ただ曇天に在れ

mahipipa

哀悼

 雨でほどけた提灯は、さながら黄泉とこの世を繋ぐ白い糸だった。


 八月十四日。曇天模様の空からは、時折ぱらぱらと雨粒が落ちてくる。そんな雲ごと天が落っこちてきそうな日に、ぼくは花束片手に墓参りに出た。からっぽのピンクのバケツに井戸から水を汲んで、柄杓をたっぷりの水に沈める。ずっしりとした重みを手に、ぼくは井戸の前から歩き出す。


 ぼくが訪れたのは肉親の墓ではない。一年半ほど前に死んでしまった友人の墓である。ネットで知り合って、実際に会ったのは数回であったが、ぼくにとって彼女――三田は特別な友人だった。


 彼女の名を頼りに、ふるさとから遠く離れた場所まで来るほどに。


(黒井には悪いけど、これは一人でやらなきゃいけないことだから)


 ぼくはもう一人の友達に心のうちで謝罪しながら、三田の眠る墓へ向かうため、坂を登る。道端に並んだお地蔵様が、ぼくの足取りを見つめている。


 人通りは少なく、古い霊園に帰ってきたご先祖様の気配はない。ただ、彩度の低い空に負けず、青々と茂る草や木々の向こうから、蝉の叫ぶ声が響いてくるので賑やかだ。この頃、さんさんと照る太陽を前になりを潜めていた彼らも、ほどよい気温の今日ばかりはと、懸命に命の活動に勤しんでいた。


 ぼくとは大違いだ。ぼくは自らの命を信じられる蝉がうらやましかった。


「やっと来たよ、みぃちゃん。遅くなってごめん」


 そう墓に呼びかけながら、ぼくは花を供える。バケツを置いて、軍手を嵌めて、草むしりを始める。雨が降り続けた墓の土は柔らかい。

 故人を悼むために草に殺生を働くことに抵抗がないわけではないが、ぼくはただ、今、自分に与えられた仕事をこなそうと、彼らを土から引き抜き始めた。細いひげ根が、軍手の繊維に絡みつく。この殺戮を、誰も気にしない。


 ぼくは日銭を得て暮らす物書きだ。きっと、ある程度の人は焦がれる職なのだろう。だけど、いつだってぼくは土壇場に座りっぱなしで、死神に首を切ってもらうのを待っている。あるいは刀を手渡して貰える日を。


 ギリギリまで食事を抜いたり、徹夜したりして、ぼくは死を手元に置きたがる。死は、ぼくにとって身近な存在だった。おそらく、三田もそうだったのだと思う。


 三田と黒井とぼく。ぼくらは三人で一時期一緒に遊んでいた仲だ。それぞれに絵や物語を持ち寄って、時に自らの思想を語らってきた。


 三田は独自の世界観と言語センスを持ったひとだった。その意味、真意を求めて、ぼくらはよく話したものだった。彼女はどこか、人ならざる魅力にきらめいていた。


 平和に暮らしていたある日、ぼくは三田とケンカしてしまった。黒井も困らせた。彼女と黒井は許してくれると言っていたが、ぼくは自らの恥に耐えられなかった。その後も何度か会ったけれど、ぼくの心には鋭い棘が刺さったままで、ついぞ、それが解消されることはなかった。


 疎遠になって少しして、彼女は労働と家庭環境、そして何より未来を苦にしながら死んでしまった。一番の親友である黒井を置いて。


 ぼくは彼女が死んだその日ものうのうと生きていた。彼女の死を知るや否や、ぼくの棘は増えて、一層、彼女の死というものから距離を取ってしまった。


 一年半。それが、ぼくが彼女に会うために必要な時間だった。棘が抜けたわけではない。サボテンになりすますことに慣れただけだ。今でも、ぼくは自らを恥じている。


 土は軍手をはめたぼくの手を受け入れてはくれるけれど、雨を吸ったその匂いは、ふるさとの土よりずっと濃厚で、よその土地なのだと思い知らせてくる。ぼくはいつだって、よそものの命だった。


