第3話 愛

 莉緒が亡くなったことで、謎の死を遂げた生徒の数は八人になった。これまで学校側は大事にならないよう慎重に動いていたが、さすがに限界のようで、その翌日からようやく休校となった。遅すぎるくらいだ、と愛果は思った。

 本格的に警察の捜査も入ることになるらしい。メディアにも伝わり、全国ニュースでも東京都青梅市の高校で不審死が多発していると報道された。今週末には保護者への説明会もあるとのことだった。

 しばらく休校になるらしいと、愛果は両親それぞれに報告した。父は「わかった」と一言言うだけだった。母は少し嬉しそうに「じゃあ、晩御飯毎日お願いしてもいい?」と言った。

 二人とも、愛果を気遣うような言葉は一言もなかった。

 乃亜は「夢の薬」の販売をしばらく休止すると連絡してきた。今動くのはさすがに危険だと判断したのだろう。

 だが愛果の薬の採取の仕事に関しては、引き続き行うように指示された。薬のストックはいくらでも作っておきたいとのことだった。あの場所に行かなければいけないことは残念だったが、同時に、商売が止まっている間も愛果は「夢の薬」を入手し続けられるということなので、安心感もあった。

 今では愛果は、二日に一回は「夢の薬」を使うようになっていた。これがない日は、眠ることも難しくなっていた。

 最近はどれだけ薬を使っても、それ以上痩せたり体調が悪くなることはなかった。むしろ少し肉がつき、肌艶も元に戻ってきていた。恐らく、体が薬に慣れてきたのだろう。食欲が全然戻っていないことを考えると不思議ではあったが、それほど気にはならなかった。

 休校三日目の夕方、愛果はベッドの上で瞼をゆっくり開いた。

 今日は初めて、昼から「夢の薬」を使ってしまった。莉緒のことを考えると苦しくなり、その苦しみから逃れるために、真崎に抱き締めてもらいたかった。

 夢のなかの真崎は、今日も優しかった。莉緒が亡くなったことに責任を感じる愛果のことを抱き締め、「須磨は何も悪くない」と言ってくれた。

 そうだ。私は悪くない。あの時、あの場所で、ボロボロの彼女に薬を渡さずにいることは、そちらの方がむしろ悪なのではないか。莉緒は死んだが、きっと幸せな気持ちのまま死んだはずだ。

 愛果は立ち上がり、机の引き出しを開け、シャチのキーホルダーを取り出した。今では、本物の真崎との繋がりを感じられるのは、このキーホルダーを見ている時だけだ。

 手のひらに乗せたシャチを見ていると、涙が溢れてきた。真崎に会いたかった。美術室の窓から差し込む夕日を浴びながら、静かに読書をする横顔を見たかった。ぞんざいなようで優しさに満ちた、あの声を聞きたかった。ついさっきまで夢のなかで会っていたのに、それでもやっぱり、本物の真崎に会いたかった。

 どうして人は、それぞれの孤独を抱えて、こんなに苦しまなければいけないのだろうか。こんなに苦しいのに、それでも誰かを求めることをやめられないのはなぜなのだろうか。愛とは一体なんなのだろうか。

 その時、外で車の音がした。母が仕事から帰って来たのだ。

 涙を拭い、一階に下りて行くと、ちょうど母が玄関から入って来るところだった。


「あれ? 晩御飯まだ作ってないの?」

「ごめん、さっきまで寝てたから」

「はあー。羨ましいねー。休校満喫しちゃってんじゃん。別に昼寝はいいけどさあ、やることはやってもらわないと困るよ。あんただって家族の一員なんだから」

「ねえ、お母さん」


 ウォーターサーバーの水を飲んでいる母の背中に愛果は声をかけた。


「何?」

「お母さんって、お父さんのことを愛していたから結婚したんだよね」


 母はむせて何度か咳き込んだ。眉をひそめて愛果を見る。


「何あんた? どうしたの?」

「別に。ちょっと気になったから」

「ふうん、変なの。まあ、あんたもようやく、そういうことが気になるようになったってことかな」


 母はダイニングの椅子に座り、袋入りのナッツを頬張りながら話した。


「愛してたからというか、今まで言ってなかったけど、ぶっちゃけ私たちデキ婚なんだよね」

「……えっ。そう、なんだ」

「まあ、デキ婚なんて、普通だよ? 大学の友達との飲み会に、たまたまあいつが来ててさ。友達の友達って感じ? 今まで私の周りにいたことないタイプだったから、面白く感じたんだよね。それでなんか、その場はすごい盛り上がっちゃって。で、気が付いた時には、あんたを妊娠してたってわけ。おろそうかなーとも思ったんだけど、これも運命かなって、若かったしノリで産んだんだよね」


