第7話 扉

 翌日、愛果は乃亜に、学校の教師たちにも「夢の薬」のことが伝わっているらしいと報告した。

 井沼木工所のビンテージソファに座り、小袋入りのチョコレートを食べながら乃亜は愛果の話を聞いた。食べ終わったチョコレートの袋は、その辺にポイと捨てる。

 最初に来た時よりも、事務所のなかははるかに散らかっていた。乃亜はゴミを全て、手近なところに置くか床に捨てるかしており、決してゴミ箱に捨てるという選択肢はないようだった。敷かれた絨毯には食べかすが落ち、飲み物の染みもついている。ソファには乃亜の好きな「ミラージュ・ヴィーナス」のキャラクターのぬいぐるみが二つ置かれていた。

 この日、木工所に翔の姿はなく、いるのは乃亜だけだった。


「そうなんだ。じゃあ、今よりもっと色々気をつけなきゃね」

「気を付けるって、どうやって」

「ここに出入りする人を限定しよっか。直接買いに来るのは無しにして、たとえば誰か売人を決めて、そいつがうちから薬を仕入れるの。で、客は売人に連絡して薬を買う。客に薬を渡す場所はその日によって変えるの。どう? これなら安全じゃない?」

「……なんか、本当にドラッグの密売してる人みたいだね」

「これからどうするか、色々、考えてたんだよねー。うち、まだまだ学校で薬を売りたいから、誰にも邪魔されたくないんだよ。あ、そうだ、愛果ちゃんはここに買いに来てもいいからね。親友なんだから」

「ねえ、どうして私のこと、親友って言ってくれるの?」


 前から気にはなっていたが、聞いたら機嫌を損ねそうで聞けなかった。だが乃亜は機嫌を損ねるというよりは、その質問が意外かのようにきょとんとした顔で何度も瞬きした。


「だって、うちが学校来た時、『おはよう』って言ってくれたじゃん。他の人は誰も言ってくれなかったよ。愛果ちゃんこそ、うちを親友だと思ったから挨拶してくれたんだよね」


 乃亜の不登校後の最初の登校日のことを言っているらしい。


「そっか。そうだね」

「今日もちゃんと、愛果ちゃんの分の薬は残してあるからね」

「その件で、あの、相談があるんだけど……」


 愛果はバツが悪そうに俯きながら言った。


「なに?」

「実は、もうお金が無くなっちゃって……。だからさ、悪いんだけど……」

「あーそうなんだ。じゃあ、バイトする?」

「え? バイト?」


 ツケにしてもらえないかお願いするつもりだったので、その返答は予想外だった。


「さっき言ってた、売人ってこと?」

「それもいいんだけど、愛果ちゃんは信用できるから、もっと大事な仕事をしてもらおうかな」


 不安そうな愛果の顔を見て、乃亜はにやりと不気味な笑みを浮かべた。


「そんなに心配しないでよ、めっちゃ簡単だから。それやってくれたら、薬なんてただでいくらでもあげちゃうよ」


 あまりにも美味しい話で、却って不安が募った。だが美術部に行けなくなった自分には、「夢の薬」で得られる喜びしか守るべきものは残っていない。薬のためなら、どんなことでもやるしかない。


「何をしたらいいの」


乃亜はますますいやらしく顔を歪め、こう言った。


「愛果ちゃんには、『夢の薬』をつくってもらいたいんだ」



 土曜日の昼過ぎ、愛果は青梅駅から中央線に乗った。特別快速に乗れば、乗り換えなしで約一時間で新宿駅まで到着する。山沿いの田舎町から大都会へと短時間で移動できるのは、かなり便利だった。

 とはいえ、愛果はあまり新宿まで出たことはない。何か買い物をしたければ、もっと近くの立川まで行けば事足りるからだ。だから新宿まで足を運ぶのはずいぶん久々だった。

 しかも今回乃亜と待ち合わせたのは、新宿が世界に誇る歓楽街、歌舞伎町だった。十六歳の愛果にとって、そこは全く未知の世界だ。治安が悪く、不埒で、煌びやか。そんなイメージがあるだけだ。

 新宿駅を出て、休日の人込みを掻き分けて進むと、テレビなどでよく見る「歌舞伎町一番街」と書かれた赤いアーチ状の看板が見えた。ここがあの歌舞伎町なのかと思うと緊張した。大人の世界に足を踏み入れるつもりで、アーチを潜って進む。

