第2話 シャチ

 昼休み、愛果はいつものように、美術室でひかりと昼食を食べていた。ひかりは母親の手作りの弁当で、今日はサンドイッチだった。愛果はコンビニで買った大根おろしとツナのパスタを頬張っている。


「本当、最悪だった。ああいうのは教室以外の場所でやってほしいよ」


 愛果は今朝の一部始終をひかりに話していた。


「でもさあ、そもそも悪いのはその片桐さんでしょ? 畑中さんに意地悪なこと言ったりしてさ。教室じゃなくてもやっちゃ駄目でしょ」

「そうなんだけど、畑中さんもなんか、火に油というか、わざと怒らせるような感じがあるんだよね。穏便に済ませる気は全くない感じ。これからさあ、あんなのが毎日あるのかなあ」

「しょうがないんじゃない? 畑中さんはきっと、対決するつもりで、勇気を振り絞って学校に来たんだよ。そこは愛果ちゃんも味方になってあげないと」



 ひかりは実に美味そうにサンドイッチを頬張った。

 愛果は自分の憂鬱に賛同が得られなかったことに不満を抱きながらも、ひかりの意見は正しいので反論できなかった。


「そういえば、こないだ片桐さんが告白されてるの見たよ」

「ええ、また? 誰に?」

「愛果ちゃんと同じクラスの、名前なんて言ったかなあ、背が低めでちょっと髪染めてる子」

「誰だろう。脇本くん?」

「あーたぶんその子」

「それで、どうだった?」


 愛果は前のめりに聞いた。


「普通にフラれてた」

「だよねえ」


 莉緒は男子から非常に人気があった。時折ターゲットを見つけてはイジメをしていたが、その欠点を上回る容姿の力があった。特に、莉緒の性格を知らない他クラスや他学年の生徒にとっては単に美しい同年代の女子でしかなく、これまで何度も告白されていた。彼氏はひっきりなしに変わっており、今は聞く限りでは大学生と付き合っているはずだ。


「すごいなあ、片桐さんは」


 ぽつりと、溜息のように愛果は言った。

 愛果は莉緒のことが好きではなかったし、むしろ苦手でほとんど話したこともなかったが、内心羨んでいた。

 愛果は自分の容姿が嫌いだった。鼻は低いし、目も小さい。だからいつか、大人になって資金を貯めたら整形しようと思っていた。しかしだとしても、手足の短さはどうにもならず、莉緒のようなスラッとしたモデル体型には決してなれない。どんな犠牲を払っても追いつけない絶対的な差が、生まれながらに存在している。

 愛果は空になったパスタの容器をぼんやり眺めた。

 誰かに愛してもらえる人はいいなあ。何もしなくても、人に好きになってもらえる人はいいなあ。そんな人なら、自分が好きになった人にも、簡単に好きになってもらえるんだろうなあ。

 誰かと両想いになることなど、愛果にとっては絶対に実現不可能な夢物語でしかなかった。

 真崎のことを思い浮かべた。真崎と付き合えるのなら、どんなものを犠牲にしてもいいと思えるほどだった。だがしかし、真崎のような素敵な人物が自分を好きになることなど、万に一つもないだろう。

 そんなことを考えていると、どんどん気持ちが沈んできた。いつもこうだ。だがこのネガティブな性格はどうしようもない。ネガティブにならざるを得ない要素が自分には多すぎる。

 いつの間にか話題が変わり、ひかりは昨日ネットでバズっていた何かの動画について楽しげに話していたが、愛果の耳にはあまり入ってこず曖昧な返事を返すだけだった。



 部活のある日は帰宅が遅くなる。愛果の家の近所は街灯が少なく、十月にもなると、場所によってはかなり闇が濃くなってしまう。帰り道、いつも愛果は周囲に警戒しながら自転車を走らせていた。

