第3話 人ならざるもの

 土日の間、愛果は何度も乃亜にメッセージを送ったが、既読は付いても返事は一度も返ってこなかった。電話をかけても出ない。

 あの、鳥の足はなんなのか。なぜあんなものが私の口から出てきたのか。あれはあの薬と、あの夢とどういう関係があるのか。

 晴れぬ疑問は不安と恐怖となり、愛果の精神を追い詰めた。鳥の足はすぐにティッシュに包んで捨てたが、脳裏に鮮やかな映像として焼き付き、ことあるごとに思い出してしまう。とても、食べ物を口に運ぶ気にはなれなかった。

それに、最後に夢を見た時から倦怠感が抜けなかった。薬の副作用、ということなのだろうか。

 病院に行くことは憚られた。病気とも違う気がするし、医者を介して変な薬を使ったことが親に知られてしまうことは避けたかった。

 月曜の朝、愛果は乃亜を問い詰める覚悟で家を出た。だが自転車のペダルを踏む足が重く、高校までの通い慣れた道のりが、いつもより遥かに遠く感じる。

 どうにか高校に辿り着き、乃亜にどう切り出そうか考えながら下駄箱に靴を収めていると、近くを歩く生徒が目に入った。

 その女子生徒は、猫背で俯きながら歩いていた。見たことのない生徒だ。違う学年かもしれない。

横顔だけでもはっきりわかるほど、女子生徒は痩せていた。頬骨が浮き、首の肉がなくなって筋が目立っている。

もしかして、と愛果は思った。

 愛果はその女子生徒に近づき、肩をちょんちょんと小突いた。女子生徒はびくりと体を震わせ、不安そうに愛果を見た。


「ちょっと、いいですか?」


 愛果は玄関から離れた、なるべく人気の少ない場所まで女子生徒を連れて行った。

 正面から見た女子生徒の顔は、全体的にほとんど脂肪がなく、骸骨を連想させた。亡くなる前の脇本の姿とそっくりだ。雰囲気から、恐らく三年生ではないかと愛果は思った。


「違ってたらすみません。もしかして、『夢の薬』使ってます?」


 ただでさえ不安そうだった女子生徒は、愛果の言葉を聞いて明らかに動揺した。目は泳ぎ、口がぱくぱく動いている。


「あの、実は私も使ってるんです」


 愛果がそう言うと、女子生徒は安心したように表情から力を抜き微笑んだ。


「そうなんだ。あれ、最高だよね」

「もう何回も使ってるんですか?」

「うん。もう五回かな。私、前は大麻をちょっと吸ってたんだけど、あんなのより全然いいよ。私が本当に欲しいものを与えてくれる」


 大麻、というワードに愛果はショックを受けた。大麻は違法な薬物だ。合法だという「夢の薬」とは全然違うのではないか。それをまるで、同一のカテゴリーであるかのようにこの女子生徒は語っている。

 いや、自分が違うと思っているだけで、やっぱり「夢の薬」も、大麻や覚せい剤と大して変わらないものなのかもしれない。そんな考えが一瞬頭に浮かんだが、愛果は意図的にそれ以上考えないようにした。


「あの、薬を使った後で、変なもの吐いたりしませんでしたか」

「あー、起きたらなんか気持ち悪くて、吐いたことあるよ。一回は血も混じってたことある。びっくりしちゃった」

「血だけですか? 鳥の足みたいなの吐きませんでした?」


 女子生徒は明らかに怪訝そうに首を捻った。


「鳥の足? そんなのないけど」

「そうですか……」


 あれは、薬を使った人なら当然あることではない? 仲間を見つけて安心したいという愛果の願いは叶わなかった。


「昨日の夢も、最高だったな。煌星ロマネスク知ってる?」

「はい。五人組の男の子のアイドルですよね」

「そうそう。私、煌ロマのシリウスくんが推しなんだ。あの薬を使ってさ、私、シリウスくんに会ってるんだよね。シリウスくんが隣にいてくれるだけで、全部どうでもよくなるくらい癒される。これまではライブに行って遠くから見ることしかできなかったのに、今はすぐ近くで触れ合えるんだよ。本当にすごいよ」


 女子生徒は恍惚とした表情で言った。だがすぐに、視線を落として暗い表情になる。俯くと痩せて落ちくぼんだ目の辺りが影になり、本当に骸骨のようだった。


「私、お父さんの介護してるんだよね。きっと大学にも行けないし、好きな仕事もできないし、将来になんにも希望なんてない。幸せだと感じられるのは、薬を使ってる時だけ」

「……わかります。私も同じ」


 愛果はその女子生徒に心から共感した。自分と同じような苦しみを抱えていた。もう少し話したかったが、内容が内容なので、この場ではそれ以上話さなかった。

 やはり三年生で、名前は岡本由衣といった。歩み去る由衣の姿にはまるで精気が感じられず、幽霊のようだった。

 愛果が自分の教室に入ると、すぐに乃亜を見つけた。


「今日、あとで話せる?」


 乃亜はソシャゲの「ミラージュ・ビーナス」を熱心にプレイしており、愛果の言葉が聞こえていないのか、返事をしなかった。愛果は諦めて席に座る。あとでまた話せそうな時に、もう一度声をかければいい。