 歌舞伎町のなかにはビルが密集するように並んでいた。飲み屋や夜の店などの派手な看板が、そこから自己主張強く突き出ている。昼間なのに酔った男が大声で叫んでいたり、際どい恰好をした若い女性が店先に立って歩く男性を誘惑していたりと、愛果の住む良く言えば牧歌的、悪く言えば平凡で退屈な田舎町とは明らかに違う刺激の強い場所だった。

 自分がいて良い場所とは思えず、愛果は背中を丸め、気配を殺して進んだ。マップアプリを頼りに、乃亜の指示した場所に向かう。

 ようやくたどり着いたそこは、歌舞伎町の中心に存在する大手シネコンだ。建物の上にある巨大なゴジラの像は、今では歌舞伎町の立派なシンボルとなっている。

 そのシネコン前は待ち合わせスポットになっているのか、多くの人が建物前に立っていた。愛果はきょろきょろしながら、そこで待っているはずの乃亜を探した。

 肩が叩かれ、振り返ると、嬉しそうに笑っている乃亜が立っていた。


「じゃあ、行こっか」


 乃亜と並んで歌舞伎町のさらに奥へと向かう。途中、学校の同級生とは明らかに違う雰囲気の十代の少年少女たちが、乃亜に話しかけてきた。きっと、この辺りにたむろするトー横キッズと呼ばれる人たちなのだろう。乃亜は親しげに短い会話をし、それからまた歩き始めた。


「いまの、友達?」

「まあね。でも、一番の親友は愛果ちゃんだから。あいつらも、今から行く場所は知らないよ」


 そこから数分歩き、辿り着いたのは周囲の他の建物よりも古びている小さめの雑居ビルだった。乃亜はそのビルの細く薄暗い通用口に躊躇なく入って行く。あまりに怪しい雰囲気に、愛果は入口で立ち止まった。


「何してるの? 早く来てよ」


 廊下の奥にいる乃亜の声が反響して聞こえた。昼間なのに、暗がりにいる乃亜の顔は影になって見えなかった。

 愛果は唾を飲み込み、ビルに足を踏み入れた。

 突き当りにあるドアを開けると、そこは下りの階段になっていた。下りた先は機械室で、大型の機械やポンプが設置されていた。天井には配管やダクトが複数走っている。乃亜はその部屋をさらに進んでいく。


「ね、ねえ、ほんとにここで薬を作ってるの?」

「そうだよ」


 乃亜は大型のポンプの裏側に回った。そこは完全な行き止まりで、薬を作る道具のようなものも何もなかった。

 愛果が問いかける前に、乃亜がしゃがんだ。見ると、コンクリートの床に金属製の六十センチ四方の四角い扉のようなものが付いていた。乃亜がそこを開ける。なかは真っ暗だった。

 地下室の、さらに地下。地の底まで続いていそうなその穴を見て、愛果はなぜだか全身に鳥肌が立った。手で掬うことができそうなほどの濃い闇が、穴のなかを満たしていた。

 乃亜が四角い穴の縁に手を入れ、スイッチを押すと、素人が取り付けたように乱雑にぶら下がる白熱球に光が灯った。

 乃亜が梯子を下って行く。愛果も恐々それに従った。ここまで来たら行くしかない。

 三メートルほど下ると、そこはまた狭い通路のような場所だった。白熱球が頼りなく照らす通路の先を見て、愛果は思わず「あっ」と声を漏らした。

 そこには、「夢の薬」を使った際にいつも見る、あの扉があった。真崎に会う直前必ず通ることになる、錆びついた金属製の扉。夢で見たものと、寸分違わず一緒だった。


「どうかした?」

「この扉、いつも夢のなかに出てくるのと同じだ」

「へえ、そうなんだ」


 乃亜は鞄のなかを漁りながら、興味がなさそうに言った。

 ここに来たことなんて絶対にないのに、なぜこの扉が夢に出てくるのだろう。

 本当に、このなかに入っていいのだろうか。


「ねえ、ここなんなの?」

「さあ? 隠し部屋みたいなものじゃない?」


 乃亜は鍵を取り出し、扉に差し込んだ。大きな開錠音が狭い廊下に反響する。そして、夢のなかと同じように軋みながら、扉が開いた。

 乃亜が明かりを灯しても、その地下室は薄暗かった。やはりそこは夢のなかと全く同じだった。陰気でじめじめとした、狭い部屋。最初に目に入るのは、中央に置かれた一脚の椅子だ。

