第6話 そんな目で
それから一週間が経っても、未来画展の制作は全く進まなかった。
愛果は一日に何十枚もラフスケッチを描いては、納得できずに紙を丸めて放り投げ、あるいは破り捨てた。美術室の愛果の周りの床には、瞬く間にボツの紙の山ができた。
部活の間、常に苛立たしげな愛果から、他の部員たちは距離をとるようになっていた。ひかりだけが愛果に寄り添い、励ましの言葉をかけていたが、そのどれもが愛果の心には届いていなかった。
優しい言葉なんていらない。優しくされたところで、冴えたアイデアが湧き出てくるわけじゃない。必要なのは結果だけだ。賞をとり、真崎の期待に応え、親を説得できるような、素晴らしい絵を完成させることだけが重要なんだ。
最初期の段階で泥沼に嵌っている愛果に対し、ひかりは順調に制作を進めていた。キャンバスの中心には、まだしっかり形にはなっていないが、発光しているような抽象的な人物が描かれている。これが恐らく、ひかりのなかにある救世主的な七七子のイメージなのだろう。
周囲と見比べると、焦りと苛立ちはさらに募った。そのストレスを解消するために、「夢の薬」を使う頻度は増えた。夢のなかでの真崎との逢瀬だけが、唯一の癒しだった。
小遣いの尽きた愛果は、一昨日、薬を買うために親の財布から二万円を盗んだ。越えてはいけない一線を越え、自尊心は決定的に傷つき、心が凍っていくように感じた。
美術室の扉が開き、いつものように生徒たちより遅く真崎がやって来た。真崎は自分の定位置には行かず、真っ直ぐに愛果の座る場所まで来た。
「須磨、調子はどうだ」
「最悪です」
真崎の顔も見ずに、愛果は答えた。
「少し、話さないか」
真崎は美術室から通じている美術準備室に愛果を誘った。美術準備室のなかには、授業で使う様々な備品や掃除道具がきちんと整理されて置かれている。
真崎は畳んで置かれていたパイプ椅子を広げて向かい合わせに並べ、愛果に片方に座るよう促した。
真崎は自身も椅子に座ると、いつも買っている缶のブラックコーヒーを飲んだ。コーヒーが喉を下りて行く度に、真崎の喉ぼとけが動く。その様子を見るのが愛果は好きだった。
「悪いな、俺だけ」
「いえ」
久々に至近距離でまじまじと真崎を見て、愛果は改めてあの薬の凄さを感じた。夢のなかで見る真崎の姿は、現実の真崎と本当にそっくりだ。癖っ毛の跳ね方や、目じりの皺の入り方、瞳や唇の色、全てが完全に同じだった。愛果の記憶を元に作り出した夢というより、現実の真崎をそのままトレースしたかのようだ。
真崎は空き缶を床に置き、愛果を見つめた。
「須磨、ずいぶん痩せたな。ちゃんと食べてるのか?」
「大丈夫です。食べてます」
嘘だった。最近はストレスのせいか薬のせいか、ほとんど食欲がない。
「お前が最近、制作に悩んでいるのは知っている。だけどな須磨、誰だって、本気で何かに取り組めば必ず壁にぶつかるんだ。苦しいのはお前が本気で戦っている証拠なんだよ。まず、それを誇っていい。本気で戦っている自分を誇れ」
真崎の口ぶりはいつになく真剣だった。普段、飄々として適当な印象すらある真崎には珍しいことだ。
「これはお前の戦いで、俺にも、他の誰にも手助けはできない。それはたぶん、お前が一番わかっているんだろう。でもな、だからといって、周りに壁を作ることはないんだ。思っていることを話すだけでも楽になることがある。どうだ、お前がもし、話したいことや悩んでいることがあるなら、俺に話してみないか」
愛果は眉を顰め、真崎を見た。話の展開は至って自然な気もした。美術部顧問として、人生の先輩として、すばらしい助言に思えた。だが若干の違和感がある。
わざわざ美術準備室に愛果を連れ出し、二人きりで話したのは、制作に行き詰まる愛果の相談に乗るためであるはず。だが、もし目的がそれだけならば、「話したいことや悩んでいることがあるなら、俺に話してみないか」という言い方をするだろうか?