 密かなぼくの苦悩を三田と黒井は知っていた。それは、自らのアイデンティティについてのことだった。


 ぼくはいわゆるマイノリティだ。


 男にもなれず、女にもなれず。恋愛感情を持つ真似はできても、人の語る赤裸々な物語の、芯にある狂おしい熱を感じ取れない。鉛の箱の中に、ぼくはいる。


 弱者が弱さをもって強者を容易に虐げることができる今においても、ぼくはそうしたことを世に秘密にして、この不完全な身体と心を震わせてきた。ミソジニーとミサンドリーのねじれた組紐みたいな世界で、どうやって生きていきたいのか、未だに分かっていない。


 穏やかに暮らしたいなら黙しているしかない。だというのに、口を開けば殺されるかもしれない断絶の世界で、キーボードを叩き続けている。そういうぼくのひねた生き様を、二人は知っていた。



「まあ、なんとか生きてる。今も文章、書いてるんだ。うん、会った時からそうだったね」



 彼女にそう語り掛けて、ぼくは柔らかな土に指をねじ込んだ。砂利の下に根ざした主根の質感を見つけ、それを辿る。ぐっと引っ張ると、主根の真ん中から下半分が切れて、地面に逃げ込んだ。探すとがっちりと地面に食いついて、離れようとしない。


 往生際が悪いぞと、もう一度引っ張ってみる。根は、深く深くに入り込んで、命であることをやめようとしない。数分格闘したが、結局、草の根っこの一番先がどこにあるか、ぼくには分からなかった。


 土にまみれた軍手から、ほのかな湿気が伝わってくる。命を生かす潤いだ。まとわりついて、ちょっと気持ちが悪い。


「中傷も受けたけど、やめられないんだと思う。やめようとも思わないけど」


 ぼくは一人で勝手に苦笑いして、くたびれた葉っぱを束ねた。


 これを言ったなら、三田は笑ったろう。少し前まで、ぼくはけりをつけて、まともになりたかったのだと思う。世間一般から見て恥ずかしくない姿というのがぼくにとっての狂気のかたちだ。今でも不安になると、まともでないことに対して気が狂いそうなほどの恐怖に見舞われる。


 ぼくは、ぼくが恥ずかしいのだ。「もっと本当の自分を出して」という言葉が苦手だ。ぼくの人と少し違うところのせいで、静かに暮らしてはいけないような心地がする。全ての困難の矢面に立ち、戦えとせがまれているような気さえしてくるからだ。それは土壇場で刃を差し込まれて死ぬのとは違う。もっと血なまぐさくて、自我の一片まで破壊されるような戦場だ。ぼくは覚悟を決めて静かに死にたいのであって、大勢から石を投げられて死にたいわけではない。


 害意のかたちは、今、墓石に這う名も知らぬ虫によく似ている。赤と黒で棘があって、妙に長細くて、威圧的だ。ぼくは虫に、指を伸ばす。


 この虫に刺されて、毒が回って、死んでしまったとしたら。そうしたら、彼女のところへ行けるんじゃないだろうか。彼女の苦悩を直に聞きにいけるのではないだろうか。そうして、そうして、ぼくさえ救われるのではないだろうか。


 ――今ここで死んだら、最高のハッピーエンドだと思うんだよね。


 かつて、幸せそうに三田はそう言った。思えば、その頃から死の気配はあったのかもしれなかった。


 彼女の発言を生真面目な黒井は咎めたが、ぼくはしばらくの間、彼女の言葉に魅了されていた。幸せの絶頂で死ぬ。もう苦しみなんか放り出して、胸の中にある幸福を永遠のものにして、人生を終わりにする。何と甘美な響きだったろう。でも、それさえ過去の話だ。


 虫に伸ばした手を止めて、ぼくは隈のついた目を閉じ、じっと蝉の喧噪に耳を傾けた。去年、肉親の墓参りに行った時は、コゲラの樹を叩く音も聞こえていたが、ここにはいないらしい。あの小気味よい音が恋しくなって、しばらく佇んでいた。が、近付いてくるのは蚊の音ばかりだ。ばたばたと手を振って、蚊を追い払い、ぼくは草の束を持ち上げる。


 草を指定された場所に持って行って、静かに積む。植物の青臭い香りが立ち上っている。ぼくは匂いを鼻いっぱいに吸い込んだ。いつだって冬みたいに乾いた鼻腔の中が、外と同じ夏になる心地がした。


