第2章

第1話 七七子

 昼休み、ひかりには少し昼食に遅れると伝え、愛果は乃亜に指示された場所にやってきた。校舎と野球部部室棟それぞれの陰になっており、人目につきにくい場所だ。放課後、部活が始まってからならともかく、昼休みにここに来る者はほとんどいない。

 愛果が現れると、乃亜はにやにやとした笑いを顔に貼りつけ、跳ねるような足取りで近寄ってきた。


「どうだった?」


 乃亜は開口一番そう言った。

 愛果はただ「後で話したい」と言っただけなのだが、乃亜には全てわかっているようだった。

 乃亜の手のひらの上で踊らされているようで、愛果は話すのを躊躇した。だが迷った末、正直に答えるしかない、と諦めた。


「結構、よかった」

「でしょ? 愛果ちゃんにはあの薬が必要だと思ったよ」

「それで、アレ、もっとある?」

「あるよ。欲しい?」


 愛果は頷いた。


「じゃあ、五千円ね」


 愛果は驚き、「えっ」と声を漏らした。

 目を丸くする愛果を見て、乃亜はけらけら笑った。


「当たり前じゃん。どんなものでも、欲しかったらお金を払わなきゃ。サービスは最初の一回だけだよ」

「でも、五千円は高いよ」

「そんなことないよ。他の人には一万円で売ってるんだから。愛果ちゃんは親友だから、特別に半額にしてあげてるんだよ」


 愛果は乃亜のことを親友だとは全く思わなかったが、あえて否定はしなかった。


「他の人にも売ってるの?」

「うん。欲しい人には誰でも売ってあげる。みんな、一度使えば夢中になっちゃうんだよね。人気だから、愛果ちゃんも早く買わないとなくなっちゃうよ」

「……わかった。じゃあ今日はお金ないから、明日持ってくる」

「おっけー。なら愛果ちゃんのために残しておくね」


 乃亜はそう言って、肩に掛けていたバッグを腹の位置に回した。バッグには缶バッジがたくさんつけられており、そのひとつひとつに乃亜と同じ紫色のメッシュが入った髪型のキャラクターが描かれている。


「エルちゃん、可愛いでしょ。でもうちの推しだから、愛果ちゃんは好きになったら駄目だよ。勝手に推したら絶交だから」


 全く興味のない愛果は曖昧に頷いた。

 乃亜はバッグを開き、なかを見せた。そこには「夢の薬」が十本近くも入っていた。


「いつも持って来てるから、欲しい時は遠慮なく言ってね」


 愛果の頭に、考えないようにしていた疑問が浮かんできた。そもそも、この怪しい薬をどこで手に入れたのだろうか。


「……ねえ、乃亜ちゃんトー横に行ってたって聞いたけど、ほんとなの?」


 家出した少年少女が集まり様々な問題が起きているトー横の話は、愛果も度々耳にしていた。その問題のひとつに、薬物の過剰摂取、オーバードーズがあることも。

 それまでヘラヘラしていた乃亜の顔が急に真顔になった。しまった、と思い慌てて手を振る。


「ご、ごめん。変なこと聞いちゃった。全然、嫌なら話さなくていいから」


 乃亜は無表情で愛果を見ていたが、やがて吹き出して声を上げて笑った。


「あははは! 別にいいよ、愛果ちゃんなら話してあげる。そうだよ、トー横に行ってたよ。というか、今でも時々行ってるけど。あそこは学校なんかより、ずっと楽しい場所だよ。うちのこともすぐに受け入れてくれたし」

「でも、悪い人がいるから危険だってネットで見たけど」

「悪い奴なんてどこにでもいるじゃん。学校にもいるでしょ。くだらないことで嫌がらせする奴とかさ。トー横のこと、ネットとかでは色々言われてるけど、そんなに悪い場所じゃないよ。みんな基本、良い人だし。まあ、一人だけ嫌いな奴がいたけど、でももういなくなっちゃった」


