑かれてしまったのだろう。
あの怪異、あれは夢魔などと言う生易しい存在ではなかった。
あれは、「アスモデウス」だ。
愛果が自らの腹に刻んでいた紋章を見て気づいた。あれは、西洋魔術の紋章「シジル」で、悪魔アスモデウスを示すものだった。
七大悪魔の一人、アエーシュマの別の姿と言われるアスモデウスは、好色な悪魔として伝承されている。「トビト書」の記述では、かつてアスモデウスは若く美しいサラという娘にとり憑き、その美しさに魅了された七人もの男に嫁いだ。だが、その七人は全て、初夜を迎える前に死んでしまったという。
「夢の薬」という、誰かに愛されたいという願望につけ込む方法で人間を支配するやり口は、まさにアスモデウスらしい。
アスモデウスの姿は、人の体に、牛と人と羊の頭、毒蛇の尾、そしてガチョウの足を持つと言われる。ガチョウの足──愛果は「夢の薬」を服用後、鳥の足を吐いたと言っていた。それはガチョウの足だったのではないか。つまり愛果は、今日ここでとり憑かれる前から、アスモデウスと深い繋がりができていたのだろう。
もしかすると「夢の薬」は、生気を集めるためだけのものではなく、とり憑く対象の選別こそが最大の目的だったのかもしれない。
愛果は一人で何度かここに来ていると言っていた。その時にとり憑かれなかったのは、恐らく、まだアスモデウスに人を乗っ取るだけの力がなかったのだろう。少しずつ人間の生気を集め、力を蓄え、今日ようやく愛果の肉体を奪う準備が整った。真崎から奪った生気が、アスモデウス復活の最後のひと押しとなった。
だが、そもそも悪魔は実態を持たない。つまり、あの異形の腕のような、物質としての腕は存在しないはずだった。考えられるとするなら、あの腕はアスモデウスそのものの腕ではなく、かつてアスモデウスに取りつかれた人間の腕なのではないか。なんらかの理由で手に入れた人間の体を失い、干からびた腕だけとなったアスモデウスは、この歌舞伎町の地下深くで、長年復活の機会を窺っていたのかもしれない。
この地下室には、粘っこく纏わりつくような気色の悪い気配が充満している。悪臭も酷いが、その濃密な気配で気がおかしくなりそうだった。
七七子は吐き気を堪えながら、地下室から出て重い扉を閉めた。
地上に出るとまだ外は夜だった。雑居ビルの横を酔っぱらった女二人が笑いながら通り過ぎていく。
ポーチから取り出したスマホは画面が割れていた。故障はしておらず「21:22」と時刻が表示されている。二時間以上も気を失っていたらしい。
これからどうするべきか、七七子は必死に考えた。だがコンクリートに打ち付けた頭がガンガン痛んでおり、思考がまとまらない。考えを止めると、その空白に焦りと後悔と無力感が押し寄せてくる。
これではいけない。今は打ちのめされている場合じゃない。甘えている場合じゃない。自分にできることをするしかない。
とにかく、愛果を追わなくては。だが追おうにもどこに行けばいいのかわからない。解き放たれた悪魔は、一体どこを目指す?