 だが、そこには当然、真崎は座っていない。代わりに、ほかの人物が座っていた。

 それは中年の男だった。上半身が裸で、下半身にはデニムを履いている。男は虚ろな目をして口を開け、涎が垂れている。椅子に座ってはいるが、意識はないように見えた。

 糞尿や腐敗臭のような悪臭がした。愛果は思わず鼻を押さえる。


「何、これ。どういうこと? あの人は誰?」


 乃亜は部屋に入り、男の近くで立ち止まった。愛果を手招きする。


「嫌だ、行きたくない」

「大丈夫。この人何もできないから」

「嫌だよ。なんか、怖いよ」

「いいから、そういうの。面倒くさいって」

「だって、意味わかんないよ。なんなのその人。私、入りたくない」


 乃亜は舌打ちし、不快感を露わに長いため息を吐くと、愛果を睨みつけた。


「もうウザいなあ。いいから早くこっち来いって。薬、欲しくないの?」


 乃亜はいつもの脅し文句を口にした。それは今では、愛果にとって「息ができなくなってもいいの?」と同じような意味を持っていた。

 愛果は震えながら、部屋をゆっくり進んだ。部屋のなかには、悪臭以外にも、濃密な恐ろしい何かが充満している気がした。

 乃亜は隣に来た愛果に、男の背中を見るように促した。愛果はそこを見て、思わず息を止めた。

 男の背中には、もう一本の腕が生えていた。それは男の本来の腕よりも短く、皮膚が剥けて肉が露出しているかのような赤黒い色をしていた。全体がブヨブヨしており、爪が長く伸びている。


「……何、これ」


 愛果は震える声で言った。

 気付くと、乃亜は手にナイフを持っていた。そのナイフで、男の背中に生えた異形の腕に一筋の切れ目を入れた。するとそこから、血ではなく透明な液体が溢れ出した。乃亜は鞄から空のペットボトルを取り出すと、異形の腕から滴る液体を、そのなかに受け止め始めた。

 とろみのある液体がペットボトルのなかに貯まっていくのを見て、愛果は恐ろしい可能性に気が付いた。


「これ、もしかして……」

「そうだよ。これが『夢の薬』だよ」


 乃亜の笑顔には、明確な悪意が彫り込まれていた。

 胃の奥から吐き気が込み上げ、愛果は床に吐いてしまった。昼食でほんの少しだけ食べたうどんがそのまま出てきた。


「あーあ、汚いなあ。自分で掃除してよね」


 愛果は全身が震えていた。足から力が抜け、床にへたり込んでしまう。

 こんな気持ち悪いものを、これまで飲んでいたというのか。こんなもの、口にしていいわけがない。

 もう一度吐きそうになった愛果は、ふと、悪臭のなかに甘い芳香が漂っているのに気が付いた。

 それは「夢の薬」が放つ芳香だった。神秘的な美しい花から採れる琥珀色の蜜が放っている、甘い芳しい香り。そんなイメージが、否応なく脳内に描き出される。

 その香りは、愛果を誘っていた。そして、目の前のおぞましい光景を見てもなお、愛果はまた薬を飲みたいという欲望を感じていた。


「週に一回、週末にここに来て、薬を集めて欲しいんだ。これまではうちがやってたけど、いちいち来るのめんどかったんだよね。愛果ちゃんになら、この仕事も任せられるから」


 乃亜は愛果を見下ろし、微笑んだ。


「これで、好きなだけ大好きな先生に会うことができるね」


 愛果は震えながら、ペットボトルに滴る液体を見た。そして背中から生える不気味な腕を見て、椅子に座ってうなだれる半裸の中年男を見た。

 まるで、悪夢を見ているようだった。地獄の光景のようだった。だがきっと、現実なのだろう。現実は苦しく、辛く、地獄そのものなのだから。むしろ夢のなかにこそ、喜びや幸福があるのだから。


「……わかった」


 愛果は泣きそうになりながら、沈痛な声でそう言った。

 その言い方が可笑しかったのか、乃亜は声を上げて笑った。湿って薄汚れた地下室に、乃亜の悪意に満ちた笑い声が反響する。

 まるで、多くの人が愛果を取り囲み、嘲笑っているかのようだった。

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