第5話 魔

 中央線の車窓を流れる空の色が、橙色から濃紺へと徐々に変わってきた。愛果はそれをぼんやり見ながら、電車の揺れに合わせて小柄な体を揺らしていた。

 愛果の隣には七七子が座っている。身長差は十五センチ以上あるのに、座ってみるとそこまでの差はない。それだけ七七子の足が長いということなのだろう。

 七七子はまるで体の中心に木の柱が入っているかのような姿勢で座席に座り、生真面目な表情で前を見つめている。スマホを見たりは一切していない。

 電車に乗り込んでから、二人はずっと無言だった。ただ並んで座り、それぞれの物思いに耽っていた。愛果は時々涙を流してはそれを拭い、深呼吸をしてなんとか心を落ち着かせた。

 真崎はひとまず死んではいない。すぐアパートに救急車を呼び、救急隊員に真崎を引き渡した。搬送されていく姿を見守ると、警察が到着する前に逃げるようにその場を離れた。

 井沼木工所に戻ると、そこには乃亜の姿はなかった。あの異形の腕を七七子から隠すために歌舞伎町に向かったのではないかと愛果は思った。それを七七子に伝えると、「すぐ追いかけましょう」と言われ、そのまま駅に向かったのだった。

 ホームで電車を待つ間、愛果は七七子に知りうる情報を全て話した。乃亜から薬を買ったこと。薬を飲むと見る夢。吐き出した鳥の足。歌舞伎町の地下で見た、男の背中から生えた不気味な腕。

 七七子は少し考え、「たぶん、夢魔だと思う」と答えた。


「夢魔って?」

「夢魔は悪魔の一種。別名のサキュバスとかインキュバスとかの方が有名かもしれない。サキュバスは女の姿をして男の夢に現れて誘惑し、インキュバスは男の姿をして女の夢に現れて誘惑する。そして夢のなかで相手を虜にして、精神を蝕んだり、命を奪うこともある。眠っている人に干渉する怪異だと、他にも獏とか山地乳とか色々あるけど、聞いた話から推測する限りでは、この怪異の正体は夢魔の可能性が一番高いように思う」


 サキュバスなら、愛果も知っている。以前読んだ漫画に、サキュバスのキャラクターが出ていた。男を誘惑するセクシーで可愛らしいキャラクターで、あの不気味な腕とは似ても似つかない。あの夢のなかで会う真崎は、その夢魔が化けた姿だというのだろうか。


「もしかしたらその腕は、夢魔の腕なのかもしれない。力を失っていて、自力で人の夢に入り込むことができないから、その『夢の薬』を介して人の精力を集めたのかも。ただ、あなたが吐いた鳥の足ってのがよくわからないけど……。何にせよ夢魔なら、そんなに高位な怪異じゃないから私でも祓えると思う。だから安心して」


 そう言った七七子の表情は、言葉とは裏腹に緊張して見えた。

 電車が発車して五十分あまり、七七子は一言も発していない。愛果から話すこともなかった。愛果の精神は未だ混乱と後悔の渦中にあったし、それに先ほど刺し殺そうとした相手に、軽々しく話しかけるわけにもいかない。

 車内アナウンスが、次は中野であることを告げた。


「……私の家、中野なんだ」


 ぽつりと、独り言のように七七子が言った。あまりに唐突だったので、愛果は自分に向けられた言葉だと理解するのに少し時間がかかった。


「……えっと、え? まさか中野から通ってるの?」

「うん」

「ええっ? 遠くない? うちの高校までだとかなりかかるでしょ」

「一時間半くらいかな」


 愛果なんて、自転車で十分の距離だ。


「なんで? 中野だったら、あんな高校まで行かなくても近くに良いとこいっぱいありそうだけど」

「そう? うちの高校、良いと思うけどな」

「どこが? 偏差値も高くないし、周りになんもないし」

「山があるじゃん。目の前が山なんて、最高だよ。山は良いんだよ。精神を高められるし、色々な力を貰えるから」

「もしかして、山が近いからうちの高校通ってるの?」

「そうだよ。家の近くの高校なんて、全然面白くないし」


 やっぱり、変わっている。愛果からすると、都心に近い中野に住んでいて、都会の女子高生ライフを満喫できるほうが、よっぽど羨ましい。


「私、休みの日も青梅に行ってるんだよ。山の中走ったり、瞑想したりしてる」

「それは……修行的なこと?」


「そう。でも、正式に教わったわけじゃないから我流なんだよね。私、おばあちゃんが秋田で祈祷師やってるんだ。私もおばあちゃんみたいになりたいんだけど、おばあちゃんからは拒否されてて、なんにも教えてくれない。だから自分で知識と力をつけるしかない。私だってやれるんだってことを、おばあちゃんに証明したいんだ」


