第4話 木工所

 次の日、愛果は高校を休んだ。昨日の出来事がショックで、体調も悪いからと母親には伝えた。それはほぼ真実だった。だが一番の理由は、七七子に会いたくないからだった。

 七七子に会えば、また「夢の薬」のことを追求されるだろう。あの薬のことは何も話したくなかった。怪しげな薬を使ってしまったことに、今では強い罪悪感があった。私は何も悪くないと、愛果は何度も自分に言い聞かせた。

 もう「夢の薬」は使わない。あの気持ち悪い鳥の足が忘れられないし、それに、いつかは由衣や脇本のように死んでしまうかもしれない。もう使わないから、私のことを責めないで欲しい。

 隠れるようにベッドのなかで丸くなり、愛果は震えながら一日を過ごした。そして次の日も、また次の日も高校を休んだ。

 休んでいる間、トイレに行こうとして、部屋から出ていた父と遭遇した。父に会ったのはずいぶん久しぶりな気がした。

無精ひげを生やし、分厚い瞼を細め、背中を丸めた父の姿は、前よりも遥かに老けて見えた。


「ああ、愛果。どうだ学校は。楽しんでるか」


 カッと頭に血が上った。あまりにも愛果の現状と異なる、無神経な発言だった。怒鳴りそうになるのを堪え、愛果は父を無視してトイレに入り、勢いよくドアを閉めた。

 ずる休み三日目の夜、夕食を運んできた母が、不機嫌を滲ませた声で話し始めた。


「愛果さあ、いつまで休むの? そろそろ元気になったんじゃない? ショックだったのかもしれないけど、そんなことくらいでいつまでも休むわけにはいかないよ。サボり癖がついたら、碌な大人にならないよ。私は愛果のために言ってるの」


 愛果はベッドのなかで丸くなったまま母の言葉を聞いていた。


「それにさあ、毎朝学校に電話するの嫌なんだよね。家事も、あなたが辛いだろうと思って全部私がやってるけど、そろそろ疲れちゃった。あの人は相変わらず何もしてくれないし」


 愛果への愚痴は父の愚痴に変わり、最後には仕事の愚痴になった。

 話し終えると、母は大きなため息を吐いた。「明日は学校に行きなさいよ」と言い残し、娘の意見は一切聞かぬまま部屋を後にした。

 愛果は起き上がり、母が机に置いていった焼きそばを食べた。いつもと同じ、大手食品メーカーのソースの味のはずだが、今日はしょっぱさと油っぽさを胸につかえるほど強く感じる。食欲が戻っていないせいかもしれない。結局、四分の一ほどしか食べられなかった。

