逆らう
……なんか眩しい。電気消してよミッくん。どーせゲーム実況かゲームでしょ。
付き合い始めてあたしの部屋に早々に転がりこんだミッくんは、当たり前に「ご飯作ってよ」と言った。付き合いたてはまぁいいかと思って作ってた。好かれたい気持ちは底なしだったから。付き合いたてってそうでしょ? でも片付けを手伝うわけでもないし休みの日に代わりに作ってくれるわけでもない。だからあたしが仕事を理由に手作り夕食からフェイドアウトしたらカップ麺になったんだよね。お湯は沸かせるんだもんね。
洗濯も当然みたいに一緒にしてさ。シャツはいいよ、そこはやってあげる。でもなんで自分の家で洗わないの? 「ヨリと一緒だと寂しくない」「節約になるじゃん」じゃあ生活費折半してよ? 「外食とお出かけ代は俺が持つからさぁ」何もかも点けっぱなしで寝落ちするミッくん。「疲れてるんだよね」こっち向いてる靴、丸まって落ちてる靴下、汁の残ったカップ麺。付き合った頃はもうちょっと優しかったし謝ってくれた。建設的な会話もあったような気がする。でもそう同棲って最終的にはこんなもん。だから察したんだ、急に自分ん家に帰るなんてさ。
――ってか早く電気消してよミッくん、あたし、もうがっかりしたくない!
ぐわんぐわんエコーがかかった。大声を出した。あぁあたしって、がっかりしてたんだ。
そうしたらソファで鼾をかいてたミッくんが急にゾンビみたいに起き上がった、こっちに来る。強く肩を掴まれた、揺すぶられる首ががくがく振れるほど。やめて、やめてよ。頭が痛い、ぐるぐる視界がまわって気持ち悪い。
「なぁ起きろってば」
「……ぁ? う、ぐぅ」
胃が猛烈にむかついて咄嗟に口を覆った。あぁ。吐く、今すぐ吐ける。側で「おいまさか」と声がして、外に引っ張り出された。懸命に
「大丈夫なのか?」誰かが言った。「……みず」なんで吐いた後って歯がキシキシ言うんだろ。不味い。
舌で不味さを撫でてるうち、徐々に頭がすっきりし始めた。そして自分の体勢が相当恥ずかしいことを自覚する。腰から下はテント、上は川っぺりのコンクリ地面、顔は川面。絶対顎には砂粒か苔がついてる。全身がさっき食べたサラダに入ってた透明で細長いぷつぷつ切れる海藻になったみたい、あたしは味気もそっけもない虚無。とにかく誰かに見つかって限界女子wとかって拡散される前に家に帰らなきゃならない。
ずりずり下がって横向きになった。はぁ。息が色々と臭い。こめかみと頬に地面のでこぼこが刺さってまた少し目が冴える。するとスマホっぽい光があたしを照らした。見覚えのない男が「ほら水、かけるぞ」とあたしの口元に水を垂らした。
「ぅぶっ……ちょぉ!」
砂が刺さってた頬が不快に濡れた。
「少し上向けよ、口に入れてやるから」
あたしは迂闊にも同じタイミングで仰向けになった。だから唇どころか鼻にまで落ちてきた水量に盛大に噎せた。
大人ふたりが足を伸ばすともう窮屈なテントだけど、結構しっかりしたクッションが敷かれていて温かいブランケットもあった。「夜は寒いから」とぶっきらぼうに言う男――といってもたぶんあたしより若い――は端に寄って胡坐をかいている。
「ご迷惑をおかけしました」
あたしはありがたくそれを頭からかぶって三角座りしている。酔い覚めてはきたけど、まだ土手を上る元気はなかった。
「少し休んだら帰って」
男はスマホを覗きこんでこっちを見ない。当然だ、酔っぱらってゲロ吐いた女と目を合わせたい人なんていない。こうやって場所を分けてくれてるだけで親切な人だ。いや断じるには早いかも、こんなところで安いテントで寝泊まりしてるからには深い事情もありそうだし。
待てよヤバいやつなのでは。
「あ、もうわたし帰」
しかし遮るように着信音が鳴った。咄嗟に向けた視界で男もなぜか目を剥いている。やっぱり若いなもしかして学生、と思ったところで男が苦々し気にスマホをタップした。
「はい……あぁ。うん……今風呂」
さっきより数段低い声に驚く。しかも苛ついている。
一瞬遣ってしまった視線をそっと外し、自分のバッグを無意味に漁った。お風呂なんか入ってないじゃん、川じゃん。まぁ人のことは言えないけど。
どこまで流されたんだろ、あたしのスマホ。衝動的に捨てたのには少々反省していた。高いし、手続きが面倒だから。それに酔っ払いにもほどがある。
まぁいいか、捨てちゃったし。まぁ、いいか。
いつもの平穏のおまじないを口の中で唱えた。でも、まだキシキシいうのが酷く不味くてやめた。波風が立たない生活が一番なのに、執着すると不幸になるのに。ある程度の諦めも肝心なのに。だからあたしはねミッくん、ミッくんのくだらない遊びに流されてるつもりはないんだよ。あたしは自分の意思で流れてるんだよ。ミッくんが浮気してもサノちゃんが内心あたしをバカにしてても、あたしはそうされることを受け入れてる――流れに逆らっても疲れるだけ、ペースが乱れるだけ。それが一番嫌だから。
