第3話 雨

 乃亜はそれから二週間が経っても毎日登校し続けた。愛果にとって、そして他の生徒や教師にとってもそれは意外なことだった。特に担任の教師は、その予想外の変化に喜んでいた。

 授業態度にやる気は見えず、制服の上に紫のパーカーを着用するという校則違反を犯してはいるものの、遅刻も早退もしなかった。乃亜は不登校になる前から欠席や遅刻が目立っていたので、以前よりも良い状態ということになる。

 乃亜は隣の席の愛果に度々話しかけてきた。他愛ない雑談が多かったが、どこか微妙に話が噛み合わなかったり、急に不機嫌になったりするため、正直なところ楽しくはなかった。

 特に、莉緒が明らかに乃亜を敵視し、再び小さな嫌がらせ行為をはじめていたため、自分もターゲットになるのではと恐々とする毎日だった。

 唯一の癒しは、やはり美術部だ。これまで以上に放課後を心待ちにするようになっていた。

この日は日直の仕事があり、放課後少し遅れてから美術室に向かった。美術室は他の建物のため、渡り廊下を通っていくことになる。

 十月の冷たい雨が降っていた。風も強く、渡り廊下に雨が吹き込んでいる。愛果は少しでも濡れるのを避けようと、小走りで渡り廊下を進んだ。

 もう少しで隣の建物に辿り着くという時、雨のなかから話し声が聞こえた気がして、愛果は立ち止まった。

 周囲を窺うと、少し離れた校舎の影に、傘を持った数名の人影が見える。雨と風の音に紛れてよく聞こえないが、何か揉めているようだった。人影は何かを囲んでいるようだ。

 やがて、笑い声が聞こえると、人影が揺れて崩れ、こちらに向かって歩き始めた。愛果は反射的に、校舎のなかに身を隠した。

 身を隠す直前、見えたその顔は莉緒だった。

 柱の陰で息を殺し、莉緒とその取り巻きが通り過ぎるのを待つ。幸い、愛果には気づいていなかったようで、そのまま歩み去った。

 完全に遠くまで行ったと確信できてから、渡り廊下に戻り、先ほど莉緒たちがいた場所を見た。

雨に打たれながら、乃亜が地べたに座り込んでいた。近くには紫のパーカーが投げ捨てられている。

愛果は迷ったが、乃亜のもとに歩み寄った。顔に当たる雨が冷たい。近くまで来ると、乃亜はずぶ濡れで、足やスカートは泥だらけだった。もちろん、脱ぎ捨てられたパーカーも茶色く汚れている。


「だ、大丈夫?」


 乃亜は俯いていたが、愛果の言葉に顔を上げた。


「愛果ちゃん、ティッシュ持ってない? パーカーが汚れちゃった」

「え、ティッシュなら持ってるけど……」


 ティッシュでどうこうなるレベルの汚れ方ではない。


「美術室行く? あそこならタオルあるし」


 愛果は乃亜に手を貸して立たせた。腕が冷え切っている。早く、拭いてあげた方がいいだろう。

 美術室のある校舎に入ると、雨の日なので建物のなかも薄暗かった。体育館で練習をするバレー部の声が、廊下を反響しながらうっすら聞こえてくる。

歩くと、きゅっきゅっという足音と共に、廊下に愛果と乃亜の足跡が残された。あとで拭いた方がいいかな、と思いながら顔を上げると、すぐ近くに誰かが立っているのに気づいた。

 何の気配もなく現れた人影に、愛果は思わず悲鳴を上げた。その人物の風貌が、一瞬人ではないように感じたことも理由だった。

 制服を着ているので、男子生徒であることだけはすぐわかった。その目は、薄暗い廊下でもはっきりとわかるほどに見開かれ、らんらんと輝いている。重度の病人のように痩せて頬がこけ、茶色く染められた髪は薄くなりぺったりと頭部に貼りついていた。

 愛果はこの人物が、先日莉緒に告白した脇本だと気が付いた。莉緒にフラれた直後は酷く落ち込み、食事も喉を通っていないようだった。そのせいかここ数日、急激に痩せはじめ、周囲の友人たちも心配していた。

