第3章
第1話 乃亜
愛果は一人、昼の歌舞伎町を歩いていた。多くの人が行き交う道端にはゴミが散乱し、ドブのような悪臭が漂っている。ゴミの近くには素行の良くなさそうな若者たちが地面に直接座り、缶チューハイを飲んでいた。そのなかには、愛果と同じか、もしかしたら年下かもしれない少女も混ざっていた。また、少し離れたところでは、外国人観光客同士が大声で揉めており、殴り合いに発展しそうだった。
この街は好きになれそうにない、と愛果は思った。
「ねえねえ、君可愛いね」
サラリーマン風の三十代くらいの男が、馴れ馴れしく話しかけてきた。
自分のことを可愛いと思っていない愛果は、それがお世辞であることをすぐに見抜き、嫌な気分になった。
「ねえ、君さあ、買える?」
一瞬、「夢の薬」の話かと思い身構えたが、すぐにそれは違うと思い至った。乃亜は当面学校の人間以外には売らないと言っていた。歌舞伎町で生産しているとはいえ、まだこの街には出回っていないはずだ。
男は値踏みするように粘度の高い目つきで愛果を見ていた。この男は愛果自身を買おうとしているのだと気が付いた。明らかに未成年である愛果を。
「警察、呼びますよ」
愛果はそう言って、足早に歩き去った。やっぱり、最低の街だ。
古い雑居ビルに入り、地下の機械室に行く。そしてその、さらに地下にある隠された地下室へと古い梯子を下りて行く。錆びついた金属の扉の前に立ち、ドアノブに手をかけたところで、愛果は動きを止めた。心が、この部屋に入ることを拒絶しているようだった。
気持ちを整理し、軋む扉を開けて地下室に入った。相変わらず湿度が高く、地上とは比較にならないほどの酷い悪臭がした。今は十一月末なので、外の気温に比べるとこの部屋はむしろ暖かく感じ、それが一層不快感を増していた。
半裸の中年男はこの日も椅子に座っていた。やはり意識はないようで、虚ろな目で中空を見るばかりだった。
愛果は部屋の端にある金属製の棚に向かい、そこに置かれているナイフを手に取った。続いてリュックから空のペットボトルを取り出す。乃亜はペットボトルの細い入口に直接滴る「夢の薬」を受けていたが、それではかなり上手く受けないとこぼれてしまう。実際に乃亜はかなりの量をこぼしていた。そこで愛果は、百均で漏斗を買ってきた。これならせっかくの「夢の薬」が無駄にならない。
男の背中から生えるぶよぶよとした異形の腕に、慎重にナイフの切っ先を突き立てる。ほとんど抵抗なく刃が突き刺さり、ナイフを引くとそのまま真っ直ぐに赤黒い皮膚が裂け、透明な液体が滲み出た。液体はみるみる溢れ、腕を伝って指先に流れ、長い爪の先端から下に滴る。それを、漏斗を差し込んで床に置いたペットボトルで受ける。しばらく待てば、500mlのペットボトル半分くらいは「夢の薬」が集まるはずだ。
この作業をするのは二回目で、もうある程度の要領は心得ていた。だが、慣れるのは作業に対してだけで、この場にも、この不気味な存在にも、一切慣れなかった。
愛果は異形の腕を生やした男から目を背けた。こんなもの、見ずに済むのなら見たくない。
初めてここに来た日、愛果は乃亜に、この男が何者なのか、この液体は何なのかを聞いた。
「私、こいつに襲われたんだよ」
そう乃亜は切り出し、大まかな経緯を話してくれた。
今から三カ月ほど前、歌舞伎町にいた乃亜に、この中年男が声をかけてきた。先ほどの愛果のように、買春を持ちかけられたらしい。提示された大きな金額を罠とも思わず、乃亜は喜んでその話に乗った。
男はこの雑居ビルに乃亜を誘い込んだ。ビルのオーナーの親族だと男は話したらしい。乃亜は素直に男に案内されるままにこの部屋までやってきた。
「こいつさ、とんでもない変態だったんだよ。うちをここに監禁して、好きなように乱暴するつもりだったみたい。たぶん、うち以外にも同じことしてんじゃないかな。トー横なら、急にいなくなっても誰にも心配されない子、たくさんいるし」
誘い込まれた乃亜は男に押し倒され、手足をガムテープで拘束されそうになった。声を上げて全力で抵抗するが、こんな場所では外まで声は届かない。争っているうちに、乃亜と男の体が棚にぶつかった。すると、一番上の段から年季の入った細長い木箱が落ちてきて、男の頭に当たった。箱の角が当たった痛みは相当だったらしく、男は頭を抱えてうずくまった。
コンクリートに落ちた木箱が割れ、なかに入っているものが転がり出た。それは干からびた人の腕のようだった。
乃亜はその時、声が聞こえたような気がした。男のような、女のような、どちらにも聞こえるような不思議な声だ。それは耳で聞こえたというより、頭のなかに直接聞こえた。
──この男に、入らせて。
腕が話しているのだと、乃亜は直感した。
「だからうち、言う通りにしてやった」
乃亜はとっさに、その腕を掴んで男の背中に突き刺した。ミイラのようなその腕は、なぜか易々と、泥のなかに木の枝を突き立てるように男の背中に深々と突き刺さった。
すると、男は激しく痙攣し床に倒れた。手足をピンと伸ばし、白目を剥き、吼えるような呻き声をあげた。
しばらくして、男は全く動かなくなった。目からは生気が完全に消え、乃亜はこの男がもう意識を取り戻すことはないと悟った。