 そう言うと、乃亜はげらげら笑った。

 愛果は乃亜の笑い声が嫌いだった。常に他人への嘲りと無理解が含まれている気がした。


「もしかして、この薬もトー横で手に入れたの?」

「まあ、そんなところかな」

「悪い人から買ったんじゃないよね?」

「全然違うよ。この前も言ったけど、合法な薬だから安心して使って」


 そう言われても、愛果はどうしても乃亜のことを信用しきれなかった。だがこれ以上質問して乃亜の機嫌を損ね、「夢の薬」が入手できなくなることは避けたかった。

 乃亜の言う通りだった。一度使えば、夢中になってしまう。

 だが大丈夫。本気でやめようと思えば、いつでもやめられる。明確に危険だと判断したら、それ以上使わなければいいだけだ。私ならいつだって自制できる。

 この時の愛果は、そう思っていた。



 急いで美術室に向かうと、すでにひかりは弁当を食べ終えていた。愛果は登校途中で買ったコンビニのおにぎりを急いで頬張る。昆布のおにぎりと、オムライスのおにぎりだ。サラダも買ったが、ドレッシングを買い忘れてしまった。


「脇本くん、昨日から休んでるらしいね」


 ひかりが弁当をランチバッグに片付けながら言った。愛果は口いっぱいに頬張っていたオムライスおにぎりを喉に詰まらせそうになりながらなんとか飲み込む。


「うん。先週から、明らかに具合悪そうだったもん」


 愛果は先日の、薄暗い廊下に立つ痩せこけた脇本の姿を思い出した。肉体も、精神も、健全な状態には思えなかった。


「やっぱり、片桐さんにフラれたストレスかな。美女って罪な存在だよねえ。色んな人が勝手に好きになって、勝手に傷ついていくんだからさ。私、美女に生まれなくてよかった」


 ひかりはそう言って笑った。

 ふと、愛果の脳内に、もしかして脇本も「夢の薬」を使ったのではないかという考えが浮かんできた。先日、必死になって乃亜に何かを懇願していたのは、薬を売って欲しいという意味ではないか。そう考えると、あの不気味なやりとりも説明がつく。

 では、薬を使い続けるとあんな風になってしまうのだろうか。

 愛果は頭を振り、嫌な考えを振り払った。いや、覚せい剤とかそういう違法な薬物だって、長い時間をかけて使用者の体を蝕むはずだ。乃亜が学校に姿を現すようになってまだ三週間ほどしか経っていない。それからすぐに乃亜から薬を買うようになったとしても、こんな短期間で痩せ衰えるというのは考え難いだろう。つまり脇本が痩せている理由は、莉緒にフラれたショックで食べ物がほとんど喉を通らなくなったからか、あるいは元々何かの病気だったに違いない。

 そう、愛果は結論づけた。


「そういえば、ひかりちゃん未来画展の題材決めたんだって? 真崎先生が言ってたけど」

「うん。めっちゃ良いの選んだよ。まだ交渉してないけど」

「交渉?」

「ある人を描こうと思ってね。面白い子だよー」


 ひかりは意味深にニヤリと笑った。


「そうだ。今日は部活もないし、愛果ちゃんも一緒に来てよ」

「何に?」

「交渉だよ、交渉」



 放課後、愛果がひかりのクラスに向かうと、ひかりが慌てた様子で廊下に飛び出してきた。


「どうしたの?」

「荷物まとめてる間に見失っちゃった。あの子帰るの早すぎるよ」


 ひかりはそう言って、手近にいる男子生徒を捕まえた。


「ねえ、洞口さんもう帰っちゃったよね?」

「知らないよ。でももしかしたらトレーニング室に行ってるかも。前、放課後にそこで見たことある」

「だって! 愛果ちゃん行こう」


 そう言って駆け出したひかりを、愛果は慌てて追いかけた。

 だが美術部の二人は、運動部が使用するトレーニング室の場所を明確には把握しておらず、辿り着くまでに十五分もかかってしまった。

 ドアを開けてトレーニング室に入る。ひかりは特に気にしていないようだったが、愛果は初めての場所に緊張した。

 なかに入ると、汗の饐えた臭いがむっと鼻をついた。使い込まれた様々なトレーニング機器がたくさん置かれていて、数名の男子生徒がそれらを使い体を鍛えている。体格のいい男子生徒が、薄いシャツを着て重そうなダンベルを持ち上げているのが目に入った。愛果は薄着の男子生徒を見てはいけないような気がして、急いで顔を伏せた。

