第2話 莉緒

 愛果が「井沼木工所」の入口を開けると、木の匂いが充満する作業場に数人の人影があった。

 乃亜が奥に置かれた椅子に腰かけ、その近くに翔が立っていた。翔は最後に見た時よりもさらに痩せ、毛髪の量も減り、ほとんど骸骨のような見た目になっていた。

ほかには、作業場のそれぞれ離れた場所に、莉緒と、美術部の先輩である幾人が立っていた。

 愛果は幾人を見て驚いた。ここにいるということは、幾人も「夢の薬」を使っているのだろう。いつも漫画やアニメの話ばかりで、現実の人間への興味を示したことがないので意外だった。

 しかしもうここでは「夢の薬」の売買はしないはずだ。一体、なんの集まりなのだろうか。


「あーっ、やっと来た。遅いよ愛果ちゃん」

「どうしたの? 何かあった?」

「これからさあ、面白いことするんだよ」


 乃亜はニタニタ笑いながら言った。


「いいから、早く売ってよ。こんなに待たせてどういうつもり?」


 莉緒がイライラした様子で言った。莉緒もまた、薬の副作用で大分痩せていた。


「そうだよ。僕だって忙しいんだけど。そもそも最近全然売ってくれないじゃん。お金なら払うって言うのにさ」


 幾人もぶつぶつと不満を口にした。

今日は土曜日だが、莉緒と幾人は学校の制服を着ていた。もしかしたら乃亜の指定なのかもしれない。

 乃亜は鞄から小瓶を取り出し、二人に見えるように差し出した。


「売ってあげるよ。ただし、今日売るのは一本だけ。今からお前ら二人には、この『夢の薬』を奪い合ってもらうから。何をしてもいいよ、殴っても、蹴っても、噛みついても、なんでもアリ! 勝った方が薬を手に入れる、ルール無用のサバイバルゲームだから!」


 乃亜は心底楽しそうにそう言うと、立ち上がって莉緒と幾人の中間の位置に「夢の薬」を置いた。


「よーい、はじめ!」


 誰の意見も聞かぬまま、一方的に乃亜は宣言した。

 莉緒と幾人は、困惑した表情でお互い見つめ合い、やがて剥き出しのコンクリートに置かれた小瓶に目を向けた。


「……なんで私がそんなことしなくちゃいけないの? いい加減にしてよ」

「うちが冗談で言ってると思ってる? お前ら二人とも、わかってるよね? うちに逆らったら、二度と薬が手に入らないよ」


 莉緒はその言葉に明らかに動揺した。困惑した表情で、幾人の顔と「夢の薬」を何度も交互に見た。一方の幾人は、目を細めて「夢の薬」を見つめ、他の人には聞こえない小さな声で何かをつぶやいている。

 これは、さすがに止めなければいけない。愛果は乃亜に抗議しようと、口を開きかけた。だがその瞬間、乃亜が叫んだ。


「早く、やれよ!」


 先に動いたのは、幾人だった。コンクリートを蹴って三メートル先の小瓶に飛びつこうとしたが、足元のおがくずを踏んで滑り、前のめりに転んでしまう。その隙に、莉緒が急いで小瓶に近寄って拾いあげ、高く掲げた。


「取った! 私の勝ち!」


 莉緒は嬉しそうに乃亜を見たが、乃亜は無表情のまま何も返事をしなかった。

 困惑する莉緒に、立ち上がった幾人が掴みかかった。薬を奪おうとする幾人と、奪われまいとする莉緒がもみ合う。幾人は小柄なので莉緒の方が背が高いが、力はほぼ互角だった。

 愛果は争う二人を避けて乃亜のもとに駆け寄った。


「ねえ、なんでこんなことするの? やめさせなよ」

「どうして? めっちゃ面白いじゃん。ほらっ、行けっ、もっとやれっ」


 乃亜は格闘技の試合でも観戦しているかのように、楽しそうに囃し立てている。


「面白くないよ。可哀そうでしょ? 薬なら私が今日持ってきたものがあるんだし、二人に売ってあげなよ」

「あのさあ、それを決めるのはうちでしょ? ちょっと仕事を手伝ってるからって、勘違いしないでよ」

「でも、これはさすがに酷いんじゃない」

「……愛果ちゃんさあ、今さらいい子ぶるのやめてくれない? もう愛果ちゃんはこの薬を売ってる側の人間なんだよ? この薬を使ったら最後どうなるのか、知ってるでしょ。つまり愛果ちゃんはもう、人を殺しているのと一緒なんだよ」


 頭を殴られたような衝撃が愛果を襲った。それは考えもしなかったことだった。

 だが、言われてみればその通りだ。使えば最終的に死んでしまう薬の生産に、愛果も関わっている。それはつまり、間接的に自分が誰かの死に関わっているということだ。自分の欲望を満たすことしか考えず、その行為がもたらす悲劇的な結果には一切目を向けなかった。

 確かに乃亜の言う通りかもしれない。今、目の前で起きていることに意見する資格なんて、もう自分にはないのかもしれない。

 莉緒の悲鳴がして、愛果は我に返った。幾人が莉緒に馬乗りになり、顔を何度も殴りつけている。幾人の顔には爪による引っかき傷があり、そこから血が出ていた。興奮した幾人の目は見開き、充血している。

