第5話 衝突
「井沼木工所」を薬の販売拠点にするようになり、乃亜は購入に際して三つの注意事項を設けた。
一つ、木工所に来る際には誰かに尾行されていないか気を付けること。二つ、学校には薬を持ちこまないこと。三つ、薬に関するあらゆることを他言しないこと。それらを守らない場合、もう二度と「夢の薬」は売らない、と乃亜は言った。愛果だけではなく、他の客にも同様のルールが課されていた。
これは学校や警察を警戒してのルールではあるが、乃亜が一番恐れているのは七七子ではないかと愛果は思った。
七七子が言っていた話を、愛果は今となってはほとんど信じていた。愛果と亡くなった由衣から、「人ならざるもの」の気配を感じたという話。二人を繋ぐものは「夢の薬」しかない。あの薬にはきっと本当に、人知を超えた恐ろしい何かが関わっているのだろう。
乃亜はそれが何なのかを知っていて、だからこそ、不思議な力を持つ七七子のことを恐れているに違いない。
学校でいつもの他愛ない一日を終え、帰り支度を整えていると、七七子が愛果の教室までやって来た。七七子にはやはり独特の雰囲気があり、そこにいるだけで、教室の空気が少し変わる気がした。
「今日こそ、話を聞かせて貰うから」
七七子の断固とした言いぶりにも、愛果は動揺しなかった。
「私は何も話さないよ。何も知らないし」
「何も知らないことはないでしょ。知っていることを、可能な限り教えてくれればそれでいい」
愛果は鞄を持ち、部活に行くために教室を出た。七七子がその後をついて来る。愛果は立ち止まり、「ついて来ないで!」と大声で叫んだ。周囲にいた生徒たちが、何ごとかと振り向く。大人しく、クラスでは目立たない存在である愛果が声を荒げるなど、誰も目にしたことがない。ざわめいていた廊下が静まり返り、二人に注目が集まった。
「これ以上私に付きまとったら、警察呼ぶから」
七七子は不服そうな顔で愛果を見つめていたが、周囲を取り囲む人数が多くなってきたことに気づき、大股に立ち去った。
愛果が歩くと、野次馬の壁が割れて道ができた。そこを堂々と歩き、愛果は美術室へと向かう。
後ろから追いかけて来たひかりが、心配そうに聞いた。
「ねえ、どうしたの? 七七子ちゃんと何かあったの?」
「なんでもない」
それ以上、愛果は親友に一切の説明をしなかった。
未来画展に出す絵の制作は、なかなか進まなかった。
どこまでも深海に潜って行くシャチを描くことには決めたのだが、それをどう描くのか、決めきることができない。どのような構図で描くのか、どのような色調で、どのように描くのか。それらによって絵の印象は全く変わってくる。選択肢は無限にあるように感じられた。愛果は悩み、何枚も何枚もラフスケッチを描いては、納得がいかずに破り捨てた。
この絵の成果次第で、もしかしたら美大に行けるかもしれない。そう思うと、妥協は許されなかった。完璧なものを描きたかった。しかし、時間が限られていることも事実で、そう思うと焦りと不安が募っていった。
「須磨、大丈夫か?」
愛果が顔を上げると、いつの間にか美術室に来ていた真崎が横に立っていた。
「はい。大丈夫です」
「そうか? あんまり、思い詰めるなよ。俺がこの前、プレッシャーを与えちゃったなら悪かったな」
「いえ、先生は悪くないです。私の問題ですから」
真崎は心配そうに目を細めている。
「なあ須磨、お前、最近寝てないんじゃないか? 隈が酷いし、顔色も悪いぞ」
「十分寝てますよ。寝るのが楽しみなくらいです」
「……そうか。とにかく、思い詰めるなよ」
「はい。ありがとうございます」
それから愛果はまた一枚、ラフスケッチを描いた。真っ黒な深海に潜っていくシャチを、上から見下ろす構図だ。しばらく眺め、それもすぐに破り捨てた。
十一月となり、日が沈む時間はさらに早くなっている。部活を終えて校舎を出ると、外はもう薄暗い。風は冷たく、愛果は思わず身震いした。
帰宅途中、人気の少ない道を進んでいると何やら騒ぎ声が聞こえた。それは悲鳴のようだった。
愛果は好奇心に駆られ、声のする方に行ってみることにした。
そこは公園だった。それほど広くはなく、年季の入ったブランコと滑り台が端に設置されているだけの、これといって特徴のない公園だ。
薄闇のなか、民家と木がつくる一層濃い影のなかに、数人の人物が蠢いているのが見えた。同じ高校の生徒であることは服装からすぐにわかった。数人の男女が、誰かを取り囲み暴行している。