 昼休み、愛果は半ば強引に、乃亜を校舎裏の薬の取引場所に連れて行った。


「何もう、愛果ちゃん。そんなに薬が欲しいの?」


 乃亜のヘラヘラした態度に愛果は腹が立ったが、そこに怒っても仕方がない。


「ねえ、どうして電話にも出ないし返信もくれないの? 私、いっぱい連絡したじゃん」

「そんなこと言われても、うちだって忙しいんだよ。愛果ちゃんにはわからないだろうけど」

「わかった。じゃあもうそれはいいよ。それより、あの薬を最後に使った時、鳥の足みたいなのを吐いたんだけど、あれはどういうこと?」

「さあ。よくわかんない」

「わからない? そんなわけないでしょ! 乃亜ちゃんがあれを売ってるんだから、何か知ってるでしょ!」

「知らないものは知らないよ。別に鳥の足を吐いたとか、そんなのどうでもいいじゃん。愛果ちゃんにはあれが必要なんでしょ? だったらそれでいいんじゃないの」

「よくないよ! あんな、気持ちの悪い……」


 思い出すだけで、愛果は嘔吐しそうになった。


「じゃあ、もう『夢の薬』使うのやめる? 別にいいようちは。他にも買ってくれる人はいくらでもいるし」

「それは……」


 愛果は言葉に詰まってしまった。あの薬で得られた幸福を思い出す。もうあんなもの使わないと、そう即答できない自分が情けなかった。

 ふと、人の気配がして愛果は振り返った。そこには七七子が立っていた。頭の後ろで束ねた長い黒髪が、風を受けて揺れている。


「今あなたたちが話してた、『夢の薬』って何?」

「別に、何でもないよ。どうして洞口さんがここにいるの?」


 愛果は内心かなり動揺していたが、平静を装った。


「あなたから変な気配がしたから、後をつけさせてもらった。前も感じたけど、あの時はすごく弱い気配だったから気のせいかと思った。でも、さっきすれ違った時、また感じた。前よりも強くなっている」

「気配? なんのこと?」


 七七子は愛果を見つめたまま、一歩近づいた。


「あなたから、人ならざる者の気配を感じる」


 日常生活では聞くことのないその表現を、愛果はすぐに理解できなかった。

 ひとならざるもの。人ではない者。私は人間なのに、一体、何を言っているのだろう。

 そこまで考えて、愛果は思い出した。七七子は霊などを退治できる特殊な力を持っているらしいと、ひかりが言っていた。


「恐らくあなたは、なんらかの怪異に取り憑かれているか、あるいは取り憑かれつつある。ただまだ気配は弱いから、今なら私にも助けられる。だから事情を説明しなさい」


 七七子は愛果たちのすぐ近くまで近づき、背の低い二人を見下ろした。


「誰お前? 愛果ちゃんと大事な話をしてるんだから、あっち行けよ」


 乃亜は七七子を睨みつけた。七七子は全く気にする様子はない。


「さっきの話を聞いた感じだと、あなたがその薬をこの子に渡してるんでしょ。持ってるなら今すぐ出しなさい」

「はあ? 何も持ってないけど。それより、さっきから偉そうなんだよ、お前。ウザいんだよ!」


 乃亜はヒステリックな叫び声を上げた。


「その、バッグのなかに入ってるんじゃないの? 見せなさい」


 七七子は乃亜が肩に掛けているバッグを掴んだ。乃亜は奪われまいと抵抗するが、鍛えている七七子の方が明らかに力が強い。

 愛果は咄嗟にバッグに飛びつき、乃亜に加勢した。バッグにつけられた大量の缶バッジがガチャガチャと抗議するように音を立てた。


「邪魔しないで。私はあなたを救ってあげようとしてるんだよ」


 七七子が愛果を睨みつけた。


「救ってなんて頼んでないじゃん! 言ってること意味わかんないし、あなたちょっとおかしいよ!」


 愛果がそう叫んだ瞬間、七七子がパッと手を放した。急なことだったので後ろにのけ反り、転びそうになったが、ぎりぎりのところで堪えた。

 七七子が考えを変えてくれたのかと愛果は思ったが、今の七七子は愛果たちの方を見ていなかった。棒立ちになり、校舎を凝視している。


「なに、この気配」


 七七子の表情が一層険しくなった。


「怪異に取り憑かれているのは、あなただけじゃないの?」

「どういうこと?」

「あなたから感じるより、はるかに強い気配がする」


 そう言って、七七子は駆けだした。愛果は一瞬迷ったが、その後を追った。

 七七子の言っている「気配」の意味はよくわからなかったが、もしそれが「夢の薬」と関係があるのならば、どういうことなのか詳しく知りたかった。そして何より、今追いかけるべきだという直感があった。

 七七子の走るスピードはかなり速く、校舎に入ってからは見失わないよう必死だった。角を曲がれば姿は見えなくなり、七七子が廊下を蹴る足音を頼りに追いかけねばならなかった。