 しばらく三田の近所に住んでいた黒井もふるさとに帰り、ぼくらは離れ離れになった。否、離れ離れと思っているのはぼくだけかもしれない。黒井はいつでも声を掛けてほしいと言ってくれていたから。


 黒井を連れてこなかったのは、三田と二人で向き合いたかったからだ。結局、ぼくは一度ケンカしたっきり、鉛の箱から出なかった。墓石を磨いても骨壺が見えないように、どれだけ鉛の箱をつつかれても、ぼくの心は箱の中から出られなかった。


 生き残ったぼくと黒井は、互いに思う心の距離が違う。黒井は近すぎる。ぼくは遠すぎる。ぼくらは互いの孤独を埋め合わせられない。


 それでも、ぼくは三田のハッピーエンドを選ばないでいる。ぼくを頼りにしてくれる顧客や、新しくできた友達、このような不出来なぼくを受け入れてくれる母のためかと言われれば、それはそうだ。けれど、今はもうそれだけではない。


「みぃちゃん、ぼくはもうちょっと生きるよ。やりたいことができたから」


 墓前に戻り、蝋燭を灯し、線香に火を点けてから、ぼくは煙を見上げて呟いた。


 ぼくの中には、一つの物語がある。頼りない主人公が皆の力を借りながら、差し出される一方的な愛を振り切って、前へ前へ進む話だ。三田が生きていた頃には書き始めていたが、彼女が知ることはついぞなかったろう。


 ぼくは主人公の物語を終わりまで進めたいと思っている。初めて、ぼくが自我をもって抱いた明確な欲求かもしれなかった。ぼくは物語を介して、やっと命に触れられたのだ。


 他にも、ぼくの頭の中にある物語はたくさんある。それは出版さえされていない秘密の世界だ。ぼくが記さねば、消えゆくものだ。そこにはぼくさえ知らぬバッドエンドもあるだろう。それでもだ。


 三田はぼくの物語を愛してくれた。ぼくの登場人物を愛してくれた。灰色のぼくの世界に、黒井と一緒に色を付けてくれた。


 結局、この墓参りが何かと言えば、やっと言えるお別れであり、新しい旅立ちの挨拶なのだ。まだ長く続く別離、あるいは物語を書くという巡礼の旅を、ぼくは続けていかねばならない。そうありたいと望むからには。


「だから、次に会うのはずっと先になると思うよ。待っててね」


 軍手を外し、数珠を手にお祈りをする。ぼくらに信じる特定の神なんていなかった。この祈りがどこのどの神様に届いて、どういう意味を為すかも分からない。それでも祈らずにはいられない。三田の安息、黒井の未来、ぼくの旅の安寧さえも、空高くに投げ上げる。


 ぼくはじっと、蝉の叫びさえ聞こえないほど彼女の死に寄り添って、目を閉じた。


 どこまでも土の匂いだ。金属質の死の気配が今でも感じられる。それは、今は盛り土の上に置かれた箱に見えた。調和して、完成されていた。どこにも入り込める場所はない。ぼくの居場所は、もう、ここにはない。それを感じ取れることは、ぼくにとってのさいわいだった。


 目を開けば、いよいよすることがなくなってしまった。あたりは蝉の声に満ちて、青々と茂っている。狂おしい命の夏が、ぼくを抱きしめている。


「……じゃあね。また」


 ぼくの言葉は、最後の最後までぎこちなかった。掃除道具を片手に、ぼくは最後に一度だけ、綺麗になった墓へ振り返った。彼女の姿が見えるなんてロマンチックな奇跡はどこにもない。土壇場の大逆転とやらもない。ただただ、現実があり、道があるだけだ。


(あ。黒井だ)


 霊園の外へ出ると、丁度SNSのメッセージから黒井が話しかけてきた。数ヶ月ぶりだ。ぼくは返事をして、汲み上げ式の井戸を動かして手を洗う。泥は落ちるけれど、水だけでは匂いは取れない。


 ぼくは自らの指に鼻を近づけた。虫除けと土の臭いが絡まった指先からは、墨の匂いがした。


 これがきっと、彼女が死に、ぼくが生きる土壇場の匂いなのだと思えば、覚悟を決めて前を向ける気がした。


 ぼくは空を振り仰ぐ。穏やかな灰色の蓋が、暑すぎる太陽を遮ってくれていた。

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