 愛果は今ようやく、七七子のことを少し理解できた気がした。七七子は愛果たちを救いたいとずっと口にしていたが、結局は自分のためなのだ。もちろん救いたいという気持ちも嘘ではないのだろうが、それ以上に、秋田の祖母に自分の力を見せつけたいのだろう。

 それを知っても、愛果は嫌な気持ちにはならなかった。むしろ安心し、親近感を感じていた。超人的な存在だと思っていた七七子も、愛果と同じ悩める普通の人間なのだ。願いに振り回され、それを叶えたいと藻掻く弱い少女なのだ。

 誰もが、欲しいものを手に入れられずに苦しんでいる。傍から見ると恵まれているように見える人だって、その内には人知れぬ苦しみを抱いている。まるで人は、苦しむことが定められているのではないかとすら思えてくる。

 電車の窓から見える若い夜空に、小さな星が瞬いているように見えた。だがそのか細い輝きは、都市の明かりの前ではあまりにも無力で、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。



 初めて来た夜の歌舞伎町は、昼とは全く違う活気を見せていた。金曜の夜ということもあって、人が多く、喧しく、誰もが少なからず興奮しているように見えた。水商売風の人々や、堅気に見えないような人種が明らかに増えていることも、雰囲気が変わった大きな要因だろう。欲望の街歌舞伎町の、本来の姿がこれなのだ。

 七七子を案内するため、愛果は先に立って進んだ。だが七七子が付いて来ていないことに気づき、引き返す。七七子は深刻な表情で歌舞伎町の入口に立ち尽くしていた。


「どうしたの?」

「何、この街」


 近くで見ると、七七子の顔色は血の気が引いて真っ青だ。


「どういうこと?」

「ここ、変だよ。普通じゃない。気持ち悪い……」


 吐きそうなのか、七七子は口元に手を当てた。しかしすぐに頬を両手でぴしゃりと叩くと、「行こう」と言って大股に歩き出した。愛果は慌てて付いて行く。

 人ごみを抜け、七七子を例の古い雑居ビルまで案内する。七七子は腰のポーチから、今度は特殊警棒ではなく数珠を取り出した。

 電灯の切れかけた通用口を通り、階段を下りて、地下の機械室に入る。大型の機械の横を通って最も奥まった場所に進むと、そこにはコンクリートの床に嵌められた四角い鉄板、秘密の地下室へと通ずる入口がある。


「あ、開いてる……」


 金属性の四角い板は、すでに開いていた。なかからかすかに悪臭が立ち上ってきている。


「やっぱり、乃亜ちゃん先に来てたんだ」

「行きましょう」


 七七子は屹然と言ったが、歌舞伎町に入ってからずっと、その顔は死人のように真っ青なままだった。

 愛果が先に地下通路への梯子を下りた。地下室の分厚い扉は閉まっている。梯子を下りた七七子が愛果の隣に立つ。通路はかなり狭いため、愛果と七七子の肩が触れた。


「この先が、そうだよ」

「……わかってる。感じるから」


 七七子は手に持った数珠を強く握り締めていた。

 愛果は頷き、ドアノブに手をかけた。やはり、鍵は開いている。ゆっくりと愛果が力を込めると、錆びついた重い扉が軋みながら開いた。

 乃亜がいきなり襲い掛かって来るかもしれないので、愛果は少しだけ開け、なかを窺った。部屋の中央にはやはり椅子があり、いつものように上半身裸の男が座っている。乃亜の姿は見えない。

 完全に扉を開け、二人は地下室に入った。むせそうなほどの悪臭と、高い湿度。天井から滴る地下水。意識なく椅子に座る中年の男と、その背中から生えるブヨブヨした赤黒い腕。


「乃亜ちゃん、どこに行ったんだろう?」


 愛果はきょろきょろと、いるはずの乃亜の姿を探した。隠れられるところなどほとんどないのに、全く見当たらない。もう外に出たのだろうか。

 もしかすると、愛果と七七子をここに誘い込み、閉じ込めるつもりではないか。愛果はその恐ろしい可能性に気が付き、急いで七七子を振り返った。

 すると、七七子が無言で天井を指差した。愛果はその示された場所を見る。

 天井のコンクリートに、人の形をした肉塊が貼りついていた。その肉塊は、見慣れた紫色のパーカーを着ていた。

 何か強烈な力で天井に押し付けられたのか、まるで車にひかれてアスファルトに貼りつく蛙のように、全身の肉が潰れた状態で貼りついている。手足はあらぬ方向を向いて骨が飛び出し、頭蓋骨が砕けて脳のようなものが零れ、目玉が飛び出している。天井から滴っていたのは地下水ではなく、乃亜の血液だった。

