第4話 夢の薬
その夜、愛果は家事を手伝い、風呂に入り、宿題をし、好きな漫画の最新刊を読み、その感想についてひかりとメッセージでやり取りし、歯磨きをし、だらだらと見る必要もない動画を見て、つまりいつもと同じ夜を規則正しく過ごした。そしていよいよ眠るかという時、乃亜から貰った小瓶について思い出した。
明らかに怪しい品だったので、学校に捨ててこようかとも思った。だがそれはしなかった。ほんの少し、興味があったことは事実だった。
ベッドに寝転び、愛果は小瓶を眺めた。
これを飲んで眠れば、夢に真崎が出てくるという。しかも、その真崎とは何でも好きなことができるというのだ。
それはいわゆる、「これは夢だ」と自分で自覚している夢、明晰夢とは違うのだろうか。明晰夢なら、多少は夢のなかでも自由が利く。つまりこれは、明晰夢を見られる薬、ということではないか。もちろん、必ず明晰夢を見られるのならば、それはそれですごいのかもしれない。
愛果は小瓶を机の上に置いた。
安全性の保障されていないものを口にする気にはなれなかった。特に、乃亜から貰ったものは信用できない。
それに、先生なら何度も夢に出てきている。変な薬になんて頼らなくてもいい。
そう思い眠りについたが、その夜夢に現れたのは、愛果の服を強引に脱がそうとする莉緒だった。
週が明けた月曜日、美術部の活動が終わり帰り支度をしていると、愛果は真崎に呼び止められた。何ごとだろう、と愛果は緊張と高揚を胸に真崎の前に立った。
真崎は他の生徒が美術室を出たのを見計らって話を始めた
「須磨、そろそろ未来画展で何を描くのか決めたか?」
未来画展、正確には「東京未来画展」は、東京都内の高校に通う学生を対象に行われる絵画展だ。毎年一月末に開催され、多数の作品のなかから優秀作品が選ばれ表彰される。応募締め切りは十二月末で、今日は十月二十日。美術部の活動時間で完成させることを考えると、そろそろ構想を固めておきたい時期だった。
「いえ、まだです。考えてはいるんですけど、決めきれなくて」
「今年のテーマは『あこがれ』だったよな。松木はもう決めたって言ってたぞ」
「そうなんですか」
その「あこがれ」というテーマがなかなか難しかった。それこそ真崎こそあこがれの対象ではあるが、そういう「あこがれ」を描くのは、何か違う気がしていた。
では何に「あこがれ」ているのか。愛果は絵が好きだが、実は特定の好きな画家がいるわけではなかった。他の人のように熱く語れる画家がいないことに、負い目を感じてすらいた。あくまで愛果が好きなのは、自分の手を動かして何かを生み出すことなのだ。
「まだ日はあるけど、こういうのは後々時間が足りなくなるのが常だからな。なんであの時もっと急がなかったんだろう、早く取り掛からなかったんだろう、ってな。俺はいつもそんな後悔ばかりだよ。須磨、今回のコンクール、他の部員よりも特にお前にとっては大事じゃないのか?」
愛果は俯き沈黙した。真崎が何を話したいのかわかった。
「須磨、親御さんに話してみたのか? 美大に行きたいって」
「先生、前に言ったじゃないですか。私もう、諦めてますから。うちの親は、特に母は美大なんて絶対に認めません。それに、そもそも私の力も全然足りないし。最近は部活でしか描いてないし」
「でも部活中は一生懸命やってるじゃないか。俺は専門外だから技術的にどれだけ上達したのかわからないけど、それを客観的に判断してもらえる絶好のチャンスが未来画展だろ? そこで賞をとれれば、親御さんを説得する十分な材料になるって」
そうだろうか。外で体を動かし多くの人と交流することこそ人生の喜びだと思っている母は、自分の娘が家に閉じこもり絵を描くことを、非常に疎ましく思っている。陰鬱で浅ましい行いだとすら思っている。賞をとったとか、そんなことくらいで金のかかる美大に行かせてくれるとは、愛果には思えなかった。