それはつまり、未来画展の制作に関すること「以外」で、愛果から聞きたいことがあるのではないか。
「先生は、私に何を話して欲しいんですか?」
「何か、悩んでいることがあったりするんじゃないかと思ってな」
「私のこと、何か疑ってます?」
真崎の眉がぴくりと動いた。愛果は確信した。
「聞きたいことがあるなら、聞いたらいいじゃないですか。私、何でも答えますよ」
「……発表はまだだが、この一カ月で、四人生徒が亡くなっている。そのうちの二人は、お前も知ってるよな? 四人に共通しているのは、異常に痩せて亡くなっていることらしい。どうも最近、校内に同じような不自然な痩せ方をした生徒が増えてきている。何らかの薬物が出回っているらしい、という噂もある」
「私が最近痩せてきたから、その薬物を使っているって疑ってるんですか?」
「疑っているというか、心配しているんだ」
「なら、安心してください。私、そんな薬使いませんから」
「そうか。なら、いいんだ」
言葉とは裏腹に、真崎の表情を見れば、疑いが晴れたわけではないとすぐにわかる。それもそうだろう。最近の愛果の顔は、自分で鏡を見ても驚くくらい以前と違う。頬の肉が削げ、深い隈があり、目は若干血走っている。唇は渇き、肌も荒れている。少なくとも、通常の健康状態でないことは一目瞭然だった。
この世で一番大好きな先生に、怪しい薬に手を染めているのではないかと疑われている。これまで積み上げてきた信頼関係に、ヒビが入ってしまった。きっとこのヒビはもう二度と治らなくて、むしろどんどん広がり、近いうちに完全に壊れてしまうのだろう。
先生が信じてくれるからこそ、絵をもう一度頑張ろうと思えたのに。
真崎はこれまで見たことがない、苦しげな憂いを帯びた表情で愛果を見ていた。
「先生、そんな目で私を見ないで」
愛果は膝の上で拳を握り、小さな声で言った。
「いつもみたいに、優しい目で私を見てください。私だけを愛していて、世界で私しか目に入っていないような、あの目で私を見てください。そんな目、見たくありません。まるで私を憐れんでいるような、そんな目は嫌です」
夢のなかで会う、恋人としての真崎の姿が、目の前の真崎に重なる。
いつだって、先生はありのままの私を受け入れてくれる。手を握り、抱き締めて、キスをしてくれる。それが、私の先生。それが、私と先生の関係。
愛果は立ち上がり、呆気に取られている真崎を見下ろした。
「……ど、どうした、須磨」
愛果はふらりと倒れ込むように真崎に近づくと、そのまま真崎の顔に自分の顔を近づけた。あと少しで唇が触れようというタイミングで、真崎は愛果の肩を掴み、体を無理やり遠ざけた。
「やめろ! どうしたんだ、お前おかしいぞ」
「……やっぱり、駄目ですよね」
愛果は自虐的な笑みを浮かべた。
わかっていたことだ。現実の世界で真崎が愛果を愛してくれることなど、万に一つもないことなど。仮に自分が真崎だとしても、こんな生徒のことは愛さない。自分に自信がなく、根暗で、不細工で、唯一得意だった絵すら満足に描けない、良いところが一つもない人間のことなんて。
「須磨、やっぱりお前、何か薬のこと知ってるんじゃないのか」
「先生にはわからないですよね。誰にも愛してもらえない苦しみが」
「どういう意味だ?」
愛果は真崎に背を向け、美術準備室から出ようとした。真崎は立ち上がり、その背中に呼びかける。
「須磨、俺は何があってもお前の味方だからな」
「……私が先生になって欲しいのは、味方とかじゃありませんよ」
この日を最後に、愛果は美術部に顔を出さなくなった。
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