 愛果が家のドアを開け、「ただいま」と暗い廊下に声をかけても、返事は返ってこなかった。父は部屋で仕事をしているはずだが、いつものことだった。

 手を洗っていると外で車の音がした。洗面所から顔を出すと、玄関扉が開き母が現れるところだった。


「あれ、愛果いま帰ったとこ?」

「うん。今日は部活だったから」


 母はため息を吐き、「なんだ、じゃあ私が作んなきゃじゃん」と言った。

 愛果の部活のない日と、母が残業の日は、愛果が夕食を作るルールになっている。


「ごめん」


 謝る必要もないのに、愛果は反射的に謝った。

 母は手を洗ってキッチンに向かうと、手早く肉野菜炒めと味噌汁を作った。米は朝に炊飯予約したものがある。食卓に準備されたのは二人分。父の分はない。

 愛果は部屋着に着替えてテーブルに着き、母の仕事の愚痴を聞きながら食事を口に運ぶ。誰誰の仕事が遅いとか、客があり得ない量のゴミを残していったとか、そんな内容だ。

 母は山のなかにあるグランピング施設のマネージャーをしていた。三年前にオープンしたばかりの施設で、年々利用客数が増え業績は好調らしかった。

 忙しくなれば忙しくなるほど母の愚痴は増えた。そして家でその愚痴を聞くのは愛果の役割だった。

 二年前から父は夕食に顔を出さなくなった。元々冷え切った夫婦関係だったところに、些細なきっかけで喧嘩をして、それから父は母の作ったものを口にしなくなった。フリーの翻訳家である父は、仕事の時も、そうでない時も、ほとんどの時間を自分の部屋で過ごすようになった。たまに愛果と顔を合わせると取ってつけたように近況などを聞いてきたが、本心で関心があるとは思えなかった。

 外交でアウトドアや旅行が好きな母と、内向的でゲームが好きな父はタイプが真逆で、どうして結婚して子供まで作ったのか愛果にはまるで理解ができなかった。こんな息苦しい生活を送るくらいなら結婚などしなければよかったのに、といつも思っていた。


「愛果さあ、そろそろ彼氏できた?」


 嫌な話が始まり、愛果は俯いた。


「まだいない」

「あんたさあ、もう十六でしょ? 私が十六のころなんて、三人目の彼氏と付き合ってるころだよ。好きな男とかいないの?」

「……いない」

「ふうん。あんたってほんと、私と似てないよね。顔が似てないのはしょうがないけど、性格も全然違うもんなあ。そんな地味だとさあ、絶対モテないよ。あーあ。なんであいつに似ちゃったのかなあ」


 母の話を聞きながらだと、肉野菜炒めの味が全く感じられなかった。口に運び、咀嚼し、飲み込む。栄養摂取のための反復動作を、皿が空になるまでひたすら繰り返す。

 夕食の洗い物を終えると、愛果は自室に向かった。ドアを閉めると、ふーっと長い息を吐く。息と一緒にようやく体から緊張が抜けた。

 机の引き出しを開け、シャチのキーホルダーを取り出す。真崎が旅行に行った際、美術部員へのお土産として買ってきてくれたものだった。

 愛果はそのキーホルダーを手にしたままベッドに横になった。

 これは数百円で買える安物のお土産なのかもしれないが、愛果にとってはただのキーホルダーではない。好きな人が、自分にプレゼントしてくれた宝物だった。

 愛果は寝転がりながらシャチのキーホルダーをしばらく眺め、やがて胸に抱き締めた。これは真崎の分身だった。真崎の細長い体を抱き締めるつもりで、愛果は小さなシャチを抱きしめた。

 かつて部活で一人で絵を描いていた時に、真崎がかけてくれた言葉を思い出す。


 ──須磨の絵、なんかいいな。孤独な時間を過ごした人にしか描けない絵だ。


 あんなに嬉しいことを言われたのは生まれて初めてだった。この人は私を理解してくれている、そう思った。

 今にして思えば、あの時が真崎を好きになるきっかけだったのだろう。

 キーホルダーを抱き締めながら、愛果は無性に泣きたい気持ちになった。

 一度でいいから、こんな風に真崎を抱き締めてみたい。抱き締められてみたい。たった一度でいい。たった一度で。

 その思い出があれば、たとえその後の人生でずっと孤独だったとしても、生きていける気がする。

 愛果はしばらく、真崎への思いを抱えたままベッドに横たわっていた。ドアを隔てて聞こえる、「早くお風呂に入りなさい」という母の声によって現実に呼び戻されるまで。

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