……なんで連絡できないのって、面倒なことになるかな。いや別に普段、連絡なんか取り合ってなかったや。
でも、もしも。
あたしは男の持つ、薄っぺらい光を眺めた。手と顔に挟まれて薄目で見ると宙に浮いてるみたい。
もしも、何かの拍子にミッくんが連絡してきたら、川底で画面が光るのかも。それをプランクトンとか小さな川虫が「なんだこいつ」って眺めるのかも。
それと通話が切れるのは同時で、男は白いライトに照らされたホラー顔であたしをはっきりと睨んだ。
「なに笑ってんだよ」
ただその声はむくれる一歩手前みたいな、口を尖らせる小学生みたいなニュアンスがあって、あたしは「ぐふっ」と吹きだした。
「あれだけ吐いたのにまだ酔ってんのかよ」
訝しく寄った眉がもはや可愛らしく見えてきた。あれだ、実家の近所の子どもを見かけた心地。
「違うって。さっきスマホ川に投げたの思い出してさ」
「は?」
「着信来て光ってたら面白いなぁって」
「いや……全然笑えねぇ。捨てた?」と言った彼の顔が本気のドン引きだったから、あたしは口を噤んだ。
ざざぁざざぁと川が流れてるのを聞きながら、あたしたちはしばらく黙った。その間、何度か彼のスマホが光った、LINEじゃない着信らしき長さで。三度目、苛立ち紛れに通話する彼に少し同情したのは酔っていたせいじゃないと思う。「何の用だよ、何度もかけてくんなよ」「うるせぇ」「ほっとけよ」諦めればいいのに相手もしつこかった。
「……今のって、親?」
ぽいっとクッションに投げ出した長方形がうつ伏せてテントの中が真っ暗になった。それであたしは尋ねることができた。明らかに彼女って雰囲気ではなかった。
「過保護ってやつなの?」
身じろぎ。
「過干渉」
「なんか束縛つらそう」
背を丸めたシルエットが重く答える。
「俺を自分だと思ってんだ、同じ考え方をするはずだってな。知らない奴の家に泊まってるのが許せないんだろ」
あたしも身じろぎ。
「とっくにハタチ過ぎてんだぞ、アホか」
「なんでなんだろうね。まったく別の人間なのにね」
実感がこもってしまった。ミッくんも同じだ、あたしは裏切らないし何をしても受け入れると信じてる。妄信してる。あれれ、ものすごい違和感。
「それで……
「まぁな」
いいんじゃないの、別にミッくんがあたしを従順だって思ってても。それで平穏ならまぁいいか、いいか……いいよね?
「……電源切っときなよ。それかあたし、ひと思いに捨ててあげよっか」
努めて出した明るい声に彼は「切る」とスマホを完全に沈黙させた。慌ててたから、あたしが本気だって伝わったんだろう。
ざざぁ――――。まるで雨が降るみたいに川が鳴っていた。それであたしは当初の目的を思い出した。完全に酒の勢いで掲げた、あたしが守り続けた平穏をぶっ壊す行動。
下手すると捕まるか痛い目見るぞと理性が脅す。でもその目的が、ううん過程が明日の景色が、あたしを強くゆすぶる。
「……ねぇ」
「なに?」
「例えば『今日は自分ん家に帰る』って送ったLINEに、『うんおやすみ』って必ず返信する人がいたとして……」
「うん」
「もし『うんおやすみ』って返って来なかったら、気になる?」
彼は「まぁ、そりゃあ」と歯切れ悪く答えた。
「先に寝たのかな、とか思うけど……関係性が分かんねぇからアレだけど……」
胡坐でやじろべぇみたいに揺れる黒いシルエット。
「でも習慣になってたなら、気になるか。俺なら朝とかにLINEするかもな」
するだろうか。
だけど同時に、気にも留めてなかった習慣に気づく。ミッくんは浮気をした翌日、当たり前の顔をしてあたしの家に帰ってくる。コンビニでカップ麺を買って帰ってくる。必ず『今から行く』と連絡をしてから。
あたしの脳内では川底で光るスマホの映像が再生された。何度光っても、あたしは出ないよミッくん――。
「ねぇ」
ざらついたあたしの声は狭いナイロンの中で粘っこく響いた。
「今から、親には言えないようなことしない?」
彼がこっちを見た気配。だけど「は? 何言って」と反駁を含んだ返事に勢いはなかったから、あたしはブランケットの隙間から手を伸ばした。冷えた空気が入りこんでお腹から上が粟立った。
指先にデニム生地の感触、なんだお揃いだあたしたち。膝の出っ張りを撫でるとぎくりと彼の体が揺れた。
「なに、なん」
ブランケットを羽みたいにして横から抱きついた。我ながら痴女すぎる。だけど思わず息が漏れた。弾くような人肌はシャツ越しでも温かかった。