 明らかに場違いな女子二人が入って来たので、一瞬室内の視線が入口に集中した。だがすぐに、それぞれのトレーニングに意識を戻した。


「あっ! いた!」


 ひかりが声を上げ、トレーニング室の一角を指差した。トレーニング機器と人の間を縫い、そちらに向かう。

 ベンチに寝転び、重そうなバーベルを持ち上げているその人物は、驚いたことに女子生徒だった。学校指定のジャージを着て、長い黒髪を一つに束ね、汗を浮かべた真剣な表情で筋肉を鍛えている。

 愛果はその女子生徒に見覚えがあった。確かひかりと同じクラスの生徒だ。身長百七十センチほどと背が高く、スラリとした体形で遠くからでも目についた。さらに顔も、切れ長の目が印象的な濃い顔立ちの美人で、なおさら目立っていた。

 ひかりは、この人を未来画展の題材にするつもりなのだろうか。

 ひかりは嬉しそうな顔で、彼女がトレーニングする姿を見ていた。恐らく、邪魔をするのは悪いと思って声をかけないのだろう。とはいえ、こんな近くで凝視されては集中できないはずだ。


「あ、そうだ。愛果ちゃん、この人、洞口七七子さん。見ての通り絵になる美人さんでしょ」

「ねえひかりちゃん、今は迷惑じゃない? また今度にしたら」


 愛果は小声で言った。

 七七子は愛果たちに視線を向けると、バーベルをスタンドに置いた。怪訝そうな鋭い目でひかりと愛果を交互に見ながら、額をタオルで拭う。


「なに?」


 明らかに不機嫌そうな声だった。


「洞口さん、お願いがあるんだけど」


 ひかりの言葉に、七七子は警戒するように眉を顰めた。


「私の絵のモデルになってくれない?」

「はあ?」

「今度、高校生向けの大きな絵画展があるんだよね。そこに提出する作品のモデルになって欲しい! 私、前々から洞口さんのこと描きたいなーって思ってたんだよね」

「嫌だよ。そんな暇ない」

「ちょっとだけでいいから。お願い」

「だから、私は毎日忙しくてそんなことしている時間はないの。話はおしまい。もう帰ってくれる?」


 七七子は突き放すようにそう言うと、ベンチから立ち上がり別のトレーニング機器の方に歩いて行った。

 ひかりが傷ついたのではと愛果は思ったが、顔を見ると特にそんな様子はなく平然としていた。恐らく、普段からあんな感じなのだろう。


「あの人、なんかスポーツの選手なの?」


 七七子は、先ほどの男子生徒を追い払ってダンベルで腕の筋肉を鍛え始めていた。


「うーん。スポーツやってるとは聞いたことないな。部活にも入ってないはずだし」

「なのに、いつもあんなに鍛えてるの?」

「ね? 不思議な子だよね」


 ひかりはどことなく嬉しそうにそう言った。愛果は内心、自分の親友にここまで好かれる七七子に嫉妬を感じていた。

 ひかりは、歯を食いしばってダンベルを持ち上げる七七子に近寄り、「じゃあ、忙しそうだからまた誘うね」と言うとトレーニング室を出た。

 愛果も出口に向かうため七七子の横を通った。すると突然、七七子が愛果の腕を掴んだ。

 驚いて振り返ると、七七子はダンベルを床に置き、荒い息を吐きながら愛果を見つめていた。


「な、なんですか」


 七七子は何も言わず、鋭い目を細めて愛果を睨みつけた。愛果は自分より十五センチも大きい七七子に見下ろされ、恐怖で体を竦めた。


「あなた……」


 七七子はそう言って、また沈黙した。七七子の真っ黒な瞳に見つめられると、心の奥まで見透かされそうに感じた。

 この人は、何を言おうとしているんだろう。