愛果は目を凝らし、取り囲まれている人物が誰なのか見分けようとした。女性で、長い黒髪を後ろで束ねている。
七七子だ。七七子は頭を抱えてうずくまり、殴る蹴るの激しい暴力に耐えていた。
愛果は自転車を止め、その場に駆け寄った。
「ちょっと! やめなよ!」
愛果はリンチの輪のなかに飛び込み、七七子を庇った。深く考えたわけではなく、咄嗟の行動だった。
七七子をリンチしていたのは男三人、女二人だった。女のうち一人は、愛果がほとんど話したことのないクラスメイトだった。それにも驚いたが、もっと驚いたのは、男のうちの一人に井沼翔がいたことだった。
愛果は翔の顔を見て、このリンチの目的を察した。
きっと、乃亜の指示だ。乃亜が七七子に警告を与えるために、自分の客を操って、こんなことをしたのだろう。
翔は荒い息を吐きながら、愛果を睨んだ。愛果は不良のような見た目の翔が恐ろしかったが、毅然と翔を睨み返し、腕を広げて七七子を庇った。
翔はやがて愛果から視線を外し、周りの生徒に「もう十分だ。行くぞ」と伝えた。翔の指示に従い、生徒たちは揃ってその場を去って行った。
全身から力が抜けた愛果は、その場にへたり込んだ。体が震えている。自分らしくもない勇ましい行動で、心にも体にも、相当の無理がかかっていたようだ。
「ありがとう」
その声に振り向くと、七七子が立ち上がって愛果を見下ろしていた。制服は全体が土で汚れ、蹴られた靴の跡も残っている。腕は擦りむき、鼻血も出ていた。
自分の方が明らかに傷ついているのに、七七子は愛果の腕を引っ張って立ち上がるのを助けた。
「だ、大丈夫なの?」
「こんなの大したことない。五対一くらい勝てると思ったのに、やっぱり男が三人もいると厳しかった。今度は戦い方を考えないと……」
悔しそうにそう言い、七七子は鼻血を手の甲で拭った。これだけ酷くやられて、まだ戦意を失っていないらしい。やっぱり、普通じゃない。
七七子は地面に落ちている自分の鞄を拾い、砂埃を払った。なかからポケットティッシュを取り出し、丸めて鼻に詰める。
「何があったのか、聞かないんだね」
愛果はどきりとした。確かに、事情を知らない人間ならそれを聞くのが自然なのかもしれない。
「あなたもわかってるんでしょ。あいつら、私が『夢の薬』ってやつのことを調べてるのを知って、襲ってきたんだ。もちろん、こんなことくらいでやめるつもりなんてないけど」
「どうして、そこまでするの? ほっとけばいいのに」
「私が助けないと、みんな死ぬ。ほっとけるわけないでしょ」
「でもきっとみんな、助けてもらうことなんて望んでない。みんな、死ぬよりも怖いものがあるんだよ。だから薬を使うんだよ」
「あなたもそうなの?」
愛果は口をつぐんだ。七七子はため息を吐き、鋭い目で愛果を見つめた。
「怪異は、恐ろしいよ。あなたが思うよりもずっとね。この怪異の気配はかなり弱くて、とり憑かれている人を特定するのには苦労してる。たぶんそうだろうと思う人を見つけても、ほとんど何もしゃべってくれない。でも、一つだけわかったことがある。夢を見せているんでしょう、この怪異は。たぶん何か、すごく良い夢を」
愛果は七七子の視線から顔を逸らしていた。目の奥を覗かれると、隠していることを全て知られてしまう気がした。
「あなたも、他の人も、自分の意思で『夢の薬』を使っているつもりなんでしょうけど、それは違う。怪異の力によって、使うことを『選ばされて』いるの。狡猾な怪異はね、人の心の弱みにつけ込んでくる。肉体も、魂もしゃぶりつくされて、最後には恐ろしい結末が待っているんだよ。だから、まだその怪しい薬を使っているなら、今すぐにやめなさい」
「……あなたには、わからないよ」
絞り出すように、愛果は言った。
「わからない? 私は誰よりもわかってる。怪異って言うのは……」
「あなたには、弱い人の気持ちがわからないんだよ!」
愛果はそう言って駆けだした。自転車を置いて、家の方向も無視して、ただがむしゃらに走った。
正しい理屈なんて聞きたくないし、自分のなかの不安や恐怖にも耳を傾けたくなかった。あらゆるものから逃げるように、愛果は走り続けた。
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