「賞がとれなかったらどうするんですか?」
「そん時はそん時だ。コンクールの結果なんかなくても説得できるうまい言い訳を、俺が一緒に考えてやるよ」
真崎は軽い調子でそう言った。
「どうしてそこまで。別に、私が美大に入らなくても、先生には関係ありませんよね。むしろ普通の大学に入った方が将来安定した生活ができるぞって、教師だったら説得すべきなんじゃないですか」
口にしてすぐに、なんでこんな嫌味なことを言ってしまったのだろう、と後悔した。真崎は美術部顧問という立場から、こう言っているだけなのに。
「いや、関係はある。俺な、結構お前の絵のファンなんだよ」
愛果は顔を上げ、真崎を見た。真崎にはふざけている様子はない。
「須磨、お前もあと一年ちょいでここを卒業していくだろ。そうなったら俺はもうお前の絵を見られない。でも、お前がプロの画家になったら、いつかどっかの画廊とかでお前の絵を見られるかもしれんだろ。だから、是非とも美大に行ってプロになってもらわなきゃ困るんだよな」
愛果は思わず吹き出した。
「なんですかそれ。買ってはくれないんですか?」
「いや、俺の月給じゃ何十万もする絵は買えないよ……」
バツの悪そうな真崎が可笑しく、愛果はひとしきり笑った。
「いいですよ。私がプロになったら、先生に絵をプレゼントしてあげます」
「お、嬉しいね。じゃあ、前に描いてたあれがいいな。あの、誰もいない部屋に一輪の赤いコスモスがあるやつ。俺、あの絵すごい好きだったんだよなー」
「先生、あれ、コスモスじゃなくてガーベラですよ」
「そうなの? ずっとコスモスだと思ってた……」
真崎はまたバツが悪そうに苦笑いし、鼻の頭を掻いた。その様子がどうにも可愛らしかった。
やっぱり、私にとっての「あこがれ」は先生しかいない、と愛果は笑いながら確信した。
愛果はベッドに入るまで、今日の真崎とのやりとりを何度も何度も頭のなかで反芻した。明かりを消し目を瞑ってもなお興奮は冷めやらず、むしろ暗闇と静寂のなかで真崎の存在は大きくなった。
とても眠れる気がせず、消したばかりの明かりを再び点け、机の引き出しからシャチのキーホルダーを取り出した。
ベッドに寝転びシャチを見つめる。数百円の、大事な宝物。
愛果はシャチにキスをした。硬くて冷たくて、少し空しくなる。
先生と、恋人同士になりたいな。これまで以上に、その思いが強くなった。
でもそんなの、夢物語でしかない。
夢物語でしか。
ふと、数日前に乃亜に貰った薬のことを思い出した。それは無造作に机の端に転がっていた。
手に取り、じっと見つめる。
これを飲めば、本当に夢のなかに真崎が現れるのだろうか。その夢のなかで、恋人同士のようにふれ合えると言うのだろうか。
試しに、ほんの少し舐めてみようかな。
愛果は瓶のキャップを開けた。金属製の蓋はきつく締めてあり、それなりに力を入れなければならなかった。
液体は少し粘度があるようだった。鼻を近づけ、においを嗅いでみる。
最初、生臭いと思った。腐敗臭のような、動物の尿のような、とにかく嫌な臭いだった。だがそれは最初のほんの一瞬だけで、次の瞬間には蜜を連想させる甘い匂いに変わっていた。山奥に生える未知の美しい花から、ほんの少しだけ採れる特別な蜜。それはきっと、舌も脳もとろけるような、甘美な味わいに違いない。
少し舐めて味を確かめるだけのつもりが、愛果は気づけば一息に飲み干していた。予想に反して、味は少し苦かった。
腹のなかに入った液体は、普段口にする飲み物や食べ物、薬とも違う、奇妙な異物感があった。液体自体が熱を持ち、僅かに震えているような、気味の悪い感覚だった。
これは本当に、飲んでもよいものだったのだろうか。愛果は不安になり、腹を押さえながらベッドに腰を下ろした。
次の瞬間、頭がぐらりと揺れた。目が霞むほどの強烈な睡魔が襲ってきた。