実に半年ぶりの他人のぬくもり。河童じゃなくて人間で良かった。それに触れたときだけ感じるような不清潔さもだらしなさも彼にはなかった。
片腕があたしの作った輪から出ようともぞついたから、あたしは胸の間で押さえこみながら頬を肩口に預けた。硬さも匂いもミッくんとは違う気がした、だってもうどんなだったかも朧気だ。
「なにしてん、だよ」
「抱きついてる。あったかいね」
「……酔っ払いって怖ぇ」
アルコールが気を大きくしてる自覚はある。胃も脳みそも空っぽの痴女の誕生。とにかく、あたしは全力でこの人を誘うんだ。
ずりずりと背中の方に移動してコアラみたいになった。少しひんやりとした綿の感触に胸と顔を押しつけてそこがぬくくなるのを楽しむ。くすぐったいのか時々揺れるから面白い。持って帰りたいなこの人。家に連れて帰ったらどうなるだろうミッくんどんな顔するかな。「ふっ」情けなく歪んだミッくんを想像してあたしは「ふっふっふ」笑いが止まらない。
「今度は何が面白いんだよ」
心底呆れた声で彼が言い、あたしは「なんでもないよ」と言った。
あたしってば、とっくにミッくんじゃなくて良かったんだな。だから平穏を優先できたんだ。
「ありがとう、ここに居てくれて」
「あのさぁ、ほとんど勝手に入って来ただろ」
「そうだっけ」
「そんで勝手に寝て勝手にゲロしただろ」
可笑しくてあたしは彼の背中に息を吹きこむみたいにして笑った。「くすぐったい、やめろ」「やだ」そうしてあたしたちは付き合いたての恋人みたいに向き合って抱き合って、ゴムがなかったから挿入こそしなかったけど、それなりに人に言えないことをした。真っ暗で何も見えなかったけど、意外とヤれた。あとゲロしたあとだからキスもしなかった。ほとんど外の、安いナイロンの中で夜明けまでくっついて眠った。
顔が、がびがびする。喉も痛い。軽く咳払いしたらすぐ横に寝ている男が寝返りを打った。薄いブランケットが持っていかれて急速に眠気が遠のいていく。そろそろと起き上がると、青白い朝がテント内にも染みこんでいた。どこからか生々しい匂いがして鼻を顰めた。隅に追いやられていたバッグを抱えてあたしは細心の注意を払いつつ、入口のファスナーを下ろして外へ出た。
「あっ」
本当の川っぺり! 数センチ踏み出していたら落ちていた。うっかり出た声は男には聞えなかったようだ。最後に見た男のうなじは、やっぱりあたしよりは若そうな色をしていた。あたしはぴったりとファスナーを閉じた。
裸足のまま青とも藍色とも分からない酸素を吸いこむ。あーどうしよう靴がない。巡らすと片方は一メートル川下に辛うじて引っ掛かっていた。もう一つは見当たらない。仕方なく取りに行きかけ、咄嗟に目を細める。日が昇った、朝陽が橋の模様を透かしてあたしを真っすぐに照らした。だけど、がびがびの顔が紫外線に晒される不快さにあたしは背を向けた。
するとテントの横にビニールのサンダルが行儀よく置かれていて、あたしは迷いなくそれを拝借した。ごめん、と短く拝む。サイズの合わない靴底で雑なコンクリがじゃりっと音を立てた。
川面がきらきら輝いて眩しい。雨で増水した流れは落ち着いたように見えた。土手を上って整えられた道を歩いていく。まもなく遠くに見慣れた国道が見えて安心した。なんだ、いつも電車で渡る川だったんだ。川上の二本先の鉄橋も、もうすぐ見えてくるだろう。
明るくなってきた。ファンデの鏡で眉毛とか目の周りをチェックする。すっぴんの方がマシな顔でげんなりだ。ってかあいつ、首に跡つけやがった。ダメだ首どころじゃないや。あー当分ワインは控えよう……タクシー拾う前にどこかでマスク買えるかな。
あと国道まで十メートル、陽気なワンコが飼い主を引いて近づいてきた。その賑やかな尻尾につられて、すれ違いざまに「おはようございます」なんて挨拶をした。
生まれたての朝陽がじわじわ背中を刺した。土手下で川が青く鈍くベルトコンベアみたいだ。あそこのどこかに、あたしのスマホが沈んでる。それだけは愉快。
芝の繁る砂利道であたしの影があたしを引いて歩く、遠くから車のエンジン音が近づいてくる。
今日も暑くなりそうな予感に、赤い跡の散る首を撫でた。あ、二の腕にまで。まぁいいか。
一度だけ川下を振り返った。ちっぽけで狭い四角錘は草丈に隠れてもうどこにあるか分からなかった。
サイズの合わないサンダルは砂利を擦ってなかなかに歩きづらい。だけどこれを玄関のど真ん中に揃えたら面白いことになりそうだと、あたしはほくそ笑んだ。
帰ったら秋物を洗濯をしよう。そんできれいに畳むんだ。
(了)
川底で光れ micco @micco-s
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