 しかし不思議なことに、最近の本人は至って溌溂としていた。教室では以前にも増してよく笑い、ふざけていた。その一方で、日に日に体は弱っているように見えた。

 脇本は満面の笑みを浮かべ、口を開いた。


「畑中さん、探したよ」

「人のいるところでは話しかけないでって言ったよね」


 乃亜の言い方は冷たかった。


「でも、連絡しても全然返事くれないし……」

「約束破るなら、もうないから。行こう愛果ちゃん」


 乃亜が愛果の腕を引っ張り、脇本の横を通り先に進もうとした。すると脇本は愛果たちの進路を塞ぐように移動し、その場で土下座をした。


「ごめんなさい! 許して下さい! もうしませんから!」


 静かな廊下に脇本の絶叫が響く。

 愛果はあまりの事態に言葉を失った。体調不良の痩せこけた同級生が、先日まで不登校だった同級生に土下座するなど、全く理解を超えた光景だった。明確な上下の存在する、しかも健全ではない関係性に感じられる。


「今日はもういいので明日! それが駄目なら明後日! どうかお願いします!」


 脇本は額を廊下にこすりつけながら言った。


「わかった、じゃあ明日ね」


 乃亜は淡泊にそれだけ言うと、愛果を引っ張り、土下座する脇本の横を通って美術室の方向に向かった。


「……ねえ、さっきの何?」


 乃亜の顔を見て、愛果はギョッとした。

 乃亜は笑っていた。口に手を当て、吹き出しそうになるのを堪えて小刻みに震えている。それでも漏れ出た音が、「く、く、く」と聞こえてきた。

 愛果はそれ以上何も聞けず、重い足取りで美術室に向かった。



 美術部には三人の生徒が先に来ていた。ひかりと幾人と一年生の紗織だ。

 乃亜の濡れた服を脱がせる必要があったため、幾人には帰って貰うことになった。不満そうにぶつぶつ言いながら幾人が美術室を出ていくと、残った女子三人で、乃亜の世話をすることにした。

 露わになった乃亜の腕には、リストカットの跡が無数についていた。愛果たちは顔を見合わせたが、何も言うことができなかった。

 乃亜は体操着を学校に持ってきていないらしく、たまたま今持っていたひかりのものを着せることにした。泥汚れが付いた紫のパーカーは、紗織が何度も石鹸をこすりつけながら洗って綺麗にした。

 紗織が綺麗になったパーカーを乃亜に見せると、乃亜は「ありがとう」ではなく「干しといて」と言った。紗織は表情を曇らせたが、言われるがままタオルを干す用のワイヤーにパーカーを干した。紗織は続いて、制服の泥汚れを落とすのに取り掛かった。ひかりもそれを手伝う。


