第2話 嘔吐
翌日の朝のホームルーム。担任が沈痛な面持ちで、ひとつの発表をした。
脇本が亡くなった、という。
昨日の夜遅く、病院に搬送されそのまま息を引き取ったらしい。原因はまだわからないと担任は話した。
クラス全体に衝撃が走った。誰もが言葉を失い、ひょうきんだった男子生徒の顔を思い出した。親しかった者、親しくなかった者、それぞれの心にそれぞれの痛みを与えた。愛果が目を向けると、意外にも、莉緒ですら表情を曇らせていた。
だが、ただ一人、乃亜だけが違っていた。乃亜は口元に手を当て、机の上に上半身を伏せ、笑いを堪えて体を震わせていた。だがどんなに堪えても、静まり返った教室に、乃亜の喉から漏れる「く、く、く、く」という笑いを押し込める音は大きく響いた。
教師を含め、全員が絶句して乃亜を見た。
結局、教師は乃亜をたしなめなかった。乃亜の笑いは完全に無視し、いつもより少し大きな声でその後のホームルームを進めた。本当なら黙祷の時間を設けたかったのではないか、と愛果は思った。
きっと教師も、乃亜のことが怖かったのだろう。普通の倫理観を持ち合わせていない乃亜と関わることを拒否し、いないものとして扱ったのだろう。誰にもそれを責めることはできない。
この日、愛果は乃亜に一万円を渡し、「夢の薬」を二つ買った。
二回目に薬を使った時も、やはり鼻血が出た。だがきっとそうなるだろうと思っていれば大きなショックはなく、冷静に対処することができた。
三回目は週末に使うつもりだった。一週間頑張った自分へのご褒美に、素晴らしい夢を見ようと思っていた。
前回は、真崎と手を繋いだ。今度は思い切って、キスをしてみたい。想像するだけでも心臓がバクバクし、顔が熱くなった。
待ちに待った金曜日。美術部の活動がない日なので愛果は早く帰って夕飯の準備をし、食後には洗い物と洗濯を素早く片付け、その日の家事ノルマを全て終えて自室に籠った。それからは、未来画展で描く絵の構想を練った。スケッチブックに簡単な絵の構図をいくつも描いていく。だがどれも、いまいち気に入らない。
「あこがれ」をテーマに、真崎をイメージした絵を描くことに決めていた。ただ本人をそのまま描くわけにもいかないので、愛果はシャチの絵を描くことに決めた。シャチは愛果にとって、真崎の分身のようなものだった。
海面をダイナミックにジャンプする姿か、それとも仲間と悠々と泳ぐ姿か。真崎らしい絵にするなら、深海に静かに潜っていく姿でもいいかもしれない。
様々なパターンを描いているうち、気づけば寝る時間になっていた。
鼻血が出てもいいように枕元にティッシュを置いておき、愛果は「夢の薬」の蓋を開けた。最初のような不快な臭いはもう一切感じず、甘い匂いしかしない。
躊躇なく飲み干し、ベッドに入った。ほどなくして、強い眠気を感じる。この薬には、睡眠薬のような効力もあるようだった。
愛果は期待に胸を膨らませ、眠りに落ちた。
夢はいつも、扉の前から始まる。
錆びついた金属製の扉を開け、陰気な地下室に入る。部屋の真ん中に置かれたパイプ椅子に真崎が座っていて、次の瞬間には、愛果が真崎と過ごしたい場所に移動している。
今日の夢は、愛果の部屋だった。
ベッドに腰かけた真崎の隣に、愛果もまた座っていた。
真崎の体重を受け、ベッドが沈み込んでいる。自分がいつも寝ている場所に、真崎がいる。その感覚に、愛果は高揚し、興奮した。これから始まることを予感させる感覚だった。
真崎が愛果の手を握った。ごつごつと骨ばった大きな手。真崎は愛果の目を見つめている。揺れる長い睫毛の下で、憂いを含んだ瞳が濡れている。
愛果は吸い寄せられるように、真崎の顔に自分の顔を近づけた。痛いほど激しく心臓が高鳴る。少しだけ怖くて、思わず目を瞑った。
次の瞬間、唇に柔らかな感触を感じた。真崎の唇は少し乾燥していた。でもその生々しい感触はむしろ、本当に真崎とキスしたのだという大きな喜びに変わった。
顔を放し、目を開けると、真崎は愛果を包み込むような微笑みを浮かべていた。
愛果の体は震えていた。歓喜と緊張で、体を上手く動かせない。
そんな愛果を、真崎は優しく抱き締めた。真崎の匂いと体温を全身に感じ、心が大好きな人で満たされていく。
ずっとずっと夢見ていたことが、また一つ叶った。
ああやっぱり、わたしはしあわせだ。
愛果はゆっくりと目を開けた。体を起こし、周囲を見回す。そこは真っ暗な自分の部屋で、他には誰もいない。
愛果はため息を吐いた。真崎のいない自分の部屋が寂しく殺風景な場所に感じた。夢のなかには喜びがあるのに、目を覚ましたここには、ただのつまらない現実があるだけだ。
体がやけに重かった。眠る前まではそんなことなかったのに、全身に高熱が出た時のような倦怠感があった。
突然、吐き気を感じ、慌ててベッドから起き上がる。胃からこみ上げる感覚は強烈で、トイレに駆け込む余裕はなさそうだ。電気を点け、近くにいらないビニール袋がないか素早く目を走らせるが、どこにもない。
堪えきれず、愛果は床に膝をつき、そのまま吐いてしまった。びしゃ、びしゃ、という液体が勢いよく零れる音が狭い部屋に響く。
吐き出されたものを見て、愛果は動揺した。それは血だった。
そしてよく見ると、床に広がる血のなかに、何かがある。
オレンジ色の、団扇のようなもの。だがそれは無機物ではなく、生き物の質感だった。
棒状のものが途中で三本にわかれ、間に膜が張っている。枝分かれした先端には鋭い爪がある。
愛果はそれが何なのかわかると、戦慄し、悲鳴を上げた。
血と共に吐き出したそれは、鳥の足だった。
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