静まり返った地下室で、不気味な腕は再び乃亜に語りかけてきた。
──お願いを聞いて。素晴らしい薬をあげるから、それをたくさんの人に飲ませて欲しい。
「『彼』の言う通り、あれは素晴らしい薬だった。私が欲しかったものはこれだって思った」
乃亜はそう言って、男の背中から生える不気味な腕を撫でた。腕の赤黒い肉は水分か脂肪で膨張しており、乃亜が撫でる動きに合わせてぶるぶると揺れた。
それが先日、ここに初めて来た日に、乃亜から聞いたこれまでの経緯だった。
地下室の隅に置かれた金属製の棚には確かに、五十センチほどの長さの細長い木箱があった。箱は見るからに古びていて、部屋の湿度のせいかところどころにシミができていた。
愛果はこの荒唐無稽な話を、一応は信じていた。乃亜の言うところの、頭に直接聞こえる「彼」の声は聞いたことがないが、目の前にいる不気味な腕を生やした男と、「夢の薬」の効果を知った今となっては、信じるよりほかない。
だがまだまだ謎は残る。乃亜も全てを愛果に話したわけではないだろう。
ペットボトルに少しずつ貯まっていく「夢の薬」を見ながら、愛果は考えた。
そもそも、この腕はなんなのか。たぶん、七七子が言うところの、なんらかの怪異というやつなのだろう。ただこの怪異がどういうもので、何を目的に「夢の薬」を人に与えているのか、素人の愛果にはさっぱりわからない。
飲むと、愛する人に会う。そして、だんだん弱っていき、最後には死んでしまう。
もしかして、この腕は幸せな夢を見せる見返りに、人間からエネルギーのようなものを吸っているのではないだろうか? つまり、人間は餌で、食事をすることがこの腕の目的なのではないか?
人間の背中に寄生し、人の幸せな夢を貪る化け物。
愛果は身震いした。そう考えると、全ての辻褄が合う。乃亜はそんな恐ろしい怪異を目覚めさせてしまったということなのだろうか。
寄生されたこの中年男は、三カ月間、一切飲まず食わずで生きているらしい。もしかすると、見た目は生きているように見えるだけで、もう本当は死んでいるのかもしれない。
そして乃亜はなぜ、このような得体の知れない存在の言うことに従い、「夢の薬」と称した体液を売っているのだろうか。単に、お金になると踏んだからなのだろうか。
だがたぶん、それに関しては本当の目的は別にあるのではないか、と愛果は考えていた。
ペットボトルに半分ほど貯まるころ、腕から滴る液体の量が少なくなり、やがて止まった。今日はもう終わりのようだ。一週間で採取できる量には限りがあるらしい。
ペットボトルの蓋を閉め、リュックに入れると、愛果はすぐに地下室を出た。こんな忌まわしい場所、一秒でも早く立ち去りたい。
だが薬の正体を知り、忌み嫌ってなお、愛果は「夢の薬」を使っていた。
もっとも忌むべきなのは、欲望に抗うことができない自分自身だ。
地上に出ると、歌舞伎町の悪臭でさえ爽やかな清流を渡る風の匂いに感じられた。
来た道を戻る途中、トー横の地べたに座る若者たちが愛果を見つめているのに気が付いた。もしかすると、あの地下室の糞尿や腐敗臭のような悪臭が体にこべりついているのではないか。愛果はいたたまれない気持ちになり、足早に雑踏を通り抜けようとした。
その時、座っていた少女の一人が立ち上がり、愛果に近寄ってきた。先ほど、缶チューハイを飲んでいた、どう見ても未成年の少女だ。
「あのー、すみません、乃亜ちゃんの友達の人ですよね?」
「え? はい、そうですけど……」
愛果は警戒しながらそう答えた。
やはり、明らかに異常な臭いだったのだろうか。それとも、もしかしたら「夢の薬」について何か感づかれてしまったのだろうか。
「最近、乃亜ちゃんトー横来てないですけど、元気してます?」
「……ああ、乃亜ちゃんなら、元気ですよ」
「よかった。あの子、すぐメンブレしてリスカしたり、ODしたりしてたから、心配だったんですよね。変わってるけど、なんか、ほっとけなくて」
「仲いいんですか? 乃亜ちゃんと」
「うーん、まあ、それなりに。会えば話す仲っていうか。私は結構好きですよ。同じ片親だし」
「片親……。そうなんですか」
乃亜が片親だとは知らなかった。そもそも、乃亜はほとんど家庭のことを話さない。
「あれ、聞いてない感じです? 乃亜ちゃん、片親なだけじゃなくて、ママがめっちゃ毒親っぽいですよ。暴力振るわれたり、色んな男を家に呼んだり。その彼氏たちにも、酷いことされたみたい。だからトー横に逃げて来てたんだと思いますよ」
少女はお酒を飲みながらもっと話そうと愛果を誘ったが、愛果は断ってその場を離れた。
乃亜には乃亜の地獄があり、それゆえに歪んでしまったのかもしれない。愛果は乃亜に同情した。
新宿駅に向かって歩いていると、スマホの着信音が鳴った。乃亜からの電話だった。
『いまどこ?』
「薬を採り終えて、駅に向かうとこ」
『帰って来たらいつもの場所に来て。面白いもの見せてあげるから』
乃亜はそれだけ言って電話を切った。その言葉には高揚感が滲んでいて、それはつまり、嫌なことが待っているという証拠だった。
愛果は重い足取りで駅へと向かった。
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