「あのパーカー、ミラビの公式グッズなんだよ。いいでしょ」

「ミラビ?」


 愛果が首を捻る。


「は? ミラビ知らないの? 『ミラージュ・ヴィーナス』だよ。ソシャゲの。エルちゃんの衣装なんだよね」

「ああ、CMとかやってるよね」

「あいつら、うちがエルちゃんの服着てるのが気に入らなかったみたい」


 莉緒たちはこの紫色のパーカーを無理やり脱がせるために、校舎裏まで乃亜を呼び出したようだった。雨の日を選んだのも意図的かもしれない。

 その時、美術室の扉が開き真崎が現れた。


「あれ? 畑中さんじゃない。どうしたの」


 愛果は真崎に、今日のいきさつを説明しようと口を開きかけた。だが乃亜は、愛果の顔の前に手を差し出しそれを制した。


「雨で泥だらけになっちゃったんで、愛果ちゃんたちに助けて貰ってたんです」

「ああそう。じゃあ体冷えてるでしょ。なんか温かい飲み物買って来てあげる。みんな希望ある?」


 それぞれのリクエストを聞き、真崎は美術室を出て行った。

 やっぱり先生は優しい。愛果は真崎の去った扉を見続けた。


「ねえ、あの先生って、ホームレスみたいだよね」


 乃亜がそう言った瞬間、愛果のなかで急激に怒りが燃え上がった。拳を握り締め、座っている乃亜の前に立つ。


「なんでそんな失礼なこと言うの? 先生は畑中さんのために飲み物買いに行ってくれたんだよ!」

「私だけじゃなくて、みんなの分もでしょ」


 乃亜は平然と言った。

 ひかりと紗織は、今まで見たことがない剣幕で声を荒げる愛果のことを、目を丸くして見つめた。


「そういうことを言ってるんじゃないよ! せっかく先生が優しくしてくれたのに、なんでそんな酷いことが言えるの?」


 言葉を発するほどに、一層体内の温度が上がっていくようだった。大好きな真崎のことを馬鹿にされ、これまで経験したことがないほどの激しい怒りを感じた。

 乃亜はそんな愛果の顔をしげしげと眺め、やがてにやりと笑った。


「愛果ちゃんって、あの先生のこと好きなの?」

「えっ? な、なんで、そうなるの」


 思いがけない指摘に、愛果は露骨に狼狽した。怒りが急速に影を潜め、焦りと羞恥が頭のなかを満たした。

 愛果のリアクションを見て、乃亜はますます嫌らしい笑みを歪ませた。


「好きなんでしょ。へえーそうなんだ」


 乃亜はくすくす笑いながら立ち上がり、入り口の方へと歩いていった。ドアに手をかけ、振り返ると口を開いた。


「明日、いいものあげる」


 乃亜が美術室を出てドアを閉めると、沈黙だけが部屋に残った。

 しばらくして温かい飲み物を四本抱えて戻ってきた真崎は、乃亜が帰ってしまったことを聞くと、


「じゃあ、余った一本を誰が飲むかじゃんけんするか」


 と特に気にする様子もなく言った。



 翌日の朝、乃亜の机には紙袋が置かれていた。中身は乾いた制服と紫のパーカーだった。朝のうちに、真崎が美術室に干されていたそれらを回収して置いてくれたのだろう。

 乃亜はというと、借りたジャージを朝のうちにちゃんとひかりに返却していた。洗濯もして綺麗に畳んであったらしい。これまでの行動や言動からすると返さないのではないかとすら愛果は思っていたので、意外だった。つくづく、読み切れない。

 だが、昨日の怒りが消えたわけではない愛果は、乃亜に自分から話しかけたりはしなかった。

 この日はそのまま平穏に一日が過ぎ去り、ひかりと一緒に美術室に行くため教室を出ようとした。すると背後から、「愛果ちゃん」と話しかけられた。

 振り向くと、そこには乃亜がいた。


「……なに」


 不機嫌に愛果が返事すると、乃亜が愛果の手を握った。


「ついてきて」


 乃亜は強引に、同じ階の少し離れた位置にある空き教室まで愛果を連れて行った。教室の奥で立ち止まると、乃亜はポケットから取り出した何かを愛果に見せた。


「これ、あげる」


 それは小さな瓶だった。百円均一店で売っていそうな、ちゃちでありふれたガラス瓶だ。なかには透明な液体が入っており、窓からの陽光を受けてきらきら輝いた。


「何、これ?」


 愛果は怪訝な表情で訊ねた。


「これは『夢の薬』だよ」

「何それ」

「この薬を飲んで眠ると、夢のなかで大好きな人を思い通りにできるんだ。キスしたっていいし、もっとすごいことだって、何でも思いのままだよ」


 愛果は胡散臭そうに小瓶を見つめた。そんな薬、聞いたこともない。


「しかも、その夢は普通の夢と違うんだ。夢のなかのことが、まるで現実みたいにリアルなんだよ。目の前に本物のその人がいて、本当に触れてるみたいに感じられる。肌の柔らかさとか、体温とか、現実と全く一緒なんだ。すごいでしょ」

「なんか、違法なやつじゃないの、これ」

「全然。これは完全に天然のもので作られてるから、めっちゃ合法だよ」


 そう言って、何がおかしいのか乃亜はくすくすと笑った。

 乃亜は愛果の手をとって強引に薬を握らせた。


「じゃ、夢のなかで先生と楽しんで」


 それ以上愛果の言葉は聞かず、乃亜は空き教室を出て行った。

 一人残された愛果はしばらく、手のなかの小瓶をじっと見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る