 辿りついた先は図書室だった。開け放たれた扉からなかに入る。人影はなく、周囲を見回しながら奥に進む。

 最も奥の本棚の裏側に、七七子がいた。床に誰かが倒れていて、その顔を覗き込んでいる。

 そこに仰向けで倒れていたのは、朝、愛果と話をした三年生の女子生徒、岡本由衣だった。

 由衣は寝ているようだった。青白い顔で、半分開いた口からは涎を垂らしている。

「夢の薬」を使ったのだ、と愛果は悟った。

 どうして、学校で薬を使ったのだろう。家に帰るまで我慢できなかったのだろうか。そこまで考えて、愛果は由衣の言葉を思い出した。


──将来になんにも希望なんてない。幸せだと感じられるのは、薬を使ってる時だけ。


 由衣にとっては、薬を使っていない時間は全て、苦痛でしかなかったのかもしれない。学校に来れば自分と違って将来への希望に溢れた同級生に囲まれ、家に帰れば父親の介護に追われる。どこにいても心の救いはなく、窒息しそうだったのではないか。今すぐに逃げ出したくなったのではないか。大好きなアイドルが待つ、夢のなかへと。


「何かいる」


 七七子はそう言って、由衣の胸の辺りに手をかざし目を瞑った。目に見えぬものを手のひらで感じようとしているかのようだった。

 愛果はふと、自分の足元に小さな瓶が転がっているのに気が付いた。七七子がまだ目を瞑っていることを確認し、愛果はそっと瓶を拾ってポケットに入れた。

 その時、由衣の体が跳ねるように大きく動いた。手足を痙攣させ、目を見開き、酸素を求めるように口を大きく開いて呼吸している。

 七七子はポケットから数珠を取り出し、それを左手に握り締めたまま、右手で由衣の体を強く押さえつけた。あまり聞き取れないが、ぶつぶつと何か呪文のようなものを呟いている。


「せ、先生呼んでこようか?」


 愛果の言葉に七七子は返事をしなかった。かなり集中しているようだ。額には脂汗が滲んでいる。

 急に、傍らの本棚が激しく揺れ、本がバラバラと落下してきた。愛果は驚き本棚から距離をとる。誰かが後ろにいるわけではなさそうだ。つまり誰も触れていないのに棚が動いている。

 愛果は耳鳴りを感じた。周囲に見えない力が張りつめているようだった。

 その時、由衣に変化があった。引き攣るような音を喉から出したかと思うと、ただでさえ痩せて肉の少なかった顔が、急速に水分が吸い取られているかのようにさらに萎んでいった。皮膚は骨にぴったりと貼りつき、皺だらけになり、同時に青白かった皮膚が赤黒く変色していった。首筋や手足、見えている皮膚の全てが、顔と同じように変化している。

 目は恐怖しているように見開かれたまま、乾いて黄色く濁っていった。

 この世のものとは思えない恐ろしい光景を、愛果は茫然と見つめた。まるで、生きた人間がミイラになる過程を早送りで見せられているかのようだった。

 由衣はそのまま、動かなくなった。

 七七子は立ち上がり、俯いたままぽつりと言った。


「駄目だった」


 七七子は悔しそうな表情で由衣を見下ろしている。唇を強く噛んでおり、やがてそこから血が流れた。

七七子は咎めるような鋭い目つきで愛果を見た。


「あなたもそのうち、こうなるよ」


 愛果は俯き、震えそうになる体を押さえるように、自分の体を抱き締めた。


「私は、何も知らない」


 こんな時にも保身に走る自分が心底嫌になった。

 怒声が飛んでくることを愛果は覚悟したが、七七子は何も言わなかった。

 その後、何もできない愛果を放置し、七七子は教師を呼び状況を説明した。その説明には嘘が散りばめられていた。超常的な要素は一切排除され、この状態の由衣を偶然発見したということになっていた。

 やがてやってきた警察に愛果も話を聞かれたが、ほとんど何も話さない愛果のことを、警察も教師も恐ろしい光景を偶然発見し大きなショックを受けている可哀そうな女子生徒として認識しているようだった。


「今日はもういい。明日、また話を聞きに行くから」


 七七子は人目の少ない時を選んで愛果にそう言った。愛果は返事をしなかった。

 もし希望するなら今日はこれ以上授業を受けず帰ってもいいと担任教師に言われたので、愛果は帰ることにした。

 教室に荷物を取りに戻ると、乃亜がいないことに気が付いた。クラスメイトによると昼休みのうちに帰ったらしい。

 もう、乃亜は学校に来ないのではないか。愛果はそんな気がした。

 その夜、愛果は悪夢を見た。喉の奥で何かが蠢き、やがて巨大な鳥の足が口から飛び出てくる。足は胴体に繋がっている。足の持ち主が、愛果の口から吐き出される。

 それは、ミイラになった由衣だった。鳥の足が生えた由衣の亡骸はこう言った。

 あなたもそのうち、こうなるよ。

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