 莉緒からの抵抗がなくなったことに気がつき、幾人は立ち上がった。握り締めた手のなかには、「夢の薬」が入った小瓶があった。莉緒は腕で顔を庇い、体を丸めて震えている。


「やったね! おめでとう! いやあ、めっちゃ楽しかったあ」


 乃亜だけがただ一人、手を叩いて嬉しそうにはしゃいでいた。乃亜の横に立つ翔は終始無表情で、骸骨のマネキンなのかと思ってしまうほどだった。

 幾人は一万円を乃亜に渡し、興奮冷めやらぬ様子で木工所を出て行った。

 乃亜は床に寝転んだまま体を丸めている莉緒に近づき、その頭を靴先で小突いた。


「おい、いつまでそうしてんの。同情して薬を貰えると思ったら大間違いなんだけど。見苦しいからさっさと立てよ」


 乃亜に腕を引っ張られ、立ち上がった莉緒の姿は無残なものだった。制服は砂埃とおがくずで汚れ、顔には痣ができ、鼻血を流している。髪は乱れ、目は真っ赤で、涙で化粧が崩れていた。

スクールカーストの上位に君臨し、校内で我が物顔に振舞っている片桐莉緒と同一人物とはとても思えなかった。

 乃亜はその姿を写真に撮り、心底愉快という様子で腹を抱えて笑った。


「来週も、またチャレンジしてよ。うちはいつでも歓迎だからさ。ね、莉緒ちゃん」


 莉緒は返事をせず、項垂れたまま木工所を出て行った。

 愛果はたまらず、その後を追いかけた。後ろから声をかけても、一切反応せず莉緒は歩いて行く。走って追いついた愛果は、仕事の報酬として乃亜から渡されていた「夢の薬」の小瓶を一本、莉緒に差し出した。


「ねえ、これ、あげる。私の分を勝手にあげるだけだから、乃亜ちゃんも怒らないと思う」


 莉緒はそれをぼんやり眺め、やがて泣き出した。うずくまり、顔を手で覆って、声を上げて泣いた。まるで小学生の少女のような、幼い泣き声だった。

 愛果は莉緒を近くの公園に誘い、ベンチに座らせた。顔の血と汚れをティッシュで拭いてから、自動販売機で温かいミルクティーを二つ買い、一つを莉緒に渡した。


「ありがとう」


 莉緒はいくらか落ち着きを取り戻したようだった。

 缶を開け、ミルクティーを飲む。砂糖とミルクの甘みが舌に広がり、紅茶らしい香りが鼻を抜けていく。久しぶりに、美味しい、という感覚を感じた。

 ベンチに腰かけたまま、二人は無言でミルクティーを飲んだ。そもそも、学校でもほとんど会話をしたことがないので、何を話したらいいのか愛果はわからなかった。

 十一月の風は冷たく、中身の少なくなった缶から、瞬く間に温もりを奪っていった。


「……私、お兄ちゃんがいるんだ」


 莉緒がぽつりと、話し始めた。


「お兄ちゃんはすごく頭が良くて、いつも成績が一番だった。パパもママも、そんなお兄ちゃんが自慢で、私は小さいころからずっと、お兄ちゃんと比較されてきた。でも、私って全然頭が良くないから、本当に必死で勉強しないと、成績上位になれないんだよね。高校も、本当はもっと偏差値の高いとこに行けって言われてたのに、試験当日にプレシャーで体調が悪くなっちゃって、落ちて今の高校に入ったんだ。あの時のパパのがっかりした顔、今でも忘れられない」


 莉緒は俯いてそう言った。


「『なんで莉緒はお兄ちゃんみたいにできないんだ』って、パパにもママにもいつも言われる。お兄ちゃんは運動もできるし、何をするにも器用なんだ。だから、勉強も、スポーツも、家事も、何もかも全部、私はお兄ちゃん以下。家にいると常に比較されて、『劣った妹』としてしか扱ってもらえない。私個人を見てもらえることなんてない」


 クラスでは美人で優秀な存在として羨望の眼差しを集める莉緒が、家では劣った存在として扱われているなど、にわかには信じられなかった。しかし莉緒の追い詰められた表情は、それが真実だと物語っていた。


「じゃあ、それで『夢の薬』を?」

「うん。私の友達に勧められた。今思うと、乃亜が私に使わせるために、その友達を利用したんじゃないかな。本当、ムカつく」

「聞いてもいい? どんな夢見てるの?」

「小学生のころ、川にキャンプに行った時の夢。その時は、なんでかは忘れたけど、お兄ちゃんが来てなくて、私とパパとママの三人だけだった。そのキャンプの間、私は一回もお兄ちゃんと比較されなかった。パパと釣りをして、ママとカレーを作って、三人で笑って、すごく楽しかった。二人ともずっと優しかった。人生で一番幸せな、夢みたいな時間だった。私は『夢の薬』を使って、あの時のキャンプを、何回も繰り返しているの」


 それは、あまりにも素朴な夢だった。そして素朴であるからこそ、切実なのだとわかった。

 愛果も両親との関係は良くない。莉緒の気持ちは痛いほどわかった。

 近くで見る莉緒の顔は、肉が薄くなり頬骨が目立っていた。以前の張りのある健康的な顔立ちと比べると病的な痩せ方ではあったが、それでも美しさを残していた。


「片桐さん、話してくれてありがとう」

「莉緒でいいよ。こちらこそ聞いてくれてありがとう。あと、これも」


 莉緒は手に握る「夢の薬」に視線を落とした。


「大事に使うね」


 莉緒はそう言って、屈託のない笑顔を見せた。

 空には夕方の気配が滲んでいた。風は先ほどよりも冷たくなり、鋭さを増していた。


「じゃあ、また学校で」


 愛果と莉緒は、初めてそんな当たり前の別れの挨拶を交わした。愛果はそれが少し嬉しかった。

 次の月曜日、朝のホームルームで、莉緒が亡くなったと担任が発表した。

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