 愛果は言葉を失い、茫然とその光景を見つめた。

 どうして? これはどういうことなの? 愛果には状況を理解することができなかった。


「下がって!」


 突然、七七子が叫んだ。

 半裸の男が、立ち上がっていた。虚ろな目をしたまま、ぎこちない緩慢な動きで、愛果たちの方に歩いてくる。乃亜の血が天井から、半裸の男に降り注いだ。

 七七子が数珠を握った手を擦り合わせ、歌うように呪文を唱え始めた。


「一の弓の、はじめをば、このところの神まで、請じ参らせ……」


 そこまで唱えたところで、七七子の体が横に吹き飛んだ。コンクリートの壁に激突し、地下水の溜まった床に落下する。かなりの衝撃だったため、呻き声をあげてうずくまっている。

 愛果は恐怖で身動きができなかった。そんな愛果に、半裸の男は虚ろな目をしたまま近づいてくる。ただ、体が上手く動かせないらしく、その進みは極めて遅い。

 今のうちになんとかしなければ。なんとか。

 愛果は震える体をやっとの思いで動かして部屋の端まで後ずさり、リュックを開けた。なかに仕舞っていたナイフを取り出し、構える。

 荒い息を吐きながら、愛果は半裸の男が近づいてくるのを待った。

 ここまで来たら、思い切り刺してやる。黙ってやられたりはしない。お前のせいで、先生はあんなことになったんだ。先生だけじゃない。莉緒ちゃんだって、他のみんなだって、「夢の薬」の誘惑がなければ今も普段のまま生きていられたはずなのに。

 七七子を横目で見ると、ちょうど体を起こしたところだった。額に大きな擦り傷ができている。

 顔を上げた七七子は、驚愕の表情で愛果を見た。


「……何を、しているの?」

「え?」


 愛果はその言葉がどういう意味なのか理解できなかった。

 ふと、愛果は違和感を覚えて下を見た。

 愛果の手が、愛果の意思に反して勝手に動いていた。腹の部分の服を切り裂き、露出した腹部をナイフで切り刻んでいる。

 いや、違う。切り刻んでいるのではない。愛果の腹をキャンバスに、何か絵のようなものを描いているようだった。

 二重の円のなかに、曲がりくねった複雑な文様があった。円のなかにはアルファベットも描かれているが、愛果からはよく読み取れない。

 愛果はこのような絵は知らなかった。自分の知らないものを、自分の手が、ナイフの切っ先で腹に勝手に描いている。


「夢魔じゃ、ない……」


 その文様を見た七七子が、震える声で言った。

 愛果は恐怖で足から力が抜け、その場にへたり込んだ。

 気付けば、半裸の男が愛果の目前まで迫っていた。上半身は乃亜の血に塗れ、口からは涎を垂らしている。


「逃げて!」


 七七子が悲鳴に近い叫び声を上げた。

 突然、半裸の男は糸が切れた人形のようにその場に倒れた。うつ伏せに倒れたため、背中の異形の腕が天井に向かって立っている。

 ブヨブヨと肥えた、剥き出しの肉のような色をした気味の悪い腕。爪が伸びた指には力がなく、だらんと垂れ下がっている。

 その指が、ピクピクと動いた。動きは徐々に大きくなり、一本一本が別々の意思を持っているようにでたらめに動いている。

 愛果の腕はまだ忙しなく腹に文様を刻んでいる。流れ出す愛果の血が腹部を真っ赤に染めあげ、もはや何が描かれているのかはっきり見えない。

 七七子が立ち上がり、こちらに向かって来るのが視界の端に見えた。だが再び見えない力で吹き飛ばされて壁に激突し、そのまま動かなくなった。

 異形の腕の動きが止まった。かと思うと、人差し指を真っ直ぐに伸ばし、愛果を指差した。

 それを合図に、愛果の手が、腹部の文様の上にナイフを深く突き立てた。まるで切腹のように、自らの腹に長い切れ目を入れる。

 痛みは全くない。ただ腹が引っ張られるような感触があるだけだった。

 半裸の男の背中から、ぶちぶちという肉が裂ける音がしたかと思うと、異形の腕が背中から離れた。手首から先の動きで床を這い、愛果の元へと向かって来る。

 逃げ出したいのに、体の自由が利かない。気絶しそうなほど恐ろしいのに、目の前の光景から目を逸らすことができない。

 異形の腕が愛果の元までたどり着き、体をよじ登って、腹に開いた傷に指先を突っ込んだ。ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、という肉を掻き分ける音と共に、どんどん深くまで入り込み、やがて完全になかに入ってしまった。

 意識が遠のいていく。周りの景色が曖昧になり、一つに混ざって真っ黒になる。

腹のなかから、痺れるような甘い感覚が全身に行き渡る。

誰かの声が聞こえる。七七子の声だろうか。

 男のような、女のようなその声は、ありがとう、と言っているようだった。

 ありがとう、ありがとう、ありがとう。

 何が、ありがとうなの?

 そう問い返そうと思っていたのに、愛果の意識はどんどん小さくなり、まるで穴のなかに吸い込まれるように消えてしまった。

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