七七子はスマホを見つめた。頼れる先は、一つしか思い浮かばなかった。
「洞口アキ」という連絡先に、七七子は電話をかけた。
お願い。おばあちゃん、出て。
七七子からの電話に、祖母はほとんど出てくれなかった。大好きな祖母から拒絶されることは七七子にとって辛かったが、そう思わせることこそ祖母の狙いだった。辛さに耐えかねて、ゴミソを目指すことを諦めさせるために。
一分近く鳴った呼び出し音が、止まった。
「お、おばあちゃん」
スマホを握る手に、思わず力が入る。
『……なした』
低く威圧的な声。祖母の声だ。
「おばあちゃん、ごめん。私、失敗しちゃった」
そう口にした瞬間、これまで七七子のなかで張りつめていた糸が、不意に緩んだ。涙がぼろぼろと零れ、だがそれが悔しくてすぐに拭う。鼻を啜る音が、もしかしたら電話越しに聞こえてしまったかもしれないと心配になった。
祖母は沈黙し、七七子が言葉を続けるのを待っていた。
七七子はこれまでの経緯を簡単に説明した。祖母は口を挟まず、叱責せず、最後まで聞いてくれた。
『だがら言ったべ。おめさは無理だって』
説明が終わると、祖母は先ほどよりなお低い声でそう言った。
「わかってる。私は実力に見合わない相手に手を出してしまった。反省してるよ。だからこうして助けを求めてるんじゃない」
『おめはなんにもわがってね。中途半端な実力と心で怪異さ向ぎあっても、結局周りの人だぢのごと危険にさらすだけだ。おめがさっさどオレさ電話してれば、こうはならねがった』
「電話したって、いつも出ないくせに……」
『何が言ったが?』
「なんでもない。とにかく、私はどうしたらいい? 教えてよ」
『明日は無理だばって、明後日だばオレが東京さ行げる。それまで何もすんな』
「はあっ!? それだと、おばあちゃんが来るまでに、もっと人が死ぬかもしれないじゃん! あれはすごい強力な力を持ってたよ。早く動かないと、間違いなくどんどん犠牲者が増える。今すぐ動けば、まだ間に合うかもしれない」
『次悪魔さ会えば、おめが殺されるど』
「……そうかもしれない。でもきっと、今あの悪魔の一番近くにいる祓う力を持つ人間は私だから、私がなんとかしないと。何があっても、最後まで戦うから」
スマホの向こうにいる祖母が大きなため息を吐くのがわかった。
『……ほんとにおめは、若げ時のオレさそっくりだ。なんにもわがってねのに、意欲だけはある。わがった。ただ言っておくばって、オレも悪魔と戦ったこどはね。だがら、今おめがら聞いた話から推理したこどを言っておぐ。恐らぐ、まだおめの友達は、完全に支配されだわけではねど思う』
「どうして、そんなことがわかるの?」
『それはな、まだおめが生ぎでるからだ。悪魔は人を操ってでもおめのこど殺したがってたべ? だば、おめが気絶してだ時なんて、一番のチャンスだったはずだべしゃ。でもおめは生ぎでる。それはつまり、悪魔がおめを殺したいという望みを叶えられねがったというこどだ。その友達の抵抗があったとしか考えられねな』
七七子は以前、リンチされていた時に体を張って助けてくれた愛果の姿を思い出した。
「でも、本当にそうなのかな。本来の力を取り戻したアスモデウスにとって私なんてとるに足らない存在だから、あえて殺すまでもなかったってことはない?」
『その可能性もある』
「何それ。適当なこと言わないでよ」
『適当なわげではね。結局、人ならざるものの考えでるこどなんて、オレだぢさはわがんねもんだ。一番可能性のありそうな推理を立でで、なんとかその時々で工夫しながら戦ってみるしかねんだ』
意外な言葉だった。長く最前線で戦ってきたヒーローのような祖母が、そんな曖昧な状態で悪霊や怪異と戦い続けてきたとは思わなかった。だが思えば、祖母はいつもボロボロだった。ボロボロになりながら必死で戦い、やっとの思いで、強力な相手に打ち勝ってきたのだろう。
今の七七子もボロボロだった。祖母と同じだ。そう思うと、力が湧いてきた。
電話を切る際、祖母は『死ぬんでねど』と言った。それは祖母からこれまで贈られたなかで、最大級の激励だった。
七七子は歩き出した。まだ体中が痛んでいたが、休んでいる暇はない。
歌舞伎町は時間が遅くなるにつれ活気を増していた。派手な格好をした人々が、ジャージを地下水で濡らし、額から血を流している七七子のことを好奇の目で見ていた。
「ねえ、大丈夫?」
声をかけてきたのは、一人の少女だった。恐らく七七子と同じくらいの年齢で、缶チューハイをストローで飲んでいた。
「男に殴られたの?」
「違う。ちょっと転んだの」