困惑と恐怖はすぐに意識と共にかき消され、愛果は眠りに落ちた。
これは夢だ、と愛果はすぐにわかった。
さっきまで自分の部屋にいたはずなのに、目の前には陰気で錆びついた金属製の扉があった。そしてその扉以外、周囲の景色はピントが合っていないように曖昧だ。首は前方に固定されており、後ろを振り返ることはできない。
手足の感覚はふわふわしていて、自分の体なのにゴムの人形のように感じられた。頭もどこかぼんやりしている。夢のなか特有の感覚だ。
愛果は錆びたドアノブに手をかけ扉を開けた。軋んだ嫌な音と共に扉は開き、また同じ音を立てて閉まる。
なかは暗く湿った地下室だった。天井には古い配管が剥き出しになっており、部屋の隅の床には地下水なのか水たまりができている。
部屋の中心にパイプ椅子があり、そこに真崎が座っていた。真崎は柔らかな微笑みを浮かべ、愛果を見ていた。
愛果が一歩近づくと、そこは地下室ではなく美術室になっていた。真崎はいつもの窓際の椅子に座っていて、愛果はすぐ近くに立っていた。
さっきまでぼんやりしていた五感が、急に全て明瞭になった。美術室の匂いを感じ、真崎の呼吸の音が聞こえ、指先に血が通ったように力が満ち、舌に唾液の味を感じ、そして窓からの夕日を受けて光る埃と、その向こうの真崎の姿が、現実と違わぬ精細さで見えた。
だがこれは夢だ。真崎はこんな風に、何も言わず穏やかな微笑みで愛果の目を見つめたりはしない。
愛果は手を伸ばし、真崎の頬に触れた。ちくちくとした無精ひげと、想像以上に柔らかな皮膚の感触。その奥の固い頬骨。愛果の指先よりも温かい体温。手のひらに真崎の鼻息がかかりくすぐったい。
真崎は立ち上がり、躊躇なく愛果を抱擁した。痩せているが、力強くて温かい。全身が真崎の匂いに満たされる。
愛果も真崎の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き締めた。力いっぱい、真崎の体と同化するくらいに。
鼻の奥がツンと痛み、涙が込み上げてきた。たまらず嗚咽を漏らす。
ずっとこうしたかった。ずっとずっと夢見ていた。やっと夢が叶った。
愛する人を抱き締めるというのは、想像するよりも何倍も心地よく、幸福感に満たされる行為だった。そして驚いたことに、真崎からも愛を感じた。明確な愛情を感じる抱き締め方だった。
先生も、私のことが好きなんだ。
愛果は子供に戻ったように声を上げて泣いた。もはやこれが夢だろうと、現実だろうと、どっちでも良かった。ここには私と先生がいて、そして私たちは愛し合っている。
わたしは、しあわせだ。
目を覚ますと、そこはいつもの自分の部屋だった。
まだ暗い。時計を見ると夜中の零時四十八分。一時間ほどしか眠っていない。
目元を拭うと手が濡れる感触があった。夢のなかだけでなく本当に泣いていたらしい。
胸がどきどきしていた。夢から覚めてなお、興奮が持続していた。夢で見た内容も、一切ディティールが失われることなく完全に覚えている。やはり普通の夢とは違う。
これは、すごい薬だ。
無性に喉の渇きを感じ、愛果は部屋を出て階段を下りた。
ウォーターサーバーの前まで行き、コップに水を注ぐ。
飲もうとして口元に近づけた時、コップに何かが落ちた。透明な水に、赤い液体が花のように開き、やがて溶けていく。ぱたぱたぱたっ、と続けて赤い雫がコップに降り注ぐ。
鼻血だ。鼻血が出るのは小学生ぶりのことだった。
どうして、鼻血が出たのだろう。
愛果はぼんやりと、コップに降り注ぐ血を眺めた。出血量は多く、水はどんどん赤黒く染まっていく。
頭が上手く回らない。ただただ喉の渇きだけを感じた。
己の血で濁った水を、愛果は躊躇なく、一息に飲み干した。
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