 箸を皿に置き、愛果は声を出さずに泣いた。空しかった。誰も、自分のことを本気で気にかけてくれる人はいないのではないか。そんな風に思えた。

 ひかりは毎日メッセージをくれたし、それはもちろん嬉しかった。だが、友達には埋められない種類の孤独が、この世にはある。

 あなたのことを世界で一番愛していると、誰かに思って欲しい。それが自分の一番の望みなのだと、愛果は気が付いた。

 実の親ですら、自分のことを本当に愛してくれているという確信が持てない。家を一歩外に出れば、なおさら誰にとっても、自分は愛すべき特別な存在じゃない。

 愛が手に入るのは、夢のなかだけだ。

 真崎の体の温もりを思い出した。慈しむように愛果に触れてきた手の感触を思い出した。愛果だけを見つめる熱っぽい眼差しを思い出した。

 やはり、自分にはあの薬が必要だ。たとえ本当に、七七子が言うような不気味な何かが裏に潜んでいるのだとしても。

 手持ちの薬はもうない。愛果は明日、高校に行くことに決めた。



 乃亜の席には誰も座っていなかった。クラスメイトに聞くと、やはり乃亜はあれ以降高校に来ていないようだった。予想通りとはいえ、愛果は落胆した。

 愛果はすぐに、乃亜にメッセージを送った。


『「夢の薬」を買いたいけど、どうすればいい?』


 返事が返ってくるまで時間がかかることを覚悟したが、意外にもすぐに返信がきた。


『学校が終わったらここにきて』


 その下には住所が記されていた。ネットで調べると、高校からそう遠くない場所だった。

 愛果は一日、七七子に見つからないように警戒しながら過ごした。七七子は背が高く目立つので、注意さえしていれば、愛果の方が先に気づくことができる。

 どうにか一日やり過ごして帰りのホームルームが終わると、金曜日で部活がないためすぐに乃亜が送ってきた住所へと向かった。

 そこは、見るからに古びた武骨な建物だった。掲げられた看板には色褪せた文字で「井沼木工所」と書かれている。

 全く予想外の建物に、愛果は住所を間違えたかと思い確認したが、ここで間違いなさそうだった。

 自転車を停め、愛果は木工所の扉に手をかけた。引き戸には砂が噛んでおり動きは悪かったが、鍵はかかっていなかった。

 こうした工場のような建物に入ったことのない愛果は、おずおずとなかを覗いた。そこには木材を加工すると思われる大型の機械や、加工前の角材や板材が置かれていた。建物のなかには木の匂いが充満している。


「すいませーん」


 声をかけると、やがて奥から同じ高校の制服を着た男子生徒が現れた。背が高く、耳にはいくつかピアスをしていて、愛果からすると不良に分類される人種だった。

 男子生徒は痩せていて、目の下には濃い隈があった。


「あんた、愛果ってひと?」

「……あ、はい。そうです」


 愛果は小さな声で答えた。


「こっち来て」


 言われるがまま、おがくずと埃を踏みしめ工場の奥に向かう。突き当りにドアがあり、その先は事務所のような場所になっていた。とは言っても綺麗なオフィスのような事務所ではなく、古い冷蔵庫があったり、家庭用の安いダイニングテーブルがあったり、かと思えば妙に高級そうな年代物のソファがあったりと、ちぐはぐで生活感の強い場所だった。

 そのソファに、乃亜が寝そべってスマホをいじっていた。


「あ、愛果ちゃんいらっしゃい」


 乃亜はくつろいだ様子で言った。

 男子生徒に促され、愛果は土間で靴を脱ぎ、事務所に上がった。床は埃っぽく、スリッパが欲しかったが見当たらない。


「ここ、乃亜ちゃんのおうちなの?」

「違うよ、こいつの」


 乃亜は男子生徒を指差した。


「ほら、うちの親友に自己紹介しなよ。お前のせいで戸惑ってんじゃん」


 男子生徒は乃亜を睨み、それから仏頂面で愛果を見た。


「俺は井沼翔。ここは俺のじいさんの木工所で、もう何年も前に廃業してる。乃亜が薬の取引に使う場所が欲しいって言うから、使わせてんだ」

「そういうことだから、今度から薬が欲しい時はここに来てね。夕方なら大体いるから。ま、必ずいる保証はないけど」

「もう学校には来ないの?」

「行かないよ。またあの変な女に突っかかられたら嫌だし。それに、もう十分お客さん確保できたから行く必要ないし。こいつもさあ、うちの客なんだよ。薬が欲しいから、おじいちゃんの仕事場を薬の売買の場所として提供してんだよ。ウケるよね」


 乃亜は足をバタつかせながらキャハハハと笑った。その様子を、翔は拳を握り締めて睨んでいる。愛果は翔が乃亜に殴りかかるのではないかとヒヤヒヤした。そして同時に、そうなったらいいのに、という意地悪な気持ちもほんの少しあった。


「で、何本欲しいの」


 愛果はここに来てまた迷い始めていた。本当に「夢の薬」を買って良いのだろうか。今が薬を絶つ唯一のチャンスなのではないか。自分が間違った道に進んでいることはわかっている。今ならまだ、ギリギリのところで引き返せるのではないか。しかし、この薬なしで生きていく喜びの存在しない人生を思うと、絶望的な気分になる。