少女は心配そうに七七子を見ていた。男女トラブルだと思っているのだろう。
「あなたこそ、こんな時間にこんなところ出歩いてて危険でしょ。早く帰りなさい」
「別に、歌舞伎町では普通だよ。大体あなたも同じくらいの年じゃん」
それもそうだ、と七七子は反省した。
「そうだね、余計なお世話だった。それより、聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「この辺に、魚屋ってある?」
不思議そうな顔をする少女の足元を、一匹のドブネズミが駆け抜けていった。
七七子は歌舞伎町で入手した紐付きの発砲スチロールを肩にかけ、夜更けの病院を訪ねた。
地域では大型の総合病院で、七七子は来たことはないが存在は知っていた。この病院に、真崎は搬送されたはずだった。
タクシーで病院前に到着してすぐに、何か事件が起きていると気づいた。
パトカーが四台停まっている。メインの入口近くでは、警官と病院関係者らしき数人が、物々しい雰囲気で話をしていた。七七子はこっそりと可能な限り近づき、車の陰に隠れて会話を盗み聞きした。
「だから、何度も言ってるでしょう!」
医師らしき中年の男が大声を上げた。興奮しているようだ。
「突然、手術室に女の子が入って来たんですよ! そしたら看護師たちが次々に倒れて……。私も気づいたら気絶してて、目が覚めたら患者が居なくなってたんです! こんな嘘、つくわけがないでしょう!」
叫ぶ医師のことを警官たちは宥めていた。七七子は気づかれないようにその場を離れた。
予想通り、愛果はここに来たようだった。もし愛果の意識、もしくはアスモデウスが支配しているとしても愛果の性質が残っているのなら、きっと真崎のことを求めるはずだと思った。愛果から、「夢の薬」を使って真崎との夢を見ていると聞いていたことが奏功した。
だが、ここからはどうする? 七七子は病院から離れながら頭を捻った。
愛果は最も欲しいものを手に入れた。次は真崎と、夢のなかでしか体験できなかったような時間を、現実に過ごすつもりなのかもしれない。
病院にはアスモデウスの気配は残っていなかった。一体、どこに行った? 愛果の家だろうか? だがそれは違う気がした。
七七子は愛果について、松木ひかりに可能な限り話を聞いていた。絵のモデルになってもいいと言うと、ひかりは喜んで様々なことを話してくれた。人物、家族構成、趣味趣向、悩み、最近の行動など、どこかに怪異特定のヒントがあるかもしれないからだ。
そのなかで、愛果はどうやら親との折り合いがよくないらしいと聞いた。真崎を伴った状態で、わざわざ自宅には向かわない気がする。
ではどこか。ひかりはこうも言っていた。「愛果ちゃん、部活が好きなんだよね」と。
美術部顧問である真崎と過ごすことができる部活でのひと時を愛果は大事にしていた。愛果にとって、美術室は特別な場所だ。
考えられるとしたら、もうそこしかない。
ここから高校まで、そう遠くはない。走れば十分かからずに着くだろう。
だが七七子は少しだけ、寄り道をすることにした。
高校までの最短ルートを逸れ、七七子はすぐ近くの多摩川に向かった。途中、通りかかった民家の庭先に置いてあるバケツを勝手に借りた。返せば問題ない。
藪を抜けて河原に下りる。当然街灯はないが、想像以上に明るかった。
空を見上げると、満月が輝いていた。月の冷たい明かりが、多摩川を照らしていた。
七七子は靴を脱ぎ、続いてジャージを脱いで下着姿になった。川を渡って吹き付ける冷風が、容赦なく体温を奪う。体感だが、気温は三、四度くらいだろうか。寒さに強い七七子でも、全身に鳥肌が立った。
バケツを手に、七七子は多摩川に入った。膝丈くらいの水深で立ち止まると、バケツに川の水を汲む。何度か深呼吸し、精神を整えると、その水を一気に頭から被った。氷のように冷たく、心臓が止まりそうになる。
だが七七子はその後も繰り返し、頭から水を被った。そのうち、まだ残っていた怯えと不安が消えていくのを感じた。寒さを感じなくなり、体内から生命力の火が燃え上がってきた。
心身の穢れが、水垢離で祓われていく。精神が針のように研ぎ澄まされ、五感が鋭敏になっていく。
七七子は川から上がるとウエストポーチから取り出したハンカチで体を拭いた。無論ハンカチ程度では全身の水滴は拭ききれず、髪から水を滴らせたまま七七子はジャージを着た。そもそも、このジャージだって濡れているのだからあまり関係ないだろう。
これで、今できる限りの準備は整った。
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