 愛果が七七子の腕を振り払って逃げようかと思っていると、七七子の方から手を離した。


「ごめん、やっぱなんでもない」


 七七子は再びトレーニングに戻り、それきり何も言わなかった。

 愛果は不機嫌な表情でトレーニング室を出ると、入口の近くで待っていたひかりに抗議した。


「ねえ、あの人なんなの? 急に私の腕掴んでさ、すごい怖かったんだけど」

「洞口さん、変わったとこあるからなあ」


 ひかりは気にしていないようだ。愛果はその態度になおさら腹が立った。


「なんで、あんな人の絵を描きたいの? 今回のテーマは『あこがれ』でしょ? 確かに美人だけど、変だし憧れる意味がわからないよ」


 愛果はひかりと並んで歩きながら不満を口にし続けた。七七子をなぜ描きたいのか、ひかりは口を濁しなかなか納得のいく説明をしてくれなかったが、自転車を押しながら校門を出たところでようやくその理由を話し始めた。


「私、前に洞口さんに助けてもらったことがあるんだよね」


 そう言って、ひかりは周囲に目を走らせた。聞き耳を立てている人がいないか確認しているようだった。


「三カ月くらい前かな、外での体育の授業中に、同じクラスの子が変になったことあったんだ。その子が『気持ち悪い』って言うから、暑い日だったし熱中症かなと思って私が付き添って保健室に向かったの。そしたらなぜか洞口さんも後ろからついて来てさ。それで、廊下を歩いてたらいきなり、その具合悪かった子の様子が変わってさ、動物みたいに歯を剥き出して呻きながら、私に噛みつこうとしてきたんだよ。目も血走っててすごい怖かった。そしたら、黙って後ろに付いて来てた洞口さんがその子を私から引き剥がして、馬乗りになって抑え込んだんだよね。そしてなんか、呪文みたいなこと言ったんだ。何度かその呪文を言ってるうちに、その子の様子が落ち着いてきて、いつもの感じに戻ったんだよね。『あれ、なんで私ここにいるんだろう』って感じだった」


 愛果は聞きながら、これはひかりの新しいパターンの冗談かもしれないと思ったが、ひかりの表情は真剣そのものだった。


「何その話。今までそんなこと話してくれなかったじゃん」

「だって、洞口さんが絶対言うなって言うんだもん」

「で、結局なんだったの、それは」

「洞口さんが言うには、動物霊が憑いてたんだって。体とか心が弱ると、その辺にいる動物霊が体に入って来ることがあるから、あなたも気をつけなさいって言われた。何をどう気を付けるのかさっぱりわからないけど」

「動物霊? 本気なの?」

「洞口さんは、なんかそういうのに詳しいみたい。田舎のおばあちゃんが祈祷師だとか、そんなこと言ってた」


 非現実的な話の展開に、愛果は気が遠くなるような気分だった。


「その出来事が本当だとして、ひかりは洞口さんの言うことを信じてるの?」

「私は実際にこの目で見たから、信じてるよ。それにあの子、そんな大胆な嘘つけるほど器用じゃないと思う」


 ひかりはそう言って笑った。


「……そっか。まあ、ひかりちゃんがそれでいいなら、私はもう何も言わないよ」


 ひかりが何と言おうと、愛果には今の話を簡単に信じることはできなかった。ただ、親友が真剣に話したことを、嘘だと決めつけることもしたくなかった。

 人の「あこがれ」を否定してはいけない。愛果にだって、それくらいのことはわかっていた。

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