 ぐるぐると考えが渦巻き、乃亜の問いに答えられないでいると、愛果の真後ろの事務所のドアが開く音がした。そこには意外な人物が立っていた。

 莉緒だった。心底驚いたが、莉緒もまた驚いた顔で愛果を見つめている。


「どうして、あなたがいるの?」


 莉緒は警戒するような口ぶりで言った。


「あーっ、莉緒ちゃん、来てくれたんだあ」


 乃亜はわざとらしい、媚びるような声色でそう言い、ソファから立ち上がってこちらまで歩いてきた。土間に立っている莉緒を見下ろし、ニタニタした顔で語りかける。


「どうだった? あの薬、気に入ってくれた?」


 莉緒は口を閉じ、悔しそうな渋い表情をしていたが、やがて小さく頷いた。

 愛果はさらに驚いた。あの莉緒が「夢の薬」を使ったなんて信じられない。薬を必要としているのは、現実では愛が得られない寂しい人なはずだ。莉緒は美人で、成績もよく、スクールカーストの頂点に君臨していて、友人もいっぱいいる。大学生の彼氏もいるという話だし、愛果からすると全てを手にしている人間に思えた。

 それがなぜ、こんな怪しい薬に頼らなければならないのか疑問でしかない。


「ねえねえ、どんな夢見たの?」


 嘲るような笑みを浮かべて乃亜が言った。


「そんなの、あなたに話す必要ある? いいから、またアレ、頂戴よ。お金なら払うから」


 莉緒がそう言うと、乃亜の表情が瞬時に冷たくなった。


「なんでそんなに偉そうなの? お前はうちにお願いして、薬を売ってもらう立場なんだよ。わかんないの? いいから、どんな夢見たのか言えって」

「嫌」


 莉緒は乃亜を睨みつけた。いじめていた乃亜に媚びるのは、屈辱でしかないのだろう。


「じゃあ、お前には売らない。さっさと帰って」


 乃亜はソファに戻り、スマホでゲームをし始めた。翔はこの場の空気が嫌なのか、愛果が入ってきたのとは別のドアからどこかに行ってしまった。

 莉緒は悔しさと焦りが入り混じったような複雑な表情で乃亜を見つめていたが、やがて俯き、ポツリと小さな声で言った。


「パパと、ママと、キャンプに行った夢」


 乃亜は顔を上げ、きょとんとして莉緒を見た。やがて小刻みに震えると、爆発するような大声で、腹を抱えて笑った。


「パパと、ママと、キャンプに行った夢ぇ?」


 莉緒の言葉を繰り返し、乃亜はさらに笑い転げた。

 莉緒は俯いたまま、制服のスカートを固く握り締めている。その顔は真っ赤だった。目には涙が浮かんでいる。


「何それ、馬鹿じゃないの? 高いお金払ってまで見る夢がそれ? つまんない夢だなあ。つまんない人間だったんだね。ああ、最高。いいよ、売ってあげる」


 乃亜は鞄を持って莉緒の近くまで来た。


「何本欲しい?」

「……五本」

「そんなに? またパパママとキャンプに行くんでちゅか?」


 莉緒は答えなかったが、乃亜は上機嫌で薬を五本差し出した。

 五万円と引き換えに「夢の薬」を手に入れると、莉緒はすぐさま事務所を出て行った。

 愛果は今のやりとりに衝撃を受けていた。

 莉緒が夢に求めたのは、両親との時間だった。確か、莉緒の父親は会社を経営していると聞いたことがある。母親は一度、三者面談の際に見かけたことがあるが、綺麗な人だった。いかにも理想の親という感じで、全てを手に入れているかのような莉緒に愛果は嫉妬したが、実際には両親との関係は上手くいっておらず、人知れず苦しんでいたのかもしれない。

 愛果は莉緒に同情すると同時に、深い安堵を覚えた。あの莉緒ですら、「夢の薬」を欲するのだ。ならば莉緒以上に何も持たない自分が薬を求めるのはごく自然なことではないか。

 何も躊躇する必要はないんだ。堂々と夢のなかに逃げればいいんだ。


「それで、愛果ちゃんは何本欲しいの?」


 まるで愛果の心を見透かしているかのように、乃亜が言った。

 愛果は乃亜に一万円を渡し、「夢の薬」を二本手に入れた。

 帰り道、自転車のペダルを漕ぐ足は軽かった。薬がもたらす危険など、もう微塵も気にならなかった。

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