 ボリボリと、母がナッツを咀嚼する音がダイニングに響いた。その音は、愛果の精神を少しずつ削っていった。


「でも、時々思うんだ。あの時、あんたができなくて、あいつと結婚しなかったらどんな人生だったのかなって。もっと明るくて素敵な男と結婚して、私らしい楽しい家庭を築いていたのかなって……」


 そこまで話して、母はハッとしたように愛果の顔を見た。それから、取り繕うように笑顔を作った。


「でももちろん、愛果が産まれてくれて、私は幸せだよ。私は愛果のことが大好きだからね」

「……私も、お母さんが大好き」


 愛果は努めて自然に聞こえるように、その台詞を口にした。

 廊下に出て、ゆっくり歩いて部屋に戻るつもりが、気づくと階段を駆け上がっていた。自室に飛び込み、ドアを閉めて鍵をかけると、そのまま床にくず折れた。

 口に手を当て、声が下まで聞こえないようにしながら嗚咽を漏らした。

 この家に愛なんてない。微塵もない。私が産まれた理由に愛はないし、今、ここにいる私に対しても、お母さんは愛情を感じてなんかいない。それどころか、後悔している。生まれてこなければ良かったと、ずっと思っていた。

 私は、生まれてきてはいけない存在だった。

 呼吸が上手くできない。過呼吸になりかけていた。

 愛果はドアノブを掴みながら立ち上がり、よろめきながら机に向かった。引き出しを開け、中身を乱暴に掻き分ける。その衝撃でシャチのキーホルダーが床に落ちたが、愛果は気が付かない。引き出しの一番奥に隠していた「夢の薬」を掴み、蓋を開ける。

 とろみのある液体を、一気に喉の奥に流し込む。一日に二度、薬を使うのは初めてのことだったが、そんなことには気が回らなかった。

 とにかく今すぐ、夢のなかに逃げたかった。逃げなければ、そのまま死んでしまいそうだった。

 ベッドに寝転び、誰か助けて、と小さな声で言った次の瞬間には、愛果は夢の世界に落ちていた。


 夢のなかには、一切の不安がなかった。あるのは真崎の体の温もりと、うっとりするような匂いと、囁かれる思いやりに満ちた言葉だけだった。真崎はなんでも、愛果が欲しい言葉を言ってくれた。

 冷たく、痛みに満ちた現実世界と違い、ここには全てがある。愛果の欲しい全てが。

 誰がこれを否定できるというのだろう。誰にこれを奪う権利があると言うのだろう。

 私たちには、やっぱりこの場所が必要なんだ。


 目を覚ますと時計は夜の九時を示していた。

 そういえば、晩御飯、どうなっただろう。母は一人で食べたのだろうか。

 ぼんやりしていると、突然、猛烈な吐き気がこみ上げてきた。薬の副作用だろうが、久々のことだった。

 急いでベッドを下りる。前回吐いた時に、またこうなってもいいようにバケツを用意しておいた。

 バケツに顔を突っ込み、勢いよく嘔吐する。何も食べていないから、食べ物は出てこない。

 代わりに吐き出されたのは、鳥の足だった。オレンジ色の、指の間に膜がある鳥の足。それが何本も何本も、こみ上げる吐き気の度に、真っ赤な血と一緒に吐き出される。

 何本も何本も何本も、次々に喉の奥から出てくる鳥の足を、止めることができない。

 無数の鳥の足がバケツに半分ほど溜まるころ、ようやく吐き気がなくなった。当然胃のなかにこれだけのものが入っていたわけがない。そもそもこの血も、愛果の血液なのだろうか。この鳥の足と一緒に、どこか別の場所からやってきたのではないか。

愛果は荒い息を吐きながら、血の中に沈む大量の鳥の足を見つめる。


「……気持ち悪い」


 その言葉は、不気味な鳥の足に対してであり、こんなものを吐